12 呪師(ツァオベラー)の知合(しりあい)
まだ、館の周辺を朝靄が包む頃――。
クルスは眼前に聳え立つ館に深呼吸を繰り返した。
あれから、一週間。
どう時が過ぎっていたかわからない。
気づけば、曙が黄昏へ。
陽が東から西へ。
そして、公爵家へ出発する日に。
流れる時計の砂は落ちる速度を緩めないのに。
彼の思考は遥か彼方まで遡り続けた。
まだ宝石眼と呼ばれることに慣れなかった、その意味すらしっかりと認識できていなかった本当に幼かった頃。
追憶の中で、確かにいつも笑っていた自分は、一体どこへ追いやられていったのだろう。
いつから、笑うことを辛いと感じるようになったのだろう。
いつから、旅に出始めたのだろう。
いつから、平気で嘘を吐くようになったのだろう。
いつから――。
自分を嫌いになったのだろう。
「ハッ」
乾いた笑いが出る。
やはり宝石眼と逢い見えた後は駄目になる。
その煌めきに己の瞳が焼かれそうになってしまうから。
しかし、今回は今までのそれを上回る。
あの漆黒の蒼き瞳――。
あんな瞳を生身の人間に宿すなんて。
震えが起きるほどに、恐ろしいと感じた。
総てを見通そうとする、あの残酷なまでに美しい瞳に。
敬服させられてしまうから。
完全ではない。
しかし、なにかを嗅ぎ取られた。
己の歪んだ望みの一端を。
この一週間。
それだけが、彼を何度も恐怖に突き落とそうとした。
もし、彼女が呪師になにか訴えていたら。
あの動物は、彼女をかなり大事にしている。
実際、己で隠しきれていないほどに。
きっと彼女の意見なら尊重する。
そうなったら。
代償は受け取ってもらえたが、少しも安心できない。
館内の階段をゆっくりと踏みしめ上がっていく。
今にも、底が抜けそうな足場。
それが、クルスの不安を増強させる。
あまりに、己の立場にお似合いだから。
コンコン――。
「開いてる」
内側から訪室の許可を得る。
勇気を出して部屋へ入った彼がその瞳に映し出したものは――。
一人の女がいた。
いや、女神かもしれない。
大輪の薔薇をあしらった礼装姿の。
胸から腰までにかけて、まるで豪華な花束を持っているかのような意匠。
彼女に、薔薇は最も相応しい華ではない。
そう思っていた。
しかし――。
淡い、完熟した桃のような色合い。
まるで人肌のような傍に置いておきたい恋しささえ窺える。
その礼装は、淡桃・濃黄・白の三本線によるマドラス・チェック模様だった。
遙か昔、船乗り、いわゆる海賊たちが大海原を大航海した時代に東方より流行したと云われる。
つまり、『海』に愛された模様。
そこも計算に含めてからかは知らないが、文句なく完璧な装いと言える。
時折、見え隠れする靴や耳飾、髪を艶やかに結い上げるのに使われている、まるで生きた胡蝶のような髪飾。
そして胸元に飾られているのは、おそらく彼女自身の涙を細工して造られた首飾。
その細部に至るまで、最高級品が揃えられていた。
色々、外側を褒め称えたが。
端的に言えば、美しかったのだ。
彼女自身が。
サファイアは、完璧な高嶺の華となっていた。
その薔薇の品種名、それは〝ピーチアバランチェ〟。
その花言葉は、愛や温かい心といった、人に安らぎを与える側面を持つ。
しかし、もう一つある。
〝君のみが知る〟
それは、なにを意味しているのか。
己の隠せていると勘違いしている真意を、本当は知っているぞという無言の訴えか。
はたまた、これを選んだ奴の嫌がらせか。
彼女を美しく咲かせられるのは自分、という自慢を周囲に振り撒く為の。
色々、言いたいことはあった。
詩人ではない己が恨めしい。
どの詞もこの台詞より先には言えない。
彼の開口一番は――。
「サ、サフィー?なんだか、やつれ……いや、痩せたのかな?」
こんなに美しく着飾られた女は、それを喜ぶどころか、本物の人形のように生気を感じさせない、なんと虚ろな表情、佇まいであろうことか。
まさか、己以上に切羽詰まった状況に陥っている人間が居るとは彼にも予想外だった。




