7-4
ずっと、きっと初めて出会った時から畏怖の念を抱いてきた――。
愛する人の地位を知った時、同時に彼の父親がどれほどの高見に長年君臨し続けているかに。
だから、再婚を反対されたあの日から彼と決別することもできず。
かといって公爵に面と向かって己の想いの深さを理解してもらおうと努力もできず。
ただ、時が過ぎ去っていった。
彼の後ろに隠れて成り行きを見守っていただけだった。
こんな風に視線を逸らさずに会話をするのは、きっと今日が最初だ。
誰かが、見えざる手で私の背中を押してくれている。
恐ろしい。
でも、知ってほしい。
この宝石の素晴らしさを。
私たちの真実を――。
「公爵。その宝石は偽物です」
「なんだと!母娘揃ってふざけたことを!公爵を謀るつもりか!」
宝石商はもはや、敬語も使えないほど動揺していた。
「私たちの詞を信じられないことはわかります。実際、私たちには宝石の詳しい知識はございません。前夫と死別した際爵位と屋敷以外の財産はほぼ売り払われてしまいましたから……。ですが、その宝石は……ペリドットだけは偽物だと判別できます」
「……どうしてだ?」
公爵が静かに訊ねた。
「ここを訪れる道中。汽車のなかで偶然にも宝石鑑定士の方と知り合いました。その方にペリドットの真偽を確かめる術を少しだけ教えていただきました。ペリドットは宝石のなかで複屈折性という特徴が備わっていることを」
「複屈折性?」
「ペリドットは、その石を覗いて物を視ると向こう側が二重に見えるという現象が起きるんです」
後ろで、侯爵がハッとしていた。
「だから、本物のペリドットを覗いて向こう側がなんの変化もなく透き通って見えるわけがないのです」
公爵は、迷わず目の前の宝石商を三白眼で睨みつけた。
「うっ……うわーーーー」
偽宝石商は、錯乱状態で逃走した。
「追って捕まえろ!絶対に逃すな!」
侯爵はすかさず家の者へ命令した。
廊下で男が激しく暴れる音と怒声が響く。
三大公爵家を謀る。
その罪がもし明るみに出た時。
その人間は、そのまま地獄への片道切符を手にしたことと同じ。
それを、片隅で聞きながら応接間には沈黙が漂った。
すると、ミリーは懐から手巾を取り出し、なかにキレイに包まれた小さな宝石を取り出した。
「……それは?」
公爵が自ら訊ねた。
「汽車でお姉ちゃまにいただいたの。これがペリドットよ」
ミリーが差し出した宝石を公爵は手に取った。
長年、多くのものを築き上げてきた皺が目立つ手のひらと、触れれば折れそうなやわらかい無垢な手のひらが重なった瞬間、確かにお互いの手のぬくもりを感じていた。
少女と同じく先ほどこの手で持った偽のペリドットと比べる意味すらないほど小粒の宝石。
しかし、なぜか心魅かれた。
あの男が持ってきた石を見たとき、価値があるならどの石でもいいと思った。
だが、この小さな手から受け取ったこの石は代用品のない唯一つの価値があった。
石を覗くと、確かに目の前の光景が二重に見えた。
透き通って見えた石の方が偽物。
真っ直ぐ見える光景が本当は正しくなかった。
歪みがあるものに価値があったのだ。
「なぜ、教えた?」
公爵はミリーに静かに訊ね続けた。
「私は、そうとは知らず愚かにも偽物を掴まされかけた。なぜ、止めた?私はお前の母親に酷い仕打ちをしたんだぞ」
ミリーは下を向いた。
「……ミリーはペリドットをもらった時本当に嬉しかったの。すごく笑顔になれたの。でも、お爺ちゃまがあの石もらったら笑顔になれないもの」
ミリーはもじもじしながら舌足らずに答えた。
公爵は、拳を握りしめた。
いつから、こんなに人を信じられなくなっていたのだろう。
こんな少女がなにか策を講じるわけない。
ただ、目の前の人間のために行動しただけだ。
私以外にもきっと同じように――。
「お前は、優しい善い子だな」
宝石を返却しながら呟いた公爵の詞にミリーは顔をクシャクシャに歪めた。
「ど、どうした?」
「う、うわぁーーーん!」
ミリーは急に大声で啼き出したのだ。
ユリーネも侯爵も突然のことに驚き立ち尽くした。
「ミリー、本当は悪い子!お屋敷のなかで大声を出したわ。お爺……さまって呼ばなきゃいけなかったわ。ミリーは、ペリドットをくれたお姉ちゃまに言ったの。失敗を恐れないでって。でも、ミリーは失敗したわ。お姉ちゃまと約束したのに。絶対にお爺……さまに気に入っていただかなきゃいけなかったのに。ミリーは……本当は悪い子なのよ!」
誰もその場から動けなかった。
こんな小さな少女にこれほどの重荷を与えていたなんて。
大人の勝手な争いに巻き込んだ。
それなのに、健気に自分の役割を全うしようとしていた。
恥ずかしかった――。
自分の大切な娘にある日いきなり他人を父と祖父と呼べと強要した己が。
恥ずかしかった――。
自分の愛する人を手に入れるために初めて会う少女に自分を父だと勝手に語った己が。
恥ずかしかった――。
自分の受け継いできた家の血を守るためになんの罪もない少女を無碍に扱った己が。
堪らずユリーネは愛娘を抱きしめた。
「ミリー!もういいわ。私が、間違っていたわ。こんなところまで押し掛けて。私は自分の幸せしか見えていなかった。母親失格よ。本当にごめんなさい」
ユリーネは啼き崩れた。
最初は、確かに新しい父親を得ることは娘のためにもなると考えていた。
でも、時が経つにつれ自分の幸せに天秤が傾いていった。
どうして、こんなにあっさり最愛の人と別れなければならないのか。
何度も打ちひしがれた。
だから、侯爵の優しさに甘えた。
寂しくて、幸せになりたかった。
誰かに寄り掛かりたかった。
自分は、この世で一人きりではなかったというのに――。
「フレウンド公爵様。私の身勝手な振る舞いをお許しください。もう二度とご迷惑はお掛けいたしません。……失礼します!」
「ユリーネ!」
「待て!」
侯爵よりも低く鋭い声で母娘を引き留める強制力のある声が響いた。