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ドサッ――。
サファイアは最後の台詞の小ささを。
しっかりと聞き取れるところまで。
この身がそこまで早く動けたのだと実感できるほど、素早く走れた。
そして、大司教がそのまま床へ倒れ込むのを、サファイアは支えることができた。
その身体は、背の高さに反比例してなんと心許ない細く貧相な重みだろうか。
「老いたって。――まさか!」
「あぁ。我は人より長く生きた。生きすぎたくらいだ。しかし、このアメシストの月と共に天に召される」
「嘘!イヤよ、なんで?」
サファイアは、知らず啼いていた。
これが、宝石眼同士の絆なのか。
初めて会うこの男の死に刃に貫かれる胸の痛みを感じるのは。
「いかんな。若い者はすぐ死を怖がる。我はこの人生を有意義に暮らせた。しかし、宝石眼を見つけ出したいという未練は燃え盛る炎の残りカスのように消えなかった。それを哀れにお思いになった神がついにお告げを下さった」
「……どんなお告げだったんですか?」
「ダイヤモンドを動かせばサファイアが自覚する、と」
「――!」
衝撃が走った。
サファイアは硬直し、周りが一斉にその信じ難き動機を確認する。
「じゃあ、ダイヤモンドの涙を盗んだ本当の理由は、サファイアの宝石眼を捜し出すためだったんですか!」
ユーリの叫びにも大司教は静かに汗の滴る苦悶の表情で笑って見せた。
「その通りだ。最初は確証などなかった。ダイヤモンドの涙を警備に悟られぬよう盗み出したが、ヴィレ王子が動くかは半信半疑だった。しかし、王子は動いた。善呪師に逢いに行くと言ってな」
大司教がヴィレに心もとない微笑みを向けた。
「しかし、我は焦った。王子は我と神の前で誓った手前、犯人を無理に暴こうとはしないはずだ。ならば善呪師に頼むのは宝石の在りかしかない。だから我は、手元に宝石を留めて置けなくなった。だから……」
「父の金庫に隠したのはあなた自身ですか?」
ユーリは横たわる大司教を見下ろしながら呟いた。
目の前の人間は、ウンシュルト公爵家にとって敵か味方か。
もし、後者であるなら――。
たとえ、その身が何者であっても、今すぐ朽ち果てそうであっても。
赦しはしない――。
「……いや。公爵に直接頼んだんだ。ガーネット月の最終日までこの宝石をなにも言わずに預かってほしい、と」
「父が……ウンシュルト公爵が、犯罪の片棒を担いだ理由を私に教えてください」
ユーリは訊いた。
これほどまで、父の真意を知りたいと願ったのは初めてだった。
いつだって、父の為すことに疑問を抱く必要などなかったから――。
「……ここを見てくれ」
大司教は左頬をよく見せた。
少し赤みがかって腫れていた。
ユーリは首を傾げた。
「……公爵に殴られた跡だ」
大司教が笑って告げる。
「え!」
「我は、彼の屋敷へ出向き宝石を見せた。死期が迫っている。一生で一度の頼みをさせてほしい、と。宝石を見た瞬間、彼は我に殴り掛かってきた。そして、床に倒れる我を尻目に黙って宝石を持ち帰ってくれた。今日までずっと……」
「……じゃあ父は」
ユーリの問いかけに、大司教はほんの一瞬ヴィレを見た。
「……以前、一度だけ訊かれたことがある。もし、宝石眼としての責務から逃れたいと考える者がいたら、それは可能なのか、と」
ヴィレが、息を呑み苦渋に満ちた顔で天を仰いだ。
やはり、彼は私の臣下だったのだ――。
ユーリも静かに大司教から眼をそらした。
「許してほしい。侯爵の父親にはなんの罪もない。私が、彼の些細な気づきに背を押してしまったのだ。利害の一致を理由にしてしまった……友人だったのに」
大司教がポツリと呟いた。
「えっ……?」
「年はかなり離れているがな。あやつがまだシリンフォード侯爵を名乗るのもおこがましい十代の頃、よくこの祭壇を訪れていた」
「父が祭壇に?」
そんな印象も姿もユーリは知らない。
神に頼るような行為を父はいつだって嫌うから。
『己の力を十二分に発揮できないから、そんなことをするんだ。神も可哀そうにな』
昔、そう聴いたことがあったのに……。
「しかも、神への信仰心からではなく、我への悪口を面と向かって言うためだけにだ」
「わ、悪口?」
「あぁ。色々言われた。神以外に話し相手もいないのか、とかなんとか」
「父がそんな発言をするなんて、信じられない」
ユーリは驚愕していた。
「十代だけなら、今の君の方がよほど次期ウンシュルト公爵に相応しいだろう」
大司教はそう言った直後に咳き込んだ。
「ッ!」
サファイアは、彼の身体を抱きかかえ息をするのがやっとだった。
彼を神のもとへ行かせない方法が見つけられない。
それが堪らなく悔しい。
祭壇に似つかわしくない、ある意味最も似つかわしい鮮血が床を染め上げる。
「……だが、神にこの身を捧げた我も彼と話すのだけは心地いいと感じていた。彼がウンシュルト公爵の名を継いだ時も自分のことのように誇らしい気持ちになった。だから、彼にしか頼めなかった。どうか、公爵を責めないでほしい。全て我だけの罪だ」
ユーリはそれを了承した。
両手の握り拳が震えるのも気づかず。
「……矢は?どうしてあんなことを」
サファイアは、悲痛な表情でやっと喉から声を発し訊ねた。
「あれは……本当に申し訳ないことをした。予定より君たちが早くこの王宮へ向かってると聞き、足止めをさせるつもりだった」
「予定?」
「サファイアの宝石眼はアメシスト月の幕開けと共に自覚するとお告げがあった。だから十二時を過ぎるまで我の元へ辿り着かれるわけにはいかなかったのだ」
「だから、矢の二射目が撃ち込まれてこなかったのね。でも、実際タッキーとヴィレは死にかけたのよ」
サファイアはきつく告げた。
一歩間違えれば、死んでいた。
それは、変わらない事実。
「……あれは、君のすぐ横を射抜くよう指示してあった。しかし、直前に君が矢に気付いてしまい、本来ならなにもない場所に壁ができていた。まさかあの一瞬で君の盾になる者がいたとは、計算していなかった」
大司教は力ない笑みを浮かべてタッキーとヴィレを見た。
振り向くと二人はそっぽを向いていた。
「でも、わからない。死ぬ直前まで他の宝石眼捜しなんて……」
サファイアは、問わずにはいられなかった。
己の命が尽きようとする瞬間に、人がしたいこと。
経験もない人間が外野からなにを言っても、それは所詮自分の命の期限を思考したことのない人間の戯言に過ぎない。
それでも――。
それを、使われる立場になるなんて思いもしないだろう。
自分の命だって、全部自分のために使っても人は足りないと感じるかもしれないのに。
どうして、その最後の一滴を人に与える?
きっと、簡単にはできない。
覚悟の上に、また覚悟がいる。
そんな、途方もない境地に見いだせる答――。
「おかしなことを訊くな……我はアメシストの宝石眼。地上の者が神への信仰心を高め続けるために存在している。己が死ねば宝石眼は僅か二名。民衆の神への信仰が薄れるやもしれん。だからこそ、死する前に一人は……と思ったのだ」
この人は、私を捜し出すために。
その崇高な命さえ二の次にした。
サファイアは、涙を流し続けた。
「啼くな。愛しきサファイアの宝石眼よ。私はむしろお前に恨まれる存在だ」
大司教は、肉付きの乏しい掌でサファイアの頬を撫でた。
「どうして……私のためにしてくれたことなのに」
「我は、なぜ宝石眼が転生する度に記憶を失い続けたのかを思案していた。……もしかすると普通の人間として一生を過ごしてみたかったのではないか、と結論付けた。好きなものを食し、好きな場所で暮らし、好きな人と生きる。そんな普通の人生を歩みたかったのかもしれん」
後ろに誰かが近づいた気配がする。
「……宝石眼は誰もが得られる〝普通〟の生活を二度と送れません」
ヴィレがまるで己の話をしているように呟いた。
「お前はサファイアの宝石眼として自覚した。だからもう、今までの生活を再び送ることは不可能となった。これからお前はなにをしても〝サファイアの宝石眼〟という二つ名が付き纏う」
――ゴホッゴホッ。
大司教の身体が悲鳴を上げている。
「……なら、あなたへの罰を今ここで与えるわ」
「小娘?」
タッキーは肩を震わせるサファイアの背に声を掛けた。
それでも、ここだけはできるだけ冷淡に告げる。
だって、感謝を望まない人の記憶に残すには、その逆をするしかないから。
「あなたは、転生しても記憶を失うことは許さない。そのままアメシストの宝石眼として再び生まれ変わるの。教会での生活も。大司教として生きてきた長い年月も。……そして私のことも。この世に新たな命を授かったその瞬間からあなたはアメシストの宝石眼として生きなさい」
「サファイアの娘……」
大司教はサファイアをその神秘の瞳で見つめた。
「また、私と出逢ってください……」
サファイアの瞳から涙が零れた。
そのうちの三粒がブラックサファイアの結晶となった。
サファイアはその一粒をもはや力の入らない大司教の手に握らせた。
「この宝石に誓って」
サファイアは、その手を上から強く握りしめた。
「……ああ。誓おう。このサファイアの宝石を胸に抱き、このアメシストの宝石眼、マハラート・セントリヒトの名に誓って――」
手が滑り落ちた――。
最後の大司教の涙は結晶として残った。
声にならない悲痛な叫びが響き渡った。
一陣の神風が吹く。
神ですら、その死を悼み啼く。
願わくば、ユヴェール神が彼の誓いの道を閉ざさぬことを――。




