5-4
扉の前で、一度深呼吸した。
そして、笑顔を戻す――。
サファイアが応接間へ戻ると、室内はしんっとしていた。
よくよく注視すると、タッキーは通常運転で紅茶を器用に飲み干していた。
王子の方は、下を向き無言だった。
空気がなぜか、正反対となっていた。
サファイアはハッとした。
(そうだわ!私、王子のご気分が優れないからお飲物をお持ちしようとしたのに!)
自分の使命すら果たせない。
相も変わらず自分は何も成長していない。
サファイアも居た堪れなくて下を向きながら、その豪華な扉を静かに閉めた。
すると、ヴィレが己の姿に気づき、すぐに笑顔を見せた。
それは、どこか安心したような顔だった。
「サフィー殿!良かったです。ずっとお戻りにならなかったので心配いたしました」
「けっ」
後ろでタッキーが舌打ちをしていた。
「どうしたの、タッキー?」
サファイアはそのままタッキーに近づいて訊いた。
「なんでもない」
タッキーは、杯を受皿に置いた。
「もしかして、紅茶のおかわり?頼んでこようか?」
そう呟くきながら、貴族は自分から飲み物を頼みに足を運んだりしないだろう、という常識に今更ながら気づいた。
(結果として、厨房に頼まなくて正解だったのね。お蔭で屋敷の方々に怪しまれずにすんだわ)
サファイアが、一人回想しているとそれを破るようにヴィレが声を上げた。
「サフィー殿!そちらはあなたの助手でしょう?まずは、主の紅茶を勝手に飲んでしまったことに怒りを感じてください」
「え?」
サファイアは、そう言われて初めて床に高価な平面上の丸皿が一枚あることに気付いた。
中身は牛乳だろう。
サファイアは、今度は悲鳴を上げた。
「嘘!ごめんなさい、タッキー。私、気が利かなくて。タッキーに、床で牛乳を飲めなんて」
――なんて酷いの、とサファイアはこの世の終焉を迎えたような悲壮な表情をした。
「サフィー殿!」
--そうではなくて、とヴィレは言い募った。
それに対し、サファイアはヴィレの方を振り向いた。
「前々から言おうと思っていたのですが、私のことは〝サフィー〟とお呼びください」
「え?」
「私に敬称はいりませんから、どうぞそのままお呼びください」
サファイアの突然の提案にヴィレは面食らったような顔をしたが、やがて意味を理解したらしく、明るい笑顔になった。
「サフィー、と私がお呼びしてもいいんですか?」
「?もちろんですわ」
サファイアの詞に、先ほどまでタッキーを叱れと進言していたことも忘れたように、ヴィレは上機嫌になった。
「では、私のこともぜひヴィレと!」
「いえ、それはさすがに……」
お互いの立場は、同等の場合ではない。
それを、目の前のこの尊い方は、あまりに無頓着なのだろうか。
サファイアは、他人事ながら、勝手に次期王の未来を心配した。
しかし、彼は引き下がらなかった。
「ユーリも公の場以外では、私をヴィレと呼びます」
(それは、侯爵だからですよ。王子)
サファイアは苦笑を漏らすしかなかった。
「私も、常に周りから王子と呼ばれると息苦しくなります。ですから、こういった場所でだけでも!」
このままだと頭を下げて頼みそうなヴィレに根負けしたサファイアは、仕方なしにそれに応じた。
「わかりました。ではヴィレ……これでいかがでしょうか?」
(一応、善呪師を演じてるんだから、このくらいは王子と対等に喋った方が信憑性は上がるかもしれないし……)
「はい!」
ヴィレは、そんなサファイアの思惑を知らず、ただその了承に満面の笑みを見せた。
これには、さすがのサファイアもその美しさを正面から見つめられなかった。
そして、おもむろに所持していたサングラスを取り出し装着した。
「どうしてサングラスをかけるんだ?」
「ちょ、ちょっと日が眩しくて……」
タッキーの詞にサファイアはギクリとしながら曖昧に答えた。
「それはいけませんね。屋敷中のカーテンを閉めさせましょうか?」
「いえ。こうしていれば大丈夫ですから」
サファイアは、冷や汗を流した。
恐ろしいことを平気で提案する。
そんな彼に断りを入れたところで、ユーリが息を乱しながら応接間へ戻ってきた。
「皆さん、好機到来です。父が先ほど急に大司教様にお逢いするため王宮へ出向いたと報告がありました。今なら確実に金庫を開けられます」
その詞に、一行は各々様々な思いを胸に抱きつつ、ウンシュルト公爵の書斎がある三階の北の塔へ直行することとなった。
いずれ訪れる、その瞬間――。
謎が一つずつ紐解かれた時。
彼らは、どんな反応をし、どんな選択をするのか。
人は、何度も訪れては去る。
その成長の瞬間を。
掴めるのだろうか――。