5-2
その報告は、長き時間の果てに訪れた――。
「サフィー殿。見えました。あれが我がウンシュルト公爵家の屋敷です」
その詞に、勢いよく窓を覗く。
そこには、広大な土地に囲まれた水鏡と寸分違わぬ豪華絢爛な屋敷が建てられていた。
ウンシュルト公爵家。
その屋敷は、広大な荘園に佇むバロック様式の左右対称の建築物だった。
それはもはや一つの芸術作品と云っていい。
一階は一般公開もされており、民が旅行の際には必ずと言っていいほど立ち寄る観光名所となっている、と肩を貸してくれた王子が教えてくれた。
(同じ人間でも、私がこんな場所に住んでたら全く似合わないわ)
そんな意味のない空想をしながら、馬車が公爵家の正面玄関前に到着した。
出迎えた執事が馬車の扉を外側から開き、内部に座っているであろう主人にお出迎えの挨拶をしようとした。
しかし、一番初めに目にしたのが年頃の若き娘であったことに、内心驚きつつ、そんな動揺は一切感じさせない微笑みでサファイアにお手を貸そうとした。
しかし、それは阻まれた――。
「待て!その必要はない。彼女は私がお手を貸す」
いきなり堂々とした声がその場に響いた。
驚いて振り向くと、そこにはさっきまでサファイアに肩を貸していたのは夢幻だったのではと思わせるほど高雅な〝王子様〟がそこには存在していた。
ざわめきが一瞬で伝染した。
「こ、これは王子。大変失礼を」
執事たちは馬車に乗車しているは、己の主人のみと待ち構えていたはずが、馬車に客人と思しき人物が数名相席し、なんとその内の一人は、国の最高権力者に位置する王の第一王子。
さらに言えば、ダイヤモンドの宝石眼である。
いくら長年、公爵家の執事長としてその職務を全うし、余程のことがあっても表情を崩さない執事長といえど、詞が出遅れるのは仕方ない。
後ろに控えていたメイドたちに至っては驚きを隠す術を怠った。
執事長は、すぐに己を戒め最高礼をし、侍女たちもそれに倣う。
しかし、ヴィレにとってそんなことは日常茶飯事だった。
一切気に留めない。
そんなことより、重要なこと。
それは、彼女――。
ヴィレは、サファイアの方を向き直った。
「お手をどうぞ。サフィー殿」
「あ、ありがとうございます」
(大丈夫なの?私、家庭教師としてここを訪れたのよね?)
サファイアは口では穏やかに告げながら、内心では憔悴していた。
しかし、最低限の面目を保ち、ヴィレに導かれるままに馬車を降りた。
すると後ろからタッキーが四足歩行で飛び降りた。
「キャッ!」
侍女の間で、思わず何人かが悲鳴を漏らした。
いくら最高の教育を受け公爵家の屋敷で働いていようが、いきなり馬車からたぬきそっくりのレッサーパンダが出現してくれば驚くのは仕方ない。
しかし、タッキーは気分を害したようにキュー、と鳴いて威嚇した。
いや、ただ憤慨しただけだろう。
「申し訳ございません。そちらのペットさまは鎖でお繋ぎしなくてもよろしいのでしょうか?」
執事長は、前へ進み出て真剣な表情で訊ねた。
主に危害が加えられないかを危惧しているようだった。
「執事長。これは彼女の大事なペットだ。見ての通り一流の躾が行き届いている。君の心配は杞憂だ」
ヴィレの鶴の一声に、執事長は失礼を謝罪するため、性急にサファイアへ頭を下げた。
「い、いえ。構いませんわ」
サファイアはなんとか淑女として最低限の返答をした。
「カリム、すまない。王子とは別件で今日落ち合う約束をしていたのを君に言伝し忘れていてね。こちらはサフィー・フリッシュ殿だ。フリッシュ男爵家の末娘様で、ヨルダン夫人の後任の家庭教師として来てもらった。まだ、候補だから屋敷を色々案内してから決定してもらおうと考えてる」
ユーリの背中に少々隠れる形をとっていたが、正式に挨拶を行った。
「サフィーとお呼びください」
サファイアは口にしながら、タッキーに習った淑女の礼をする。
(すごい!タッキーの特訓の必要性がやっぱりあったわ!)
サファイアは、礼をしながら一人全く違うことに感動を覚えていた。
執事長も、恭しく返礼する。
「畏まりました。どうぞこちらへミス・サフィー。……それと愛玩動物さまも」
「タッキーと名付けておりますの」
(ここは譲れないわ--)
サファイアは、はっきりとした口調で執事長に訂正した。
「左様でございますか。ではタッキー殿こちらへ」
タッキーは、再びキュー、と鳴いて執事長の元へ歩いて行った。
これには、さすがに侍女たちも驚いていたようだった。
レッサーパンダが知能が高い動物かどうかなどの知識を持つ酔狂な人間は、確かにいないだろう。
「これは、これは。本当に賢いのですね。さぁ、こちらへどうぞ」
執事長に案内されたのは応接間だった。
並んだ家具も一流品で、ソファに腰かけるのすら躊躇われた。
「レア様をお呼びしてまいりましょうか?」
カリムに訊ねられたユーリは、侍女が淹れた紅茶を吐き出しそうになっていた。
「ゴホッ!?い、いや。まだ彼女は決定したわけじゃない。変にレアを期待させるのは良くないから内密に頼む。屋敷の者にもそう通達してくれ」
「畏まりました」
カリムは、一礼して応接間から退出した。
「焦った」
「本当ですね」
ユーリとヴィレが笑い合っているのを、サファイアはまた不思議そうに眺めていた。
「あの。侯爵様の屋敷内でも敬語口調に戻られるのですか?先ほどは堂々としていらっしゃったのに」
「「え!?」」
同時に、こちらを見られる。
(そんなに変なことを訊いたのかしら?)
サファイアは、少し目を細めた。
「いや、その……。そうだ、私は父の本日の予定を訊いてまいります。どうぞ、寛いでいてください」
ユーリは、サファイアの表情を重く判断したようだ。
追及されても、言及されても、一貫の終わり。
それを見越し、一時、その化かし合いの勝負から逃れるために、彼は慌てて部屋を飛び出していった。
部屋に取り残されたサファイアは、ますます状況が掴めなかった。
(どうしたのかしら、タッキー)
(放っておけ。あやつらの事情なんぞより仕事だ。それを済ませてさっさと帰るぞ)
(そうね)
サファイアは、タッキーの意見に従った。
「あ、あのサフィー殿」
そこで、声を掛けられた。
「はい?」
「あ、あの私……は、その……」
ヴィレは言い淀み、口から声を出しては噤む繰り返しをしていた。
サファイアは、ヴィレの様子がおかしいことにすぐ気づけた。
(額に汗も見受けられるし、もしかしたら具合がお悪いのかも。それをなかなか言い出せなくてお困りになってるのかしら。臣下の屋敷で気分を悪くされたなんて外聞が悪いものね。何か、気分がスッキリするような御飲物でも頼まれた方が良いかも……)
サファイアは、勝手に解釈していた。
「承知しましたわ、王子」
「え?」
「ちょっと待っていらしてください」
サファイアは、ヴィレの詞を待たずに部屋から出て行ってしまった。