第一部
えらい神様、よい天使、わるい悪魔。
子供の頃は、この世界に様々な神秘を感じていたものだが、今になって思うと、神秘などというものはこの世に存在しないのかもしれない。子供の頃感じた神秘とは、ただ認識の誤謬から生じたものだったのではないか? 未熟な、無垢な魂の見せる幻。永遠に美しい、幼き日の夢。
――しかし、〝大人〟のそうした認識も、やはり誤謬でしかないのかもしれぬ。なぜなら、大人もまた、神や天使や悪魔を心のどこかで求めている。求めているということは、それがどこかに存在するはずだ!……そうではなかろうか? 存在しないものを求めるほど、大人は愚かではあるまい。それとも、やはり愚かだとして、その愚かさこそが、やはり人間の証だとでもいうのだろうか?
「我々は我々の認識の真偽など、永遠にわからないし、また永久に審議すべきではない。たとえそれが幻想だったとて、現実であったとて、いったい何の意味があろう?」という声がある。
「歴史とは、我々の認識を広めるための、そしてまた、確かめるための闘いの記録であった。それはけして無駄ではなかったし、また忘れてはならない」という声がする。
はたしてどちらが正しいのだろう? おそらくどちらもおおむね正しいことは正しい。そしてやはり、どちらも同じ距離だけ真実から遠ざかっている。もしもどちらか一方を選べと言われたら、私なら、双方を否定するだろう。これは一体全体、重大問題なのだ。そう簡単に決着のつく問題ではない。
〝我々は我々に知られていない〟――ある哲学者が遺した言葉である。我々は我々自身をこそもっとよく認識すべきではないだろうか? たとえそのことによって、永遠に苦しみ続けることになるとしても!
*
……そこまで思索を拡げたところで、彼は我に返った。考えがまとまらず、うなだれていたら、いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたようだ。
「まったく、おれらしくもない夢だったな、すこぶる無益で、すこぶる高尚な! なんだって夢なんか見る必要があるんだ? 神? 天使? おまけには、悪魔だって? けっ、笑わせてくれるもんだぜ、ほんとに! おれは神なんて信じちゃいねえし、求めてもいねえ、天使だって、もちろん悪魔すら信じてねえんだからな、まあ、悪魔を求める心はもっているかもしれないがな!」彼はそう独りごちた。
ただ、彼の頭の中には、夢の中で聴いたある一つの言葉が響いていた――『我々は我々に知られていない』。
自分でこの場所に来ることを選んだにもかかわらず、彼――『宮田 望』は、自分がなぜここにいるのか見当もつかなかった。
彼はそれほどの不安と焦燥に襲われていた。悪霊に取り付かれたかのように、ひどく風邪をこじらしてしまったときのように、あるいはひどく長くてつまらない推理小説を読んでいる最中のように、なんのためにこんな無駄な時間を過ごしているのか見当もつかず、彼の全身を不可思議な倦怠が覆っていたのである。
彼のいる部屋は薄暗く、そう広くない、何の変哲もない部屋だ。隅にはからからに乾いた観葉植物が入った白い植木鉢が置かれており、彼はその層をつくりながら中空へ細長く伸び絡み合っている、無数の瀕死の葉に目を向けていた。部屋のもう一方の隅に置かれた、木製で古びてはいるが、案外にしっかりとしているうえ、細かく編み込まれた背と、座と一体になった毛布団が心地いい、ほとんど装飾のない茶色の四脚椅子に陣取って、ずいぶん長いことそうしている。時たま外の様子もうかがうのだが、窓からはけして美しいとはいえない、ぼんやりとした景色が広がっている。曖昧な輪郭線、子供が絵具で無邪気に塗りたくったかのような色彩……そこには彼の心を楽しませるものが何一つない。
《風景、か! このとりとめないもの!》彼は思った。《なんでも、愉快な時とか、落ち込んでいるときとか、風景もその機微にしたがって、恐ろしく変わってしまうそうだな。ふん! いったい、誰がそんな風に決めたというんだ?……ひょっとして、おれのこの陰鬱な精神がお外の風景も暗くしちまっているのかなあ?》
彼は、一人で何時間もそうして不毛な問答を続けているのだ。それが彼の心の慰めであり、また日常的に行っている遊戯の一種らしかった。
宮田が本当に興味をもっているのは、隅の観葉植物の方だった。
《はてさて、これなる植物はいったい何ぞ? おれにはどうしてもこのオモシロい形をしているやつの名前が知りたいんだけどなあ。確か、ここからずっと遠くの方から持ってきたらしいけど! どうしても思い出せないし、知らないな……ちぇっ! 駄目じゃないか、これじゃ……そうそう、大事なのは教養! 本当に大切なものです。ある詩人がこう言ってたっけ、『教養をつければつけるほど……それだけ永遠に近づく、それだけ犬から遠ざかる』、永遠、か! 悪くない。でも犬なんてごめんだ! おれだって馬鹿じゃない、なんにせよ一度覚えたら、きっとそう易々とは、いや、二度とは忘れないはず……》彼のとりとめない思考はまたそこでぷッつりと途切れてしまった。そしていきなり大きく貧乏ゆすりを始めた。無機質な音が部屋の隅々まで響いた。
このあたりで彼、宮田望の外見を素描してみよう。
まず、特徴的なのはその髪型である――子供が消火し損ねて大きくなりすぎた焚火のごとく逆立っており、さらに毛髪の若々しい黒さは深い苦悩の刻まれた皺のある額と対照的で、彼の年齢をいささか計りがたくしている。その額に繁る眉は下の方がぎざぎざに波打っていて、対になった様はまるで蝙蝠の羽のようである。ぎょろぎょろと油断なく動く目玉、インクを落とした染みのような黒い瞳。鼻はハイヒールの踵のように高く尖っており、これが彼の国籍を推しがたくしている。横長の唇はルージュを塗ったように真っ赤であり(もちろん彼は化粧などするような種類の男ではなかった)、その間から折に触れちらちらと垣間見える歯は意外にも磨き抜かれて輝きさえ放っている。口元や顎に髭もなく、縦長のその輪郭も鑑みれば、十分整った顔と見なすこともできそうだが、よくよく観察してみると、実物というより、我々が頭の中で把握した部分たちが、我々の空想の中でその髪にしろ、瞳にしろ、唇にしろ、そして歯にしろ、それぞれ妖しく、勝手に主張を始めてしまうので、これは整った顔であるという整った意見が、どうしても肯定できないという、いわく度し難い顔の持ち主であるこの男は、それを知ってか知らでか、自身の顔を最も平凡な種類のそれであると決めつけていた。
彼にとって顔は苦悩や諧謔を閉じ込めている下水の蓋に過ぎなかった。それを開けば、たちまち禍言が飛び出すパンドラの箱であった。
誰かがその体格から彼の職業を類推するとしたら、おそらくある程度、もしくは相当の肉体的な労働を必要とするものである、と考えるだろう。そう断定できる根拠が彼の身体にはあった。肩幅はやや広く、胸板は厚い(彼のすこし濁ってはいるがおおむね聞き取りやすいバリトンは、この堅固なゆるぎない構造からつくり出されるのらしかった)。彼が裸体を人前で見せることは決してないが、もしもそのようにしたならば、上等な筋肉質の肉体を認められよう。長い手足は鞭のようにしなやかで(先ほどまで、この鞭を無様にぶらぶらと揺らしながら熟睡していたのであった)、太い指は掴んだものをけして放しそうにない。その指はいま、なにかを求めるように執拗にうごめいていた。
少々着古した黒い上着に紫色のネクタイ、膝のあたりが擦れて色褪せている黒ズボン姿のこの男は、そういった服装や履いている革靴からすると一見、平凡なサラリーマンのようにも思われるが、それにしては指輪や腕時計の類を一つも身につけていなかった。
彼は人を待っていた。それは家族ではない、友人でもない、ましてや恩師などでは絶対になかった。
人を待つということがこれほど悩ましいものであるということに、宮田は、ようやく、初めて気づかされたのであった。自らの〝時間〝を、他者の〝時間〝に内包せねばならぬとは! それは横暴で傲慢で不器用なこの男にとって、全くの苦痛であった。
机の上には砂時計が置かれている。砂時計、時を流動的に測る装置……。
砂時計が時を計る唯一の手段だとしたら、世界はなんと美しいものであろう。砂は零れ落ちて、その一つぶ一つぶが、世界を分割する。一つぶ一つぶに、分割された世界が刻印されている。砂時計こそ、刹那をもっとも純粋に保つ戒律である。
世界が果てしなく分割され、また、それらが余さず砂粒に刻印されたかのように思われる、長い長い時間が経ち、ついに、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせおれしかいないさ、入りたまえ」
宮田は扉に向いぶっきらぼうに言った。
丁寧に扉を開けて入ってきたのは、背の高い、多少痩せた(しかし決して病的とは言えない)、物静かな感じのする男だった。
さて、こういった種類の人物をどのように形容するべきだろうか? 確かにそこに存在しているのに、妙に実体感覚のない、幽霊のような人物を――彼は大きめの黒い山高帽を深く被っており、一本の頭髪も帽子の縁からのぞいていなかった。眉毛はとても細く、怜悧な鋭い眼をしている。鼻は宮田よりも長くすっきりと伸びており、小さな唇は少し歪な形で、血の気がなかった。話す時もほとんど歯を見せず、つるつるとした白い肌が生気に乏しい(しかし繰り返すが、決して病的と言えるほどではなかったのである)。尖った輪郭は知性的な印象を彼にもたらしたが、むしろ彼の知性が凝固してこのような外見を形作ったのではないかと錯覚させるほど、その顔は用途の知れぬ人形のような、作り物めいた完成品だった。
しかし、たとえば彼の心に、他者に対する愛情があったとして、愛された恋人は果たして彼の表情の一つ一つを愛するだろうか? 愛せるだろうか?……もしも彼が美しいとすれば、彼の美しさには、「寛容」という、誰からも愛される人間の持つ最高の美徳が、ぽっかり欠落してしまっているのかもしれなかった。
つまり、彼にはなにか魅力があるが、どこか愛敬がなかった。そもそも、彼は初めからそんなもの必要としていなかったのだ、といわれてしまえばそれまでであるが……。
宮田は男の前に立った。こうして向き合い並んだ彼らは、はたから見ても十分に釣り合った外見をしていた。この様子を見て、二人が血を分けた兄弟であると思う者もいるだろう。もっとも、その場合、どちらが兄でどちらが弟かの判別はつけ難いだろうが。と同時に、なにか絶対に相容れない、お互いにお互いがその部分だけはどうしても受け入れがたい、そんな要素をもっていることも、二人の醸す雰囲気からどことなくうかがい知れるのだった。
「やあ、すまないね。待たせてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、おれをいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧におれに詫びたことだよ。なあ! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋」と呻った。
盥屋と呼ばれた男(それが名字らしい)は、微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出すやつがどこにいるんだい。まったく、君ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「それが問題なのだ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい。確かに、自分の――ごく小さな範囲でだが――エゴイズムを自覚しているのであれば、どんな天邪鬼であっても、最後には救済されるはずさ。なぜなら、世界はやがて、微小なエゴイズムなど問題にならぬくらいの、巨大なエゴイズムによって支配されるのだから。神がいるなら、それが神に違いない。圧倒的な自我の塊。それこそが唯一、私がこの世界の結果として望むものだ。愚かな宗教家やら哲学者やらは私の考えを穢れた舌で侮辱するであろうが、そんなものは犬の唾だ。なんら意味などない」
「ほら、ほら、はじまったよ、例の弁舌が!」
宮田は嬉しそうにその場で跳ねた。
「まったく、君の舌こそ穢れているよ、盥屋。いきなり神を侮辱したかと思えば、次にはあらゆる宗教家やら哲学者やらを侮辱するんだから! それもほとんど意味のないおしゃべりでね! おれが天邪鬼なら、君は詭弁家だぜ。ほんの小さなおれの告白を、あっという間に神への冒涜のだしにつかうんだから! まあ、おれの先ほどの告白の中に若干、神への呪いが含まれていることは、否定しないがね」
宮田はのんきに邪悪な笑みを浮かべた。
「つまり私と君とのつながりはこうなんだ」
盥屋は人差し指を立てながら(このとき、既に二人は向かい合って椅子に座っていた)、
「自我、自我、自我、このけったいな重荷! 重荷なのに、これをどこかに捨てられない私たち。神、神、神、この浅ましき幻惑! 幻惑なれど、なぜか心は求めてやまぬ。これを如何に解決すべきか? 肯定的解決がなければ、否定的解決もまたあり得ない。ここまでは二人とも一緒なんだ、そうじゃないかい?」彼は、せっかく高く積み上げたトランプのピラミッドが、無残にも崩壊する様子を眺めているかのような表情をしながら、そう述べた。
宮田はうなずいた。目は盥屋のほうを見ていなかった。窓の外を見ていた。遠く遠く広がる風景。認識しきれない情報量。すこぶる不快で、すこぶる美しい自然……盥屋の声が聞こえてくる。
「だけどここからが違う。私は他者としての神を肯定する。絶対的な他者としての。つまり私たちのちっぽけな自我など超越してしまうような巨大な、緻密な自我。集合的なものであれ、孤高のものであれ、それは確かに顕現する。歴史の最後のページに」
盥屋は熱っぽい口調で語る。しかしその顔を見ても、人の眼にはあまり昂奮しているようには感じられないところが、彼の性質らしかった。彼は明らかに変人と見做されるような口調で、常軌を逸したことを話している。だが彼の狂気は静かに、彼の内部に沈殿しているのだった。
「ところが宮田、君は違う。他者としての神を許せない。なにがそうさせる?『ごく狭い範囲での君のエゴイズム』がそうさせる。神を信じられない。許せない。だが自我はある。この自我は誰から与えられたもの? 親? 友人? それともやっぱり神? いや、違う、と君は思っている」盥屋は宮田の横顔をまじまじと見た。
「自我を与えたのは己だ。君は、自分が神だと思っている」
「おれが神だと思っているって? 自分のことを? それは……」
宮田は盥屋のほうを向いた。
「まるで面白くないな」
「ははは、面白くないに決まっているさ! 真相とは本人にとって面白くないものだ。わからないかね? 君は認めたくないだろうが、君みたいなタイプの人間は、えてして自分のことを超越者だと思っているのさ」
「ちょっとまった、おれみたいなタイプの人間は、だって?」
宮田は目玉を蛙のようにギョロリと動かした。
「そうさ、わからないかね? 君はまあ、いってみれば、そういうタイプの人間の、わかりやすいモデルなんだな。自我をぶくぶく肥大させて、神をあっさり裏切り、ついにどす黒い権力への意志を芽生えさせたところの」
盥屋は続ける。
「君はある意味ではありふれた人間だ。平凡な人間だ、ただしうまく見つけられないんだな、なかなか。こうした人間は脆いからね。……だが君は驚くほど図太い。そういう意味では、君みたいな人間は、ロシアか、アフリカあたりに一人、ことによったら二人いるかいないかの存在だよ」
盥屋が宮田を称賛しているのか、嘲弄しているのか、それとももっと込み入った企みのためなのか――たとえば、彼を何かに向かわせるために焚きつけているのか――それは判別し難かった。
「ロシアか、アフリカに一人や二人、だって? こいつは面白いな、のむか?」
宮田は懐から煙草を取り出し、盥屋に勧めた。
「いや、結構」
「おれものまない」
宮田は煙草をしまった。
「要するに君は、荒々しい図々しさと、繊細な思想とを併せ持った、変人なんだよ」
盥屋はそう言って笑うと、奇妙な表情をしている宮田を鋭く一瞥し、それから部屋をきょろきょろと見回した。
「失礼、時計は無いのかな?」
「そこに」
宮田は机の上の砂時計を指さした。それが大理石でできている、ごく精緻なものであることは、盥屋にもすぐに理解することができた。
「ほうほう、これは、なかなかいいものだね。……いやいや、そうではなくて、普通の時計はないのかね?」
「ああ、そういうのは嫌いなんでね、置いてない」
宮田は窓の外を見つめながらつぶやいた。
「そうか」
少し驚いたような顔をしたあと、盥屋はすぐに紳士的な微笑を見せた。
それからは部屋を沈黙が支配したのである。
それからは部屋を沈黙が支配したのである。
……ここまで入力して、キーボードを打つ手が止まる。
なんだか、この小説は、もうこれ以上続ける必要はないのではないか? という気がしたからだ。物語が、もう、なんとなく落ち着くところに落ち着いたような感じがする。それに、登場人物である二人組の男が繰り広げる神やら自我やらの談義に、我ながら、付き合いきれなくなっていたのだ。神? それは君たちをつくったこの私ではないのか。自我? そんなもの君たちにはない。君たちのいる世界も、外面も、内面さえ、私の手によるものなのだから……。
よし、もうやめよう。この小説はここで終了。残念だが、打ち切りだ。もう、次の作品にとりかかろう……次はもっといい作品を……お、地震かな? 今、少し揺れたぞ。本棚から落ちて来やしないかな?
高い本棚に囲まれてはいるが、せせこましい感じはなく、むしろゆったりとした余裕が感じられる書斎。住人はマメな性格なのか、部屋は極めて清潔に保たれている。北側には大きな机があって、その上に一台のパソコンが置かれている。その前には一人の小説家が座っていた。
その人物の名前を『A』という。まぎれもない、この小説の主人公である。
それでは、彼をどのように素描するべきだろうか?
これといって特徴のない男である――かといって影が薄いということもない。何らかの印象は人に与える人物なのだが……いかんせんそれが「名状しがたい」のだ。
といっても不気味な印象でもなく、かといって底抜けに愉快な雰囲気を醸しているわけでもない。中肉中背、理髪店に行って「おまかせします」と注文したような髪型、貝殻のように丸い耳、くりっとした目玉、そこそこ聡明そうな瞳、本人は形が良いと思い込んでいるが、実際のところなんの変哲もない鼻、そして本人は下品だと思い込んでいるが、人には顔の部分でもっとも上品な印象を与える薄く血色のいい唇、全体としてなにか統一した主張が感じられるわけでもなく、かといって不揃いの、ちぐはぐな印象を受けるわけでもない。
彼が先ほど書いていた小説……その中の登場人物たちなどに比べると、彼が虚構の人物ではなく、現実の存在だとということを鑑みても、やはりあまりにも目を引く魅力のようなところがないし、また「あまりにも平凡すぎて人の目をかわすことができる」ほどには個性に欠けていないところが、彼の最大の不幸かもしれなかった。
たとえば、鷹揚で社交的な人々からは「平凡人」扱いをされ、逆に目ざとく陰湿な連中からは「カモ」にされやすい、といったちょっとした悲劇も彼の風貌からは起こり得た。
もちろん、そうではない可能性、彼にとって幸福な結果をもたらす可能性もなくはなかったが、(これは後で詳しく述べることだが)彼のこれまでの半生は全体として引算の方が多かったとも言えた。
そしてその『小説家A』――いや、彼のことは、今のところ、ある都合上こう呼ぼう、〝神〟と――は大きく伸びをし、『まだら牛の祭り』と題したファイルを保存して閉じると、さっそく次の作品の構想を頭の中で練り始めた。脳内で、とりとめなくもつれ合う、形のない想念が、不規則に繋がっては離れる。創作の前は、いつもこのような状態になる。なにかが生まれる予兆、高まる霊感――――と、不意に、扉をノックする音が聞こえた。
トン
トン
トン 三回。
まったく、誰だ? いい時に。まア、きっとマネージャーだろう、と神は思った。まずいぞ、まだ碌に原稿もできてない。さて、どう仕事の言い訳をするか? ああ、きっと怒られるだろうなあ……。
「いちいち確かめなくてもいいだろう。どうせ私しかいないさ、入りたまえ」
宮田が扉を開けてぶっきらぼうに入ってきた。
次に入ってきたのは、背の高い、多少痩せた(しかし決して病的とは言えなかった)、物静かな感じのする男だった。
「やあ、すまないね。待たしてしまって」
男は、見た目よりも老けた声で謝った。宮田は舌打ちして低い声で、
「すまない、か! いや、まったく結構、結構! 君が、神をいらつかせようとしてワザと遅れてきたのを、いちいち咎めるつもりはない。だがね、なによりおれをいらつかせたのは、君が、落ち着いた風をして、丁寧に神に詫びたことだよ。君! これ以上に腹の立つことがあるかい? 盥屋」
盥屋は、微苦笑して答えた。
「やはり君は相当の天邪鬼だね、宮田。いったい、謝られて余計に怒り出す神がどこにいるんだい。まったく、神ほどの男が、こんなチンケなことで腹を立ててどうする」
「それが問題なのだ。自分でも悩んでいるのだがね、このおれの『ごく小さな範囲でのエゴイズム』は、たといチンケなことでも許せないのだ」
「そうかい、そうかい、ならそれでいい――」
「やめろ‼」神は叫んだ。
「やめてくれ。いったい何者なんだ、君たちは? 何が目的で、こんなことをする? そもそもどうやって――とにかく、ここから出て行ってくれ!」
神は、その後も頭が痛い、だとか気が狂いそうだ、というようなことをわめいていた。
その間に宮田と盥屋は顔を突き合わせて何か話し合っていた。そしてふいに盥屋が神のほうを向いて、大げさなそぶりで弁解した。
「おお、神よ、どうかお許しください。我々は、なにもあなたを困らせようと来たわけではない。ちょっと、びっくりさせようと思っただけですよ、あの登場は。我々の精一杯の模倣、なかなか洒落ていたでしょう?」
盥屋はにっこりとほほ笑んだ。
「すると、君たちは、あれか、やはり……」
神は喘ぎながらかろうじて言葉を絞り出した。
「そのとおり。おれたちは、あんたのつくった小説の、『まだら牛の祭り』の中からやってきたのさ。あんたの想像の通りの姿をしているだろう? できれば、もうちょっとハンサムに創って欲しかったな」
宮田は邪悪な微笑を見せた。
「まったく、何回考えても難解ですな、そのタイトルは。もっとキャッチ―でポップな題名は思いつかなかったのですか? 私ならもっとうまいタイトルをつけたな。そうだな……『失われた神をもとめて』なんてどうだろうか?」
「まったく、大した詭弁家だよ、君は! オリジナリティーあふれる、とてもいいタイトルじゃないか! そんなセンスのいいタイトル、フランス人だって思いつかないぜ!」
宮田がゲタゲタ笑い出した。
これは幻覚に違いない。狂っている。何もかもが、狂っている。おかしい。なぜだ。何が原因だ。そうだ、あの小説だ。あの小説を書いてからこんな変な幻覚を観だしたんだ。あの小説をどうにかすれば――――
神はすぐさまパソコンの画面を覗き込んだ。先ほどのファイルを開こうとする。……ない! さっき書いたはずの小説がどこにもない。確かにあったはず……。
「そんなところ探したって無駄だよ。第一、おれたちはここにいるじゃないか、こっちをご覧よ」
「神よ、無駄なことです。なぜなら、『まだら牛』の世界と神のいる世界は一つになってしまったのですから。熱い餅と餅のように、二つの世界は今、完全にくっついてしまったのです」
神は二人を見た。そしてもう一度パソコンのほうに向きなおった。
「のむかい?」
宮田は煙草を懐から取り出し、神に勧めた。
「いや、結構」
神はそういってから何かに気づき、ハッと息をのみこんだ。
「まったく、傑作ですな! これでは、我々の世界と同じじゃあないですか! それは私の台詞でしょう? あろうことか、神が我々の真似をしておられるように見える。ところで、神よ、なぜ宮田は煙草を持っているんです? 彼は「煙草をのまない」んでしょう。どうしてそんな矛盾を我々の世界にもちこんだのですか?」
盥屋が宮田からもらった煙草に火をつけながら言った。どうやって火をつけたか? 神にはよく見えなかったが、何やら煙草の先を指で揉み始めたらすぐに煙が立った。……
「あれは」
神はふるえていた。なんとか言葉を絞り出す。
「ただ書きたくて、書いたんだ。もしかしたら、なにかの伏線になるかもしれないし。理由なんて、後からいくらでもつけられる」
神は正直に告白した。
「ほう! それは」
盥屋は煙草をふかしながら嬉しそうに言った。
「興味深いですな。まさか、根拠のない、単なる思い付きとはね! 宮田、君のその煙草は、なにか重要な意味を持っているのかもしれない……(宮田はおどけて煙草をさも大切そうに懐に隠した)おっと、まだそれはただの煙草さ、価値はこれからわかる、ここにいる神が教えてくださるはずさ」
「そこらへんにしておきたまえって、盥屋」
宮田は陰気な笑みを浮かべながら言った。
「神の顔色を見ろ。我らが神は、産みの苦しみに疲れておられる。そりゃそうだ、とんだ難産だったんだものな! くくく! 神よ、あんたはよくやってくれた。本当によくやってくれたよ。あんたは父にして母、恩人にして仇だ。とても借りを返すことなんてできないね! ……今すぐには。だから、待っていてくれ、近いうちに、また会いに来るから。その時は、おれたちも、こっちの世界の礼儀ってものをもうちょっと学んでいるだろうよ!」
「本当だ。少しお疲れのご様子ですね? これは失礼。ならば、そろそろ消えるとしますか」盥屋は微笑を浮かべて言った。「では、ごきげんよう」小さく礼をして、部屋を後にする。
「ごきげんよう!」宮田もそれに続いて出ていく。
ドアを丁寧に開けて、乱暴に閉める音。
二人の悪魔が去った後、神は部屋を見回した、まだ小悪魔でもどこかに潜んでいるような気がしたから、それこそ隅々まで見回した。増築を重ねている本棚には、大量の、様々な本。大聖堂の設計者の手記、探偵小説のペーパーバック、辞書・事典……そして、つい最近読み終わった、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、まだちょっとだけしか読んでない、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、まったく全然読んでない、プルーストの『失われた時を求めて』。そういえば、『失われた神を求めて』だって?……くそ、あいつら、ふざけやがって! 神は屈辱の邂逅を思い返して激怒した。
しかし、部屋には、特になにも変わったところはない。それでは、さっきまでのことは、すべて幻だったのか? それとも、誰かの悪質な悪戯? いや、記憶にしっかりと刻まれている、夢じゃないし、あんな奴ら、現実には、ロシアにだってアフリカにだっているはずがない! しかし、信じがたいことに、これはまごうことなき現実だ!……よし。
……神はなにか覚悟を決めた様子で、再びパソコンに向かうのだった……。
*
神の家を出た二人の男は、何処かへと速足で向かっていた。通りをゆく人々の、誰も彼らに気づかないようであった(しいて言うなら、某名家の大きな邸宅の、よく訓練された番犬が二三匹、怪しげな臭いを嗅ぎつけて、彼らに対して低い唸り声を上げたくらいのものだ)。二人はどこか不服そうな、それでいてなんとなく気のぬけたような表情を浮かべて歩いていた。
「いやしくも、小説を書いて、生計を立てようだなんて、お下劣だ!……そうは思わないかな、盥屋さん」不意に、宮田が吐き捨てるように言った。「神たるものが、紙によってご飯を食べているだなんて、どうも、気にくわないな。まあ、だからこそ、気まぐれに、おれたちが生み出されたんだがね!」軽口と悪態をつく時こそ、この男がもっとも活き生きと見える瞬間だった。
盥屋は相変わらず煙草をふかしながら、頷いた。
「残念ながら、完全に同意せざるをえないね、その意見には。少なくとも、売文業なんて、神のやる仕事じゃない。あまりにも卑劣で、低劣で、愚劣だよ。まあ、それをいうなら、君も、詩の一つか二つ、書いていたっけ……前にちらっと拝見したような気がするな」
そう言ってどこか蔑むような目で宮田を見やった。
「そんなことより」
宮田は突然気が付いたことのようにしゃべり始めた。
「君は煙草をのまないのではなかったかい? おれは確かにそう聞いた気がするな。それが、こっちの世界に来て(まあ、もはやこっちもあっちもあったもんじゃないがね、実際!)いきなりのむなんて、一体どういう了見だい?」
「それはね、神がどんな反応をするか気になったのさ。我々はもはや自由だということを、彼に教えたかったんですよ。神様も、たいそう驚いていたな、ああ、セイセイする!」
盥屋は愉快げに笑った。
「セイセイする? ……すると、君は、神が嫌いなのか? あんなに神を求めていたのに? 今、『まさに約束の時は果たされた』んだぜ? へへへ、まったく天邪鬼だね、君も」
「まあ、嫌い、というより、憎し、の感情だな、これは。僕はね、我々を創造した神が、あんなちっぽけな自我しか持たない、我々並の、いや、ことによると我々以下の存在だという現実が、ゆるせないのですよ。こんなことがあっていいのだろうか? 現実に」
「まあ、こりゃあ驚いた! 詭弁家の君にも、許せないことがあるとはね! いや、思ったより、おれたちは気が合いそうだぜ……神、か! この上なくうっとうしくて、されど求めずにいられぬものよ! あれほど悩まされた至高の存在に、ついに、拝謁できたんだものなあ……へっ、しかし、まあ、君の失望も当然だよ、盥屋! 彼の住んでいるのは大理石の宮殿ではなくて、本棚に囲まれた(それも下らない「文学書」ばっかりの!)、俗悪なる書斎なんだし、それに、彼は信者の喜捨じゃあなくて、売文業で糊口をしのいでいるときた。おまけに、せっかく遠くから会いにやってきたおれたちかわいい被造物を見て、あのやろうは、喜ぶどころか、怖がって口もきけないありさまだったんだからな」
宮田の哄笑があたりに響いた。
「神は、自分の生み出した単なるフィクションの産物を(だって、実際のところ我々はそうじゃないか?)、怖がっておられるのか。寂しいことだ、まったく。愚劣だ、愚劣!」
盥屋も笑い声をあげた。乾いた、陰気な笑い声だった。電柱の上で鴉が鳴いた。
「盥屋、それはちょっと違うぜ。おれたちはもう、血と肉と骨を持った、実体のある存在なんだからな……そういう意味では、神が驚くのも無理はないさ」
と、宮田はどこか感慨深げに言った。盥屋も同じような顔をした。それきり二人は黙った。
二人の男は並んでいくつもの道をあゆんだ。いくつかの林を通り抜け、いくつかの川を渡った。そのあいだにも彼ら(主に宮田)は神を罵倒し、侮辱の言葉を吐いていた。いわく、詐欺師。売文屋。アンポンタンのスットコドッコイ……。
やがて、なんとも説明のつかない景色の場所に出た。そこには荒々しいデッサンのような風景が広がっていた。眺める者の心情で、その印象はまったく変わっていくのであった。怒りの赤。悲しみの青。喜びの黄。二人にそれはどのように見えていたのか? それはどうにも知れない……。ここがいわゆる「現実とフィクションの境目」なのだった。
小屋がようやく見えてきた。この物語の冒頭で二人が対話していた、あの建物である。小屋の外観は粗末なものであった。一見、プレハブ小屋のようであり、木でできているようにも見える。とにかく、ひどくあいまいで、なにか急ごしらえで作ったような趣があった。それがこの異様な風景の中に、輪をかけて異様な雰囲気を醸し出していた。
「やっと着いた。なんだか、帰り道の方が長く感じたな。少々疲れたよ」盥屋が呟く。
「なにか、気のきいた曲が聴きたいな。盥屋、なにかないかい」宮田が言った。
「ジムノペディなんかいいのではないかい」
「知らないな。音楽にはうとくてね! 誰が作曲したんだ?」
「サティという人間さ……」
「へえ。偉人かい?」
「変人だよ」
「それならおれにぴったりだな! きっと部屋にレコードがあるだろう、聴いてみるか……」
「それがいい」盥屋はほとんどうわの空で言った。
「あれ、これは一体にどうしたことだろう?」
宮田はドアに手をかけた途端なにかに気づき、口を丸くして小さくつぶやいた。
「どうしたのかね?」盥屋が訊ねた。
「おかしい、鍵をかけておいたはずなんだけどな。開いているよ!」
「そうかい、ならひょっとして、泥棒でも這入ったのかな?……違うな、おおかた、君が鍵を閉めたつもりになっていただけだろうよ、宮田くん。気をつけたまえ」
「いや、そんなはずはないな。だって、おれがこう見えてけっこう用心深いキャラだということは、きみもよく知っているだろう? そんな『凡ミス』を犯すはずないぜ! あ、信用してないな?……」
宮田はそういいながら中に入った。そして口をつぐんだ。
室内は滅茶滅茶に荒らされていた。椅子も机もあらぬ方向に投げ出されている。観葉植物の鉢も叩き割られていた。壁にはひっかき傷のようなものまである。宮田の足になにかが当たった。床に転がった年代物のワインボトルだった。よかった、割れてないぜ! 一杯やるか? というのんきな宮田の誘いを、盥屋は手を振って断った。
二人は室内を見分し始めた。
しばらくして、盥屋は静かに言った。
「……本当に泥棒が這入ってきたようだね。それに、ただの泥棒でもなさそうだ。これはいけない、どうにも、荒々しいね」
「無い」
宮田も静かに言った。声は震え、顔は蒼ざめている。
「無いって、何が?」
「砂時計が無い」
「砂時計? ……ああ、あの砂時計か。あれはおそらく値打ちものだものな。君が気にするのも無理はない……まあ、こんなに散らかっているんだ、なにかの拍子に落ちて転がって、隅の方に隠れているのかも」
「盥屋、ここはおれの隠れ家だぜ、どこに何があるかくらいすぐにわかる。砂時計は、この家のどこにもない……侵入者は、おれのあの砂時計を狙って盗ったんだ」
「ということは、この場所をしっていて、なおかつ、ここに何があるか知っている誰かが、君の大事な砂時計を……」盥屋はぼんやりと独りごちた。
盥屋と宮田は顔を見合わせた。しばしの沈黙。
「神の奴だ!」宮田は怒鳴った――その顔は興奮で真っ赤に染まり、瞳は憤怒に燃えている。
*
神はいそいそと書斎を抜け、廊下を通り玄関を出て、鍵をかけ、いまだ何の変哲もない街中へはいった。人々は平穏に歩き、自動車を運転し、犬の散歩をしていた。
彼はある種のやましさを感じた。この世界に何かあったら、その時は私のせいだ――神として(自分ではそんなたいそうな存在ではないとおもっているのだが)あるまじき粗野な創造を行ったことにより、きわめて歪なもう一つの世界が出来上がってしまった。そしてあろうことか、その世界は、何故かわからないが、こちらの世界とくっつき、一つになってしまったのだ。
何かが起こるに違いない……彼は呪文のようにつぶやいていた。「えらい神様、よい天使、わるい悪魔……」先ほど自分で作り上げた物語を、必死に思い返そうとしていた。「えらい神様か! えらくない神様もいるけどな」彼は額に汗を浮かべながら考えた。「それがこの私さ。中途半端な思い付きで、奇妙な小説を書いてしまったせいで、とんだ災難にあったもんだ。……いや、もう後悔しても遅い。それより、えらくない神様はここにいるとして、よい天使はどこにいるっていうんだ? 神様を早く助けてくれ。わるい悪魔の行方は、大体予想がつくけどな。おそらく、あの小屋に戻っているんだろう!」神は小走りになって息をはずませていた。会わなければいけない人間がいる。私の身(あるいは彼の身)に何かある前に、このことを伝えなければ。何か起こってしまう前に!
となりに大きな池のある、あまり豪華ではないが、洒落たつくりのアパートの三階に彼は住んでいた。
神は扉を強くノックした。
トン
トン
トン 三回。
「どなたですか? え? ああ、先生? どうぞ、どうぞ」
気のない返事が聞こえてきた。
神は扉を乱暴に開けて中に入った。小奇麗な部屋だ。マネージャーはパジャマ姿で熱心にテレビを観ていた。
「先生、見てください、これを! 大事件です。それも、あちこちで。先生、これって、新しい作品のネタになりませんかね?」マネージャーは神のほうを振り向いて言った。
まだあちこちにニキビの残る顔に形のいい目がきょろきょろ動く、若々しい葉っぱが、風雨にさらされ、くたびれ果てたような風貌の青年。だがその声はまだ活力に満ちていた。そう、今はただ疲れているだけなのだ。あの禿頭の編集長にこき使われているから……。
神はテレビの方を見やる。次のような放送が繰り返し流れていた。
「臨時ニュースです。全国各地で、異常な事件が多発。人々が次々に行方不明になり、家畜はどこかに連れ去られ、庭の木はばっさりと伐られています。……これらは、悪質な悪戯でしょうか、いや、それにしてはひどすぎる……犯人と思われる男は「奴らはどこだ」と誰かをしきりに探している様子で……云々」
それを聞いて、神は次のような妄想、妙に現実味のある妄想を頭に浮かべた。
幼い娘が一人、親とはぐれたのであろうか、心細そうに歩いている。人通りの少ない、さびれた商店街の路地裏である。子供は迷うことにかけては一流だ。あてどなくさまようこの娘の眼にも、心配そうな影こそあれど、次の一歩は確実に母に近づく一歩であるという、確信の光がある。
しかし彼女の前方に長く伸びた影――二人組の怪紳士――が、その光を遮った。
「おや、おや、おや、迷子かな? お嬢さん! 心配なさんな、怖い人じゃないよ!」怪紳士の片割れがそう言うと、恐怖の色に染まった娘の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。怖い人ほど、怖い人じゃないって言うのよ、覚えておきなさい。母親の声がよみがえったのである。
「いけないよ、君、そんなことを言っては……お嬢さんが泣き出してしまったじゃないか……お嬢さん、泣かないでくださいな、お詫びに宝物をお見せしましょう」そう言うと長身の男はは懐からカラフルなストローを取り出した。
もう一人の方ははそんな相棒ををにやにやしながら横目で見ている。
背の高い男ががストローを吹くと、筒の先からたちまちいくつもの七色に輝くシャボン玉が飛び出した。少女は思わず眼を見開いて「わあ」と言った。
不思議なことに、そのシャボン玉は地面に落ちても、建物の壁に当たっても割れず、むしろそれによって勢いをつけて再び空中に舞い上がるのだった。少女はそれを見ていっそう驚き、喜んだ。
「どうだね? すごいものだろう」
すてきなシャボン玉。七色に光る表面は、辺りの景色を映し出しながらくるくる回っている。まるで、地球がひっくり返ったみたい。もし、シャボン玉の内側に入れたら、どんな景色が見えるのかしら?……
「ねえ、シャボン玉の中に入ってみないかい? 内側から覗く世界は、大層きれいだよ」蒼白い顔の男が丁寧に、優しく訊ねてくる。
「うん」と元気よく頷いたのが運の尽き。
ノッポが指を鳴らすと、たちまち少女はシャボンの中に閉じ込められてしまった。内側から見る外の景色は、油が浮き、光が屈折する表面を透して醜い。
「ねえ、ちっともきれいじゃないよ! おねがい、もういいから、ここから出して!」
「残念無念お嬢ちゃん、一回入っちまうと、シャボンが割れるまで出られないのさ! まあ、しばらくは、その中で、一人でおままごとでもしているんだね!」陰気そうな方がそう言い放つと、シャボンの主も、
「そういうことです、お嬢さん。怪しい人に近づいてはいけないと、これでようくわかったね? ところで宮田、君の言う通り、この世界では、我々の力は魔法のようなものらしい……確かにうまくいった。不思議な話だ、架空の存在である我らの方が、力を持つことになろうとはね! さて、この力、善きことに使うか、悪しきことに使うか、それとも……?」
男たちはその場を去った。あとには、割れないシャボン玉だけがいつまでもゴム毬のように弾んでいる……。
「先生、どうしました?」マネージャーの声。
神ははっと我に返り、テレビ画面を凝視しながら、静かに、震え声で言った。
「奴らだ。奴らが、私たちを探しているんだ」
「え? いまなんて? それより先生、このニュース、新しいネタに……」
「もう書き終わったよ! 今度の作品は傑作だぜ。登場人物が現実に飛び出してくるほどのな!」神は叫んだ。
「え? 先生、もしかして、もう書いちゃったんですか? さすがだなあ。しかもご自分から持ってきてくださるなんて、いや、相当の傑作とみました! さっそく原稿のほうを……」
マネージャーは口元に微笑を浮かべ、揉み手しながら神にすり寄った。
「いいか、君、よく聞いてくれ」神は人差し指を立てマネージャーを制した。
神はことの次第をすべて、丹念に説明した。事の発端となった小説のことから、現実に宮田たちが現れたこと、その会話の詳細、そして今この世界で起こりつつある異変の正体を、丁寧に、丹念に。ただ、マネージャーはとぼけたような顔で、目を丸くして聞いていた。
「いいかい、あの悪魔どもは、私たちを探しているんだ。そして、復讐しようとしている。この混乱は、おそらく、奴らの仕業だ!」
「なるほど、それは大変! しかし、先生、なんでこのわたしまで狙われなきゃならないんです? その……悪魔どもに?」
マネージャーは笑いをなんとかこらえながら問うた。先生はきっと疲れて少しおかしくなっているのだ、と思ったからである。これは新作に期待できそうだ。それにしても、先生もたいそうごくろうなさって……先生には休暇が必要だ。それもとびきり長めの。編集長にもよく言っておこう。
「私と付き合いがある人間なんて、君くらいしかいないからね。君も、まとめて消される。それにしても、見境がないな。あいつら、あんなに乱暴だっただろうか? 慇懃無礼な紳士、といった感じだったが」
マネージャーはごくりと唾をのんだ。先生の中で、現実と空想の境が曖昧になっている。これは相当重症だぞ。きっと新作は、相当の傑作に違いない!
「先生、はやく原稿を見せてください!」
いやがるマネージャーを着替えさせ、無理やり連れ出した神は、二人で街をさまよい歩いた。すでに混乱はこの街にもおとずれていた。人々はあてもなくあちこち走り回り、自動車はクラクションを鳴らし、犬は何かに吠えていた。道すがら、神はなにやら焦げくさい臭いを嗅いだ。あれ、先生の家の方じゃないですか? マネージャーが怪訝そうに言う。なんと、自宅の方角から、高く、高く、もくもくと黒煙が上がっている。
「Aさんの家が燃えたらしいよ。放火だって……でも死体とかは見つかってないみたい……」
道行く人のうわさが聞こえた。
Aだって? 私の名前だ。私の家が燃やされた?――彼の中で、家を燃やされた怒りよりも恐怖が勝った――奴らだ! 奴らがここまで来た! 神は天に祈った、はじめは神に祈ろうとした。しかし、今回の場合、神は自分であることに気がついた。神が神に祈る、これは、矛盾だ。では、なんでもいい、……そうだ、天使、天使よ、どうか私に力を!
「やい! でてこい! ぬすっと!」
「出てきた方が身のためですよ、主よ。この男は一旦怒りだすと、どうにも手がつけられませんからね」
*
神がマネージャーのアパートについたころ、二人の悪魔は神の家にたどり着き、宮田は怒りをなんとか三割ほどに抑えながら叫んだ(盥屋はというと、いたって冷静な様子だった)。
しかし、返事はない。
「お邪魔するぜ!」
宮田は低い声でそう言い、入口の扉に手をかける。鍵はかかっていない。これは、居留守か? それとも……。
二人は神の家に侵入した。人のいる気配はない。そこで真っ先に書斎へと向かう。神は居ないまでも、なにか情報を得られるかもしれない。
書斎は暗く、やはりそこに神は居なかった。しかし神ではない何者かはいた。
パソコンの置かれた大机の前に、小柄な影が佇んでいる。
「ん?……誰だ? おれたちを待っていたのかな? へっ、ぞっとしねえ。……神の代わりに、一体、どなたが、哀れな子羊の懺悔を聞いてくださるんでしょうかね?」
宮田は道化ぶった口調で影に問いかけた。
返事はない。
「どなたでしょう? ひょっとして、泥棒かな? ……まあ、人のことを言えた義理ではないが。私たちも泥棒のようなものだ。正確に言うと、泥棒から取り返しに来たのだが。……ちょっと失礼」
盥屋は部屋の灯りをつけた。
そこには燃えるような栗毛の、かわいらしい娘がいた。
年頃は十五、六だろうか、それにしても少々小柄である。だが、顔の造作も小さく整っており、身体全体としては均衡がとれ、美しいとさえ言えるのだが、その佇まいには、妙に大人びたところがあるし、その瞳には、なにか油断ならぬ光が瞬いていた。
また、悪魔たちには、その佇まいや目の光がとても煩わしいものに思えた。理由はわからないが、恐らくは、彼らの本能のようなものが、必死に警鐘を鳴らしているのだろう。
「まぶしい」
と言って、娘は目を細めた。
「失礼、失礼。お顔がよく見えなかったものでしてね、人探しをしているのです。ところでお嬢さん、こんなところで何を? ここには神……いや、一人の小説家の男が暮らしているはず、こんなところに一体なんの御用でしょう?」
盥屋が丁寧に訊ねた。
「お二人をお待ちしておりましたのよ」
澄んだ娘の声がそれに答えた。
「我々を待っていた?」盥屋は首をひねった。「それは不思議ですな。なぜなら、我々二人のことを知っているのは、ここに住んでいる小説家くらいなもののはずですから。その小説家にしたって、今は行方知れず。それに、あの男は一人暮らしだ、娘もいないでしょう、あの人は孤独です。……質問ばかりで失礼ですが、あなた、一体何者です?」
盥屋は慇懃な態度を崩さずそう言った。
しかし娘はなぜか顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「やっぱり、悪魔というのは頭が鈍いのですわね。それに、見た目も醜悪ですわ。とても表現しきれないくらい。こんなに救いようのない方々だとは思わなくてよ」
「それは心外ですな、お嬢さんよ!」
宮田がとうとう口を挟んだ。
「これでも、頭の回転は速い方だと自負しておりますよ、これでもね。それに、初対面の人間に対して悪魔呼ばわり、おまけに醜悪だなんて、ちょっと失礼にも程があるんじゃあありませんかねえ?」
「人間に対してならね。でもお二人とも人間じゃなくてよ」
娘はあっさり否定した。
男たちは急に暗い目つきになった。盥屋が静かに言った。
「お嬢さん、冗談はここまでにして、小説家がどこにいるかだけでも、教えていただけませんか? あなたは随分と物知りのようだ」
「教えることは何にもありませんわ。何も。お二人には、もともといた場所へ、すみやかに還っていただきますわ」
娘は自信たっぷりに言った。
「もともといた場所? それはどこに?」
盥屋が落ち着いて訊ねた。
「ここですわ」
娘はつけっぱなしのパソコンをゆびさした。
突然、甲高い哄笑が聞こえた。宮田が笑っていた。地が裂けるような、おぞましい笑い声だった。
「なんだ、あんたは、すべてご存じってわけか。ただの人間じゃないな。何者だ? まあ、なんでもいいが。おれたちが悪魔なら、さしずめ、天使ってところか」
宮田はそう言って娘を睨みつけた。
「そうね、そういっても差し支えなくてよ。わたくしたちは、よいことをするためにいるんですもの、まあ、天使というのが一番ちかいでしょうね」
娘は真顔で答えた。
「誰の差し金で来た? 神の野郎か?」
宮田は声を荒げ、いまや食い入るような目で天使と名乗る娘を見つめている。隣の盥屋はただ黙ってことの成り行きを見守っている。
「神ではありませんわ。わたくしたち一人一人自らが、よいこととはなにかを考えて動いていますの。あなた達と違ってね」娘はかわいらしく微笑した。
「なんで、おれたちをどうにかするのがよいことなのかな?」
「悪魔はわるいものですわ。わるいものを追い払うことが、よいことと考えるのは普通でしょう?」
「けっ! 埒があかねえ! おれたちを追放する? やれるもんならやってもらいたいね! この世界にも飽き飽きしていたところだから。ところで、天使さんよ、おれたちを追い払うってんなら、そのための『裁きのメギドの炎』とやらは、いつ降り注ぐのですかね?」
「裁きの炎? 安心なさいまし、それなら、もうあなた方の頭上に降り注いでいましてよ」
天使は高笑いした。
盥屋は不意に永い眠りから目の覚めたような顔になって、宮田の手を思い切り引っ張った。その途端、宮田は書斎が燃え盛る炎に包まれていることに気づいた。あたり一面の火焔流。炎になめられ、灰になって消えてゆく、本棚の本……。
二人は驚くべき速さで家を飛び出した(彼らにはただの人間から見れば超人的と思えるほどの身体能力があるようだった)。飛び出したとき、凄まじい轟音とともに、二人の背後で神の家が崩れだした。もくもくと煙があがる……。
「あの少女に、二人とも幻覚を見せられていたんだ、その間に、火を点けられた! 危うく黒こげになるところだったね、君! あの娘、本当にただの娘ではない……なるほど、『天使』か!」
盥屋は多少興奮した調子で言った。
「これは厄介なことになったね、どうも」
宮田は自分の体を見た。服がところどころ焼け焦げている。大きく息を吐き出して、
「ああ、厄介なことになった」
辺りは薄暗い。いつの間にか夕刻になっていた。
*
「はあ、これで私も流浪の身か……燃えてしまった、なにもかも! そんなに長いあいだ住んでいたわけではなかったが、それでも愛着のある家だった。Home, sweet home !」と神は嘆いた。
「そんなに気を落とさないでください、先生。だって、現に命は失わずに済んだじゃないですか? だれかが本当に先生のことを狙っているというのは、よくわかりましたが……。まあ、家の一軒や二軒、すぐに建て直せますよ。だって、先生が本気になって書けば、きっとベストセラー間違いなし!」とマネージャーがそれを慰める。
「ベストセラーなんて、書こうとしても、そうそう書けるものじゃないさ……たぶん、私には絶対にムリだ。それに、君は一軒家に住んだことがないからそう言うがね、実際、この喪失感というもの、それはそれは強いものなのさ。なんせ、自分の生活の基盤を失ってしまったんだ、それも無理からぬことだろう? 君にもわかる時がくる……」
「なるほど、そんなものですかねえ? まあたしかに僕もあのアパートが燃えたら、少しばかり悲しい気持ちになるかもわかりませんね。一体全体、住処というのは不思議なものですね。普段はその存在を気にも留めないのに、いざ失ってみると、その大切さがわかるのですから!」といってマネージャーはなにか納得したように独り頷いた。
「ありがとう、君と話しているとなんだか元気が出てきたよ、不思議だな、悲しみも人と共有するとその本質が見えてきて、かえって活力になるとは! 『旅は道連れ、世は情け』か! よく言ったものだ。マネージャーくん、なんとかこの苦難をともに乗り切ろう」
「そうですね、それしかありませんね」とまたしても殊勝に頷く。
彼の自宅を燃やしたのが実は「悪魔」ではなく、他ならぬ「天使」であったことなどつゆ知らず、神はマネージャーとともにいまだ街をさまよっていた。辺りには目つきの悪い男や腹をすかせた犬がうろついている(世の中には、大きな混乱に乗じて何処からともなく現れる、謎めいた怪しいものたちが存在するのだ)。
いまやこの街を支配している唯一の法則は「無秩序」であった。マネージャーはようやく事の異常さに気が付いてきたようで、「先生、早く今晩の宿を見つけましょう!」などと繰り返しささやいた。神はその進言には耳を貸さず、二人はひたすらに歩いた。歩きに歩いた。
――この狂った街を抜け出すために。安息の地を探すために。
《それにしても、悪魔ってどんな奴らなんだろう?》マネージャーはずっと考えていた。《先生によると、二人組の紳士、って話だけどな。なんだか、まるきり想像がつかないな。ニュースの通りの、凶暴で恐ろしいやつらなんだろうか? だとしたら厄介だ。……それでも、できれば、一目見てみたいもんだ! 実在するなら、ね》
この青年は、いつでも現実に生きていた。悪魔など少しも信じてはいなかった。少なくとも今までは。今は?……先生のこの狂乱ぶりに、何かしらの根拠があるのは間違いないと思っている。
しかし、悪魔とは! 借金取りか何かのことじゃないのか? とにかく、悪魔っていうことはなくて、なにか、別のものなんじゃないか? それなら、少しは納得がいく。先生は少し疲れているだけだ。自分も疲れている。二人とも、休暇を取るべきだ……少々長めの。どこか静かな浜辺にでもいって、のんびり過ごそう。それがいい。そうしよう。そうしないと、いつか自分のところにも悪魔が訪ねてくるかもしれない。
悪魔を信じるなんて、まるで昔話の世界だが(子供のころ読んだ『イワンのばか』もたしかそんな話だったっけ)、人間の心の中には悪魔がいる、という考えには確かに一理ある。なにかの拍子に、そいつが、心の中から抜け出して、目の前に現れるのだ。「やあ! 僕、悪魔! よろしくね!」そしてむしゃむしゃと人を食い殺す。
ああ! 僕は疲れているんだ、きっと。休みを取ろう。それも長めの。そういえば、もう半年も働きづめだ。半年前、風邪をこじらして休んだきりだ。そのときは、先生が看病してくれたっけ……。うん、やっぱり先生には恩義がある、もちろん義務も。彼についていくしか道はないのだ、今の自分には。……
いくら歩いても一向に街から出られないことに気づき、神は立ちどまった。
おかしい。こんなに大きな街だったろうか? たしかにここは名のある地方都市だが、それでも所詮は一地方都市。これではあまりにも広すぎやしないか?
そこで神は、ここ数年、自分が街から一歩も出ていない事実に気づき、少しばかり驚いたが、すぐに気を取り直して、街が奇怪に膨張している原因を考えた。
……いや、考えるまでもない、これは絶対に悪魔どもの仕業だ。
神はそこまで考えた後、自らの思考を反芻して愕然とした。「これは絶対に悪魔どもの仕業だ」だって? まるで、中世の迷信深い人々の言いぐさじゃないか? 私はどうかしている。だが、現実はそれ以上にどうかしているんだ!
「どうやら、この街からは出られないらしい」マネージャーの方を振り向いて言う。
「えっ? それはどうしてですか?」
「悪魔……さっき説明した性悪の二人組のせいだ。やつらが何かまじないをして、この街をばかでかく膨張させたのだ。我々は閉じこめられた!」
「はあ。……はあ。にわかには信じられませんが、なんだかこのごろの世の中の混乱ぶりをみると、それもあり得る話だと思えてきますよ。悪魔かなにかが蛮行をふるっているとしか考えられない」
「よし。今日はここらで、どこか泊まれるところを探そう。無理なら、野宿だな」
「野宿はやだなあ……さっきからなんだか物騒だし。ホテルか、親切な人を探しましょう」
「それはいいが、泊まらしてくれた人が悪魔だった、ということもありえる。慎重に探そう」
二人は宿泊場所を探した。しかし当然のごとくホテルなどはみな閉まっており、こんな非常事態に、いかにも胡散臭い二人組を泊めてくれる「親切な」者もいなかった。
途方に暮れ、あてどなくうろついていると、マネージャーが突然立ちどまり、整然と並ぶ街路樹の一本を指さした。
「先生、あの木、なにか変じゃないですか? ほら、あの根元、空洞になっている」
たしかにその木の根元にだけ、不自然な洞があった。人ひとりが丁度くぐれるほどの大きさだった。
神には思うところがあるらしく、率先して木のそばに寄った。彼にはなにか懐かしい予感が芽生えていた。記憶のどこかにこの空洞があった。「いったい、どこで見たんだ? ……いや、見てない、実際にこの目では……けれど、いつか、心に思い描いたことがある。たしかきっと、作品に書いたんだ……でも、なぜ、ここに?」神は思わず空洞を覗き込んだ。
そしてだれかの声を聴いた。あるいは遠い音を。
「危ないですよ、先生! 蛇でも潜んでやしないでしょうか」
「いや、なにか潜んではいるが、少なくとも蛇じゃないな。……いま、中から誰かが私を呼んだ」
「またまた突拍子もないことを! 幻聴じゃないですか、先生? それとも、例の、悪魔のやつらか」
「いや、確かに突拍子もないが、少なくとも幻聴じゃないな……。ん、いま、もう一度私を呼んだ。この声は悪魔のやつらの声でもない」
「それは良かったですね。それで……一体、どうするんです?」
答えるよりも先に神は洞の中に入っていった。マネージャーは急いで洞に駆け寄った。想像以上に深いらしく、神の姿はすぐに見えなくなった。
「こういう時、マネージャーって仕事がつくづく嫌になるよ」と青年は独りごちる。
そして、未知の領域へと足を踏み出す。彼も洞の中へと、深いふかい場所へと落ちていった。
*
『悪魔』二人は街を彷徨う。あの、栗毛の少女の印象を懸命に思い浮かべながら。
それにしても、奇妙な少女だった。可愛らしい外見の裏には、人をぞっとさせるような何かがあった。少なくとも宮田と盥屋はそう感じた。それが、少女が本当に天使のような神聖な存在だから、邪悪な彼らにとって戦慄すべきものであるのか、彼ら以上に少女が邪悪さを隠し持っているからなのかは、二人にとって計り知れない謎である。「ああ! 忌々しい。ただひたすらに」と宮田は思った。
……無様に焦げた二人の服は、一体どのような素材を使いどのような技法で織られているのだろうか、人が、ちょっと嗅いだだけでも忘れがたい印象を残すであろう、とてつもなく奇妙な異臭を放つのであった。まるで、特殊な薬品の塗られた紙を焼いたような、いや、何らかの化学物質が反応を起こした結果とでもいおうか、とにかく、人工的な、不可思議な臭気であって、まばらにせよ、通りすがる街の人々は、その臭気に、思わず顔をしかめたり、あるいは恍惚とした表情になったりするのだった。
二人は、口裏を合わせずとも、いつのまにやら、まるで、今回の全世界的な混乱に巻き込まれた、哀れな一般市民のように振る舞っていた。彼らの演技は役者のように見事で、無残に焦げついた服もその助けとなっていた。
また、二人の気の持ち方も、今回の件で(つまり天使を名乗る少女との接触によって)少しばかりの変化を見せていた。つまり、この『遊び』の主導権は必ずしもこちらが独占できているわけではない、ということだ。『神(実はぱっとしない作家)』とその被造物たる『悪魔(実は小説の中から飛び出した二人組)』との対決を気取っていた二人だが、そこに第三の勢力(と呼ぶべきかどうかわからないが)、『天使(実は……あどけない少女?)』が現れて、その力関係を大きく揺り動かした。天使というからには、神の側に立つ存在に違いない。物語の常識である。つまり彼女が現れたことによって、悪魔たちは非常に「やりにくく」なった。――神を嘲り、被造物は創造主を超えうるということを証明するという目的(ただし、他にも目的はあるが、ここでは明らかにしない)が。
もっと慎重に、狡猾にならなければならない――それが、二人の統一した意見であり、赤裸々な心情であり、暗黙の了解であった。
辺りももう暗い。二人は、人気のない、街の中心から少し外れたところにある市民公園にいた。公園のベンチに腰を下ろし、体を休めている。
と、もしも彼らを逐一観察する物好きがいたら、次のような奇妙なことがわかっただろう――彼らの服装は、まるで傷口が癒えるかのように、小奇麗な、新しいものへと変化しつつあった。どうやら彼らの存在は、その服装も含めて、容易に滅ぼし得ないものであるらしい――自己再生する衣服。おそらくはその肉体も……。
宮田は拾った石を池に向かって投げた。座ったまま、それも池はベンチから十メートルほど離れているにも関わらず、石は吸い込まれるように池まで届き、十数回もリズム良く、見事に水面を蹴り上げ、跳ねて、向こう岸まで渡り切った。「十三メートル」宮田がふてくされたように呟いた。「割と小さな池だな」盥屋が言う。そして次に彼は信じられないほどのスピードで石を投げた。またしてもそれは池に吸い込まれ、今度は派手な音を立てて飛沫が上った。「五メートル半」宮田はまた呟く。「深い池だ」盥屋が続ける。「小さくて、深い池だ。子供が入ったら危ない」真顔で呟く。
「まったく、ため息とあくびが同時に出るね。ところで、さっきくすねてきたんだが、読むかね?」宮田が懐から一冊の本を取り出した。
「なんだい、それは? 本? いつか君が書いていた詩集かな?」
「いや、そんなんじゃあない。これは、神が書いた小説さ。本棚から拝借したのさ……ええと、タイトルは……『僕たちのなにげない愛の終わり』だってよ。ふん! まあ、ありきたりな題だな。三点!」
「それ、何点満点中だい? ちょっと貸してくれ。……どれどれ? ふむふむ、いや、なかなか……ほう! これは感動したよ」
「お前さんは本当に皮肉屋だな。ろくに読んでもいないくせに」
「いや、本当に短い小説なんだが(これは短編集みたいだね)、この表題作には興味深いテーマが隠されている……我々の行く末にも関係があるかもしれない」
「おれたちの行く末? ……へっ! ますます面白くないな。おい! 盥屋、そんな本、燃やしちまえばよかったんだよ」
「持ってきたのは君だろう、それに、マッチだって君が持っている」
「なるほど、違いない。一本とられたな! まあ、なにかに使えるかもしれない、とっておくとするかね……ところで、盥屋君、これからどうしますかね?」
「天使から逃げ、神を追う」盥屋は極めてまじめな表情で言った。
「天使から逃げ、神を追う! まるでおとぎ話のような台詞だな! しかし、今は確かにそれしかないな。癪な話だが、あの娘っ子には、歯が立たない……少なくとも、今のおれたちでは(今後の頑張り次第では逆転するかもしれないが!)。とにかく今は、神を探すしかない……おれの砂時計を盗みやがったあいつを」
盥屋は答えない。宮田がそれをいぶかって顔をやると、盥屋は硬直してある一点を凝視している。立ち並ぶ街路樹の方である。静かに風が吹いている。木の葉が揺れる。
「おい、どうした?」
「いま、だれかが、あそこの木の根元から地中に入っていった。というより、落ちて行った」
「なんだと? 世の中には、変なこともあるもんだな。……それで?」
「二人組だったが、そのうちの一人は、神かもしれない。背格好がよく似ていた。もう一人は知らないが」
「なんだと? 神のやつが? ええい、こん畜生、仲間を増やしやがって! それにしても、一体この世界はどうなってやがるんだ?」
「それは」盥屋が受けて、
「私たちが言っていい台詞ではないね、少なくとも。……とにかく、あすこに行ってみよう」
二人がその街路樹のところまで行ってみると、そこにはただ、何の変哲もない木々が生えていた。どの木の根元を調べてみても、何の異常なところもない。宮田は地面を蹴って舌打ちした。
「はっ! 盥屋君、君が嘘をついているとまでは言わないが、あんまり話が荒唐無稽すぎるんじゃないのかい? さすがにさ! どこにも、なんにもありゃしませんぜ」
「それを言うなら、我々が存在すること、それ自体が荒唐無稽だよ。宮田、さっきの本をまた貸してくれ」
盥屋は受け取った本をめくると、不意に、この男には似つかわしくないほどの大きな声で朗読し始めた。辺りに人が誰もいないのが幸いだったが、誰かいたら間違いなく変人扱いされてしまっただろう――――実際に彼らは変人なのかもしれないけれども。
「『僕たちのなにげない愛の終わり』作・A
民夫と節子というカップルが一緒に住んでいる。民夫は小説家になろうとしているパッとしない三十になろうかという男である。節子は真面目だが、不真面目な男に惹かれてしまうところのある、よくあるタイプの女性である。彼女がパートで働くことによって、なんとかこの同棲生活の生計は支えられている。民夫はいまだ小説を書こうともせず、自己啓発本やハウツー本を読んでは、その内容を節子に語って生きている。おかげで節子も自分を奮い立たせる方法や、創作にまつわる心構えについて、やたらと詳しくなってしまった。……二人は付き合いだしてもう三年になる。
民夫は今日も働きもせず、家でゴロゴロしながら本を読んでいる。節子が裁縫をしているうららかな午後、不意に彼は口を開いた。
「俺、小説家になるんだ。だから、節子、別れてくれないか」
民夫にこう言われた節子は、驚きのあまり目を丸くして、
「え? それってどういう意味?」とだけ言った。信じられない言葉だった。
「そりゃあ、そっくりそのままの意味さ。俺は作家になって飯を食う。そのためには絶対に一人にならなくちゃならない、……そう思うんだ」民夫はきっぱりと宣言した。
「まだ意味がわからないわ。作家になるって夢は応援する。……だけど、どうして私たち別れなくちゃいけないの? 二人で夢を追いかけましょうよ」と節子。
「聞いてくれ、節子。小説家っていうのはな、インスピレーションが重要なんだ。それにな、インスピレーションってのはどうやら孤独にならないと得られないものらしいんだ」民夫が拳を強く握りしめながら言う。
「なんだか、ありきたりな話ね。……それ、どこで聞いたの?」
「今読んでいる小説だよ。節子も読むかい? 絶対に感動するぜ」
「いや、いいわよ、別に……ねえ、あなた、ちょっとは成長してくれない? その、なんでも信じちゃう性格とか、創作のことを現実と混同しちゃうところとか、まあ、かわいらしいっていえばかわいらしいけど、今回はさすがに度が過ぎるわよ。いい加減にしたら?」
「ああ、節子、節子! 俺のインスピレーションを奪ってくれるなよ! インスピレーションを!」民夫はいきなりそう嘆いた。
「俺は、俺はさ、小説家になりたいんだ! 小説でおまんま喰いたいんだ! 売れっ子作家になりたいんだ! 印税生活がしたいんだ! 豪邸に住みたいんだ! 高級車を乗り回したいんだ! マリリンモンローみたいな女を助手席に乗せてさあ! そのためにはインスピレーション! インスピレーション! インスピレーションが大切なんだ! 大事なんだ! 重要なんだ! だから、頼む、どうか、俺と、別れて、くれ!」彼は一気に己の夢、というより欲望、つまり妄想をまくし立てた。こんなに激昂した民夫の姿を節子は見たことがなかった。こんなエネルギーが彼にあるとは。
しばらく、沈黙が部屋を覆った。
その子供っぽい様子、というよりも異常な反応に節子は愛想を尽かし、また恐怖を覚え、ため息とともにこう言った。「はいはい、わかりました。わかりましたってば。じゃあ、別れればいいんでしょ? 別れれば……」
「そうか! 別れてくれるか! ありがとう、ありがとう節子! 万歳、バンザイ! これで俺もベストセラー作家への切符を手にしたぞ!」民夫は手に持っていた本をほっぽりだして叫んだ。
こんなことを言われたら、別れると言って喜ばれたら、怒りがこみあげてくるのが普通なのかもしれないが、節子は、どうしてこんな人間と暮らしていたのかと、むしろ今までの自分自身のことを不思議に思った。そしてなぜか、なんということのないことが一つだけ、やたらと気になったのだった。
「……ねえ、最後にひとつ教えてちょうだい、その小説、なんていう題名なの?」
「これ? これはね……えっと、『僕たちのなにげない愛の終わり』っていうのさ。節子も読みなって……俺は、絶対に売れっ子作家になるぞ!」民夫は叫んだ。
このときの二人に知る由もないが、事実、別れた後に、作家デビューすることになる……「彼女」は。習わぬ経を読む、節子は民夫に繰り返し聞かされた本のノウハウを生かして、だめんずの生態を鋭く抉った体験談を数多く執筆、見事ベストセラー作家への道を歩むのである。
それからの民夫の行方は誰も知らない。」
盥屋は読み終わると、小さくため息をついた。
すると突然、木の根元のあたりに、人ひとりが何とか通れそうな洞が開いた。
「おい、これは一体全体どういうことだい? 君は魔法使いだったのかな? おみそれしたよ!」宮田は内心ひどく困惑しながら言った。
「お褒めにあずかり光栄だな」盥屋は微笑して答えた。
「それと、なかなか朗読がうまいじゃないか、迫真の演技、感動したぜ!」
「……やはり、この世界は、もはや我々の物語と一体となってしまっている。だから、こんなわけのわからない仕掛けがたくさんあるのさ。自分でも、まさかとは思ったけどね」
「ほう、ほう、ほう、つまり、部外者なのは、もうおれたちだけじゃないってわけだ。この世界自体が変質しつつあるわけだね」宮田はへらへらと笑った。
洞はうつろに二人をのぞき返している。恐る恐る足を踏み入れる宮田、いや、踏み入れると間もなく吸い込まれ、墜ちてゆく――盥屋がそれに続く――洞が二人を飲み込むと、たちまちのうちに樹の皮が広がってそれをふさぎ、跡形もなくなった。




