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夏の夜のふすかとすれば〈二〉

「それは、環水平アークですね。」


 真っ直ぐに伸びる虹を見た日の翌日、二週間ぶりに紗月は墨の香りを嗅いでいた。教室は年間で回数が決められており、先週のようにお休みの週もあるのだった。

 本日は海の日も近いということで、海を題材にした和歌をいくつか練習した。中でも紗月が気に入ったのは、夏の海を彷彿とさせるような情景が素直に詠まれた万葉集の一首であった。対して隣に座る京子は、こちらも万葉集の歌で、沖の白波を見て花を連想し、奥さんへのお土産にしたいと詠う可愛らしい一首が気に入ったようだ。

 何枚か練習して、割と納得のいく出来栄えのものを暁人に見せに行く。ふと昨日の昼前に目にした空の様子を思い出し、暁人に尋ねてみた応えが冒頭の言葉だった。


「かんすいへいアーク、ですか…?」


「うん。薄曇りの空に、昼前に見えたんだったら恐らくそうだと思う。薄雲を構成する氷の粒が太陽の光を屈折させてできる光学現象で、太陽より少し低いところの空に見られるんだ。」


「さすが先生。詳しいんですね。」


(すごい。やっぱり知ってた…)


 予想通りとはいえ、暁人の博識さに紗月は驚く。


「前にも話したけど、空の現象とか天体が好きで、その手の本を結構持ってるんだ…。今度、神谷さんにも貸しましょうか?」


「良いんですか!ありがとうございます。」


 暁人が読んだ本…それはとても特別な気がして、紗月の胸が高鳴った。


「ところで、ここを少し見てもらいたいんですが…」


 朱墨(しゅずみ)で添削が終わった部分を指して、暁人が注目を促す。しっかり聞かなければ、と覗き込んだ紗月の耳元で、控えめなトーンで紡がれた涼やかな声が鼓膜を震わせた。


「今日は、かき氷にしませんか。」


 またしても不意打ちを喰らった紗月は驚きに口元を押さえ、頬を朱に染めてしばし固まった。



(かき氷も、抹茶の味が濃厚ですごく美味しかった…)


 またしても暁人の奢りで、目にも鮮やかな緑を堪能した紗月は、帰宅してすぐシャワーを浴びた後、ベッドにうつ伏せで横になっていた。手元には、暁人に借りた本がある。沢山の綺麗な写真や図を用いて、様々な空の現象について記載された初心者向けのその本を眺めながら、茶寮を出た後のやり取りを思い出していた―――



「そう言えば、さっき言っていた本ですけど、僕の家、この近くなんで、良かったらちょっと寄って行ってもらえませんか。」


 そう唐突に言われて一瞬戸惑った紗月だが、暁人の自宅という魅力的な響きに負けてお邪魔することにした。


(本を借りるだけだし…)


 瀟洒(しょうしゃ)なエントランスを抜けて、7階の角部屋の重厚な扉を開けると、白檀の香りに包まれた。


(先生の香りだ…)


「適当にかけて待っていてください」


 そう言い置いて、リビングにつながる部屋の一つに入った暁人は、壁一面に並んだ本棚から目的の本をいくつか抜き取っている。

 紗月はダークグレーの布張りのソファに腰掛け、彼が選別し終えるのを待った。

 手持ち無沙汰に視線を彷徨わせていると、ふと、テレビボードの上に無造作に置かれたあの小説のドラマCDに気が付いた。確か、アニメ化の記念で最新巻の初回限定版に付属していたものである。紗月がハマったのはそれが発売されてしばらく経った後だったので、通常版しか持っていなかった。近くでよく見てみようと立ち上がり、手に取った紗月に、後ろから声がかかる。


「ああ、それ、もし良かったら差し上げますよ。」


 書斎からリビングに戻ってきた暁人が、ガラス張りのテーブルに選んだ書籍を置いて、ソファに腰掛けた。紗月も元いた位置に戻って、CDのパッケージを検分する。よく見ると、CDの盤面にペンを走らせた跡があった。


「これ…、もしかして、サインですか?東雲先生の…」


「あっ、いや…その…そう言えばそうだった。…知り合いにちょっとしたツテがあって、もらったんだ。」


 紗月が驚いて尋ねると、何故かしどろもどろになった暁人が上擦った声で応える。


「そうなんですか!?じゃあ、先生は、東雲先生がどんな方か、ご存知なんですか?」


 今更ながら聞き捨てならない内容を知った紗月は、ソファの座面に手をついて、やや前のめりに暁人に詰め寄る。


「そう…だね。知っていると言えば知っているね…。僕と同年代の男性で…まぁ、気さくな人柄だと思いますよ。」


 応えながら明後日の方向を見る暁人に不自然さを感じた紗月は、最近脳裏に浮かんだ突拍子もない推測をぶつけてみたくなった。そのまま暁人ににじり寄り、自身の右手で暁人の左手首を掴む。驚きを讃えた暁人の双眸と目が合い、しばしの沈黙が二人の間に落ちる。紗月が意を決して口を開きかけたところで―――暁人の袂から携帯の呼び出し音が鳴った。


「ああ、ちょっと失礼。」


 書斎に引き返し、二言、三言会話した後、すぐに電話を切って戻ってきた暁人は、何事もなかったかのようにソファに座り直し、紗月に向き合った。


「ええと、何だったかな…そうそう、そのCDはぜひ神谷さんが持っていてください。その方がきっと作者も喜びますよ。あ、そうだ。良かったら、連絡先を交換しませんか?」


 なんだか誤魔化されたような気がしたが、連絡先を交換、というワードに気を取られ、結局有耶無耶になってしまった。


―今度は、ちゃんとおもてなししますから、是非また遊びにきてください―


 その後、わざわざ紗月の自宅まで送ってくれた暁人は、そう言って(きびす)を返した。

 暁人に借りた本を一旦閉じて、枕元に置いたスマホの画面を開く。先程できたばかりのトーク画面を見つめながら、何かお礼の言葉を送ろうと推敲しているうちに、いつの間にか紗月の瞼は落ちていた。



CDにサインの練習をしていたことをすっかり忘れていた暁人笑


夏の夜のふすかとすれば時鳥鳴く一声に明くるしののめ


大海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲


伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ

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