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夏の夜のふすかとすれば〈三〉

「あっ、ぶなかった…」


 紗月を送り届けた後、自宅に戻ってきた暁人は、つい先程の彼女の何か言いたげな真剣な瞳を思い出し、思わず胸を撫で下ろした。墓穴を掘った自覚はある。恐らく、彼女が訊きたかったであろうことも。

 バレることを、どこか望んでいる。しかし、まだもう少しこの時間を楽しんでいたい気もする。相反する二つの気持ちに、自分でも少し戸惑っていた。


(もう少し、話していたかったが…)


 連絡先を交換できた。それだけで、大分前進した気がした。この数週間で、思いがけず知った彼女と自分の共通点。一回りほども歳下の彼女だが、これ程までに似た感性の持ち主とは、そうそう巡り逢えない気がした。


(眼が、離せなかった…)


 光を受けて一層薄い色彩に見える瞳に、自分と同じ熱が孕まれている気がして、どこまでも吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

 彼女の繊手に掴まれた左手首の感触を思い出す。まだそこがじわりと熱を持っている気がして、暁人は自身の唇に押し当てた。



 「あっ、見えた!すっごく綺麗…」


 夏の強い日差しが照りつける昼下がり、太陽をビルの影に隠しながら、綿雲の浮かぶ空を見上げた紗月は、目当てのものを見つけ出し、思わず声を上げた。

 月を跨いで続く猛暑に、やや夏バテ気味の紗月であったが、こうして彼と繋がるものを探すことで、気持ちが上向くのを感じていた。

 空に向かって、シャッターを切る。吉兆とも言われるその姿を上手く画面に収めた紗月は、すぐさま暁人に送信した。



「ほう…、彩雲ですか。」


 自宅の和室に置いた文机の前に座し、色とりどりのかな用料紙を広げていた暁人は、紗月から興奮した文面と共に送られてきた美しい写真を見て、知らず口元が弧を描いた。自身の手元にある紙たちと同様に、七色に彩られた雲が、暁人の創作意欲を掻き立てる。


「また神谷さんに助けられたな…」


 もう何度目かになる彼女が齎す閃きが、掌から零れ落ちないようにと、逸る気持ちでスマホのメモに書き留めた。



(あ、まただ…)


 暁人に写真を送った次の週。食事と風呂を済ませてベッドに横になりながら小説の更新時刻を待ち侘びていた紗月は、アップロードされた最新話を読むなり、違和感に気づいた。

 そこでは、主人公と、旅の仲間に加わった(おぼろ)との、戦いに赴く前の重要な会話が描かれていたのだが―――


『なんだろう、あの綺麗な雲は…』


『これは素晴らしい。瑞雲や、慶雲と呼ばれる吉兆にございます。』


 瑞雲、慶雲…。紗月は、あれからまだ借りたままになっている、暁人の本の頁を急いでめくった。


(やっぱり、そうだよね…)


 そこには、七色に輝く雲―彩雲の別名として、瑞雲、慶雲の言葉も載っていた。確信めいた予感に、紗月の胸は一気に高鳴る。


(どうしよう、確かめる…?でも、本当に偶然かもしれないし…違ってたら恥ずかしい…)


その時、ふと先日の暁人とのチャットでのやり取りを思い出した。真新しいトーク画面で、何か先生と話したい。そう思ってはいたものの、きっかけを掴めずにいたところに、向こうから振ってきた話題。


『紗月って、素敵な名前ですよね』


(…嬉しかった、名前を褒められて。)


『僕の雅号にも月が入っているんですよ』


(…知ってます。お揃いだなって、私も思ってた。)


『雅号って、師匠にもらうことが多いんですけど、僕は自分で考えたんです。名前から一字取って…』


(天体が好きな先生にぴったりの名前…)


『有明の月、明け方の空に残る月、っていう意味なんです』


 ―――明け方の、月。あかつき、しののめ…


 すぐに身体を起こして、スマホで検索する。


(そっか、そういうことだったんだ…)


 繋がった。そう思った瞬間、メッセージの通知音が鳴る。今や二重の意味で紗月が恋い慕う人からの思いがけない申し出を目にし、さらなる興奮でなかなか寝付けなくなった紗月は、漸くの睡魔が訪れたところで空が白むのを夢現に捉えた。

東雲…夜明け、明け方、暁を意味する古語。

玉兎…月の異名。まるい月の中にウサギが住むという伝説から。

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