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「初仕事とアグリコと」

 水曜日の一件以降、功太に数日の安息が訪れていた。腕輪は妖怪からの影響だけでなく、香が及ぼす妖怪への影響も消すらしい。おかげですねこすりにも寄れるようになった香は、その毒牙をいつすねこすりにかけようかと毎日奔走していた。それを敏感に感じ取ったすねこすりは、香に近寄れるようになってからも逃げ回っていた。

 功太はあの日以来、受け取った蜘蛛切を肌身離さず持ち歩いていた。これは、冬美の助言があったからだった。

「天子になった以上、これからますます妖怪との接触は増えると思うわ。友好的な相手ばかりとは限らない。蜘蛛切は常に近くに置いておいた方が身のためよ」

 そんな警告をしながら、冬美はしばらくの間図書館に顔を出さなかった。不吉な言葉を残された功太はというと、気味が悪いと思いながらも蜘蛛切を手放せずにいた。

 一方で図書館の整理の仕事は、冬美に免責されていた。功太を雇ったのは天子にするのが主な目的であり、貯蔵庫の整理はさほど問題ではないということだった。

 それでも、なにもせず過ごすには図書館の一日は長い。結局功太は、香とともに地下室で整理に励むこととなった。

「寒い」

 香がそう文句を言う。

「さっきも聞いた」

「さっきも言った」

「それもさっき聞いた」

「それも……」

 よくわからない会話を交えつつ、二人は仕事をすすめた。元々本好きの二人だけあって、興味のある本を見つけてはリビングに持ち帰って読みふけるという不真面目きわまりないものであったが、すでに免責されている以上それを咎める権利は誰にもなかった。

 今日もまた、香は興味深い本を見つけたらしい。口数が少ないな、と功太が香を見たとき、香は一冊の本に没頭していた。

 脇からそれをのぞき込むとただの百科事典のようなものだった。

「百科事典なんて、おもしろい?」

「面白いぞ。トゲアリトゲナシトゲトゲとかな」

 功太は香にリビングで読むようにと薦めた。功太は日に日に寒さに強くなってゆくが、香はどうもそうではないらしく、貯蔵庫にいるときは手を痛いほど赤くしていた。リビングにいて良いよと、功太は言っているのだが、先日の一件以降、香はなかなか功太の側を離れようとしなかった。


 功太と共にリビングに戻った香は、さっそく功太に紅茶をねだる。最近では地下から戻ったときに紅茶を飲むことが通例になっていた。

 紅茶を淹れる功太の肩にすねこすりが上る。香と距離を置く必要がなくなったということは、同時に功太から離れる必要もなくなったということだ。すねこすりもまた、功太の傍を離れることは少なかった。

 功太は自分と香と、すねこすりの三人分の紅茶を淹れた。

 

 そのとき、玄関から板に釘を打ちつけるような音が聞こえた。功太が敏感に反応し、蜘蛛切を手にソファから立ち上がった。

「ごめん、ちょっと出てくるね」

 この音は、功太が追い犬や天狗と取り決めた合図だった。彼らは香に近づけないため、冬美が居ないときに功太と接触しにくい。天子となった以上、妖怪との連絡は密にするべきだと言われ、この合図を定めた。この音が聞こえたら、功太は香から離れて、図書館の門までくることになっていた。

 もちろんこのことを香も知っている。しかし、香はただ黙って功太の背中を眺めているだけだった。功太は返事が無いことを奇妙に思いながらも、紅茶に夢中なんだろうと結論付けた。


 門には追い犬が待ち受けていた。

「天子、仕事だ」

 冬美から整理の仕事を免責された代わりに、功太には天子としての仕事を担うことになった。功太にとって、今日が初めての仕事ということになる。

 功太が神妙な顔でうなずくと、追い犬は蜘蛛切を確認した。

「常に持ち歩いているようだな」

「香坂さんに、そう言われたので」

「良い心掛けだ。今回も、それが必要になるかもしれない」

 追い犬は仕事内容を淡々と話し始めた。

 この山に住む妖怪の一体が、頻繁に麓の人間と接触している。接触といっても、互いの影響を考えて、直接会うのではなく、麓にある寂れた公園に手紙を置きあって文通をしているとのことだった。

「例え何人であろうとも、一般に妖怪の存在が認知されてしまうのは好ましくない。人間の足が増えてしまう可能性がある。天子には今回、この妖怪……アグリコの説得あるいは排除を願いたい」

「説得、排除ですか」

「その通り。説得が通じる相手ならば説得を試みるのは勝手だが、排除するのも天子の役割だ。そのための蜘蛛切でもあるのだからな」

 いきなり殺せと言われても、功太には現実味を伴わなかった。その原因は今までの経験として、人や動物を積極的に殺めたことが無いということが強い。誰しも知らない世界のことは白昼夢のように思えてしまうものだ。加えて、その頼みの綱たる蜘蛛切がおもちゃのように軽いという点もあった。蜘蛛切は質感が強く、持っているだけでそちらに引きずられるような感覚があるが、日本刀にしては随分と軽量だった。人間には理解しがたい不条理に生きる妖怪の刀だからだろうと功太は勝手に納得した。そのため、蜘蛛切で妖怪殺せといわれても、どうしても想像がつかなかった。

 そんな功太に、いやな考えが浮かんだ。

「香も、一般人に入ると思うのですが、彼女は良いんですか」

「……新藤香は、主を天子にするために我々が呼び寄せたのだ。特例と言って良いだろう」

 そう言いつつも、追い犬もまた疑問だった。冷徹、狡猾と名高い天狐が、果たして役割を終えた新藤香を放置しておくだろうか。しかし現状、天狐たる香坂冬美にそういった動きは見られなかった。

「本来、妖怪の排除は天狐が行っているのだが、最近の彼女は別の仕事に追われているのだ。そちらが少々やっかいなようでな、私もこの件が片づいたらゆくつもりだ」

「気にはなっていたんですけど……天狐さんというのは? 会ったことはありませんよね。何回か名前は聞きましたけど」

 もう誤魔化す必要も無いだろうと、追い犬は決意する。

「香坂冬美のことだ。彼女は狐の妖怪である妖狐族の最高位、天狐という妖怪だ。天狐もまた天子と同じ、人間と妖怪の中間に位置している。……本来は狐の姿をしているのだが、天子と接する機会や人間界での活動も多い為に、人の姿を模している」

 功太はぽかんと口を開けた。香坂冬美が普通の人間で無いことはわかっていたとは言え、まさか妖怪で、しかも本当の姿が狐だとは想像もつかなかった。瞬きを何度も何度も繰り返しながら頭の中で追い犬の言葉を反芻し、咀嚼する。

「えっと、香坂さんが妖怪?」

「ああ」

「でも、香と一緒にいましたよ」

「お前も私と共にいるだろう。それと同じだ」

 功太は頭を抱えそうになるが、自分も同じようなものなのではないかと思い至った。功太は人間でありながら妖怪の世界に足を踏み入れている。それと同じように、冬美は妖怪でありながら人間側に傾いているのではないだろうか。

「天狐のことはとりあえずまた今度で良い。今はアグリコの方を頼む」

 一瞬の間の後、功太は「わかりました」と答えた。

「では、乗れ」

 うなずくと、功太は追い犬の背中にまたがる。二度目だからか、あるいは天子となったからなのか、不思議と躊躇は無かった。

 追い犬が紫の風を纏い出す。

「そうだ天子。お前は我々に対して敬語を使ってはいけない。天子たる威厳が損なわれる」

「わかり……わかった」

 普段敬語を使っているだけに、どうも違和感が拭えない。このときだけは、功太は香が天子になるべきだなと、想像を巡らせた。追い犬を遣う香は良い絵になるだろうな、などと考えていると、追い犬が走り始めた。


 功太が再び景色を認知できるようになると、そこにはすでに件の妖怪がいた。砂漠のオアシスのように華やかな草原が功太の目の前にあり、草原の入り口で、アグリコが顔を伏せていた。

「ご足労戴き、光栄に思います。天子様」

 ほとんど土下座に近いほど頭を下げたアグリコに功太は困惑しながら、追い犬の背から降りた。妖怪の天子や天狐に対する対応としてはアグリコのようなものが一般的であるのだが、それを知らない功太はどう返答して良いものかわからない。代わりに口を開いたのは追い犬だった。

「頭を上げろ、アグリコ」

 アグリコがその狐の面を功太に向けた。姿はおおよそ人とは変わらなかったが、その顔だけは狐の面影を隠すことができず、髭、耳、体毛などから妖怪であることを容易に判断できた。

「アグリコは元来人を好む妖怪だ。であるが故に、狐であるその姿を人間に似せようとする。しかし、完全な擬人ができるのは天狐だけだ」

 追い犬が耳打ちをした。功太は端麗な草原を見渡し、そこに立つ狐を見、思わずため息が漏れた。

「綺麗な場所ですね」

 うっかり敬語が漏れてしまうが、それを止めることもできなかった。追い犬の視線を感じながら、草原の花を見た。冬であるのに草原は瑞々しい草花が溢れていた。春先のような派手さは無いが、白や青など、落ち着いた色合いだ。草原を囲むようにしている木々の様子も見事で、人工的な形状の端正さの中にも、緑色の美しさを残していた。黄泉平坂の神秘的な光とはまた違う、夢の国や桃源郷のような風景だった。

「僭越ながら、わたくしが手入れをさせていただいております。花の種の多くは人間からの戴きものでございます」

「人間からの」

 やや間があってから、アグリコは答えた。

「ええ」

 追い犬は、妖怪を一般人に知られることは悪だという。複雑な心境だろうと、ぼんやりと想像した。

「人間との交流。タブーであること知らない訳ではないな、アグリコよ」

 厳しい声色で追い犬が言う。はっきりとした非難が込められていた。

「わかっております」

「ここに天子が来た意味も、わからぬわけではないな」

「わかっております」

 アグリコの声にはある種の決意があった。二人もそれをひしひしと感じ取れた。

「ここ最近のわたくしの行為は、目に余るものであったと存じます。毎日のように人間と文通をし、遠距離であったとは言え、人間の男に姿を晒すという愚かな行動。……処分は受ける所存です」

 追い犬は「説得か排除」と功太に言った。話し合いですむのなら、剣を抜く必要は無いのだ。アグリコが理性の高い妖怪であったことに、功太は安心をする。目で追い犬に合図すると、追い犬も頷いた。

「いえ、今後、そういった活動を自粛してくれるなら、特に問題はありません」

 はっとアグリコが顔を上げる。そこには純粋な驚きの他に、苦虫を潰したような表情が浮かんでいた。

「お優しいのですね、天子様は」

 今度は追い犬が苦笑する番だった。アグリコが言った「優しい」という言葉は、天狐と比較していることが明らかだったからだ。

「でも、自粛する事はできません」

 功太は息を飲んだ。丸く収まると思っていたところでの、予想外の展開だった。

「どうして、ですか」

「……恋を、してしまったのです。人の子に。愛おしくてたまらない。妖怪に比べれば余程か細く、寿命も短い。それでも、あの方の優しい気質は、妖怪には決してないものです」

 まっすぐと功太を見、息を吸い込んだ。

「天子様を拝見して、確信致しました。あの優しさを、妖怪は妖怪に向けられない。死を色濃く知る人間だからこそのものでございましょう。それを知ってしまったので、もう止まることなど出来ないのです。……私を止めたいのなら、止めることが使命であるのなら、殺してくださいませ、天子様」

 功太は硬直する。長い沈黙が草原を支配した。冷風が草花を揺らし、凍りつかせる。空は明るいのに、暗雲がすぐそこまで迫っているような気配を、功太はひしひしと感じていた。草原がざわつく声を、確かに聞いたのだ。

「蜘蛛切を抜け、天子」

 追い犬が緊張した声で言う。功太もまた、無意識の内に蜘蛛切に手をかけていた。理屈は分からないが、蜘蛛切が出たがっているのだと、功太は感じとった。

「それで良いのですよ、天子様」

 功太にとって、アグリコの行為はそれほど悪いことに思えなかった。人間との文通。決して不特定多数の人間に姿を示したわけでも、あるいは悪意を持っていたわけでもない。それなのに、なぜ殺しという最も重いであろう処罰をしなければいけないのか、納得ができない。そしてそれを平然と受け入れているアグリコにも、功太は違和感を覚えていた。……人間と妖怪で、何か決定的な価値の違いがあるのだと、功太は悟る。

「アグリコは、いったいどうやってその人と文通をしていたのですか?」

 唐突な質問にアグリコはきょとんとした顔になるが、すぐに微笑み、話し始める。

「山の麓に、ひときわ大きな柊の樹があります。その根本に、私たちは文を置きあうのです。朝が開ける前にわたくしが置き、夜が静まる前に彼がその返事を置くようにしています」

 少しばかり考えたあと、功太はそれが他人に見つかりにくい手法であると結論付けた。

「追い犬。別に、不特定多数の人に妖怪のことを言い触らしている訳ではないし、許容してあげても良いんじゃないかと思うのだけれど……」

「……。それを決めるのはお前と天狐だ。妖怪を裁くのはお前等なのだからな」

「じゃあ」

「だが、一つだけ言っておく。天狐なら間違いなくアグリコを斬るだろう。そしてその彼とやらもな」

 功太は閉口した。普段の香坂冬美の姿と、追い犬が語る天狐の姿がどうしても重ならなかった。香と話し込んでいた冬美が、果たしてそんな無情なことをするのだろうか。さらに言えば、そんなことを出来るのだろうか。

「天子様。わたくしたち妖怪は、人間ほど死を恐れてはいないのです。わたくしたちは闇より生まれ、闇に帰る。ただ、帰るだけなのですよ」

 アグリコは慈しむような顔で言った。我が子を思う母のような、そんな表情だった。

「お斬り下さい、天子様。それがわたくしのためであり、あなたのためであるのです」

 アグリコの決意を込めた優しい言葉が、草原に木霊した。



 天狐こと香坂冬美は、追い犬が言うところの「やっかいな仕事」もそこそこに、図書館に立ち寄っていた。香としばらく談笑を楽しんでいると、自然とその話題は功太のものになった。二人の共通の知り合いが功太だけなのだから当然だ。

「功太は今日、なにをしているんだ? てっきり、冬美と一緒にいるのかと思っていた」

 ぼんやりと言う香の前には、手のつけられていない紅茶があった。冬美が来たために自分で淹れてみたは良いものの、予想以上に功太の味に近づけず、飲む気も起きなかった。市販のインスタントでも、存外と淹れた人間の味がでるのだと、改めて香は認識した。

 冬美はそんな香の様子をほほえましく思いながら、差し出された紅茶を一口舐めた。

「今日は追い犬と一緒に仕事をしているわ。規律を乱した妖怪の粛正をね」

「粛正……刑務所にでも閉じこめるのか」

 冬美は朗らかに笑うが、その詳細は隠した。

「まあ、そんなところよ。今頃四苦八苦しているんじゃないかしら」

「功太はなんだかんだ甘いからな。そんなたいそうな仕事務まらないんじゃ無かろうか」

 冬美が「でしょうね」と同意すると、二人はさわやかな笑いをこぼした。

「務まらないと思うのに、なんで冬美は功太にテンゴ……だっけ? の仕事を与えたんだ?」

 香の言葉にはかすかな非難が込められていた。

 天子となって以来、香の目から見ても功太の様子は少し変だった。よそよそしいというか、どこと無く心ここにあらずといった感じなのだ。また、香は功太の持つ蜘蛛切を見て、天子の仕事が穏やかなものでは無いことを予想していた。だからこそ、そんな仕事功太に与えた冬美に、非難の色を浴びせずにはいられない。

 そんな意図をくみ取って、冬美は答えた。

「私が与えたわけじゃないわよ。彼が、あなたを救うために自分から天子になったのだから」

 あの日の詳細を、冬美は語り始めた。香は自分が倒れている間に功太に起きたことを知り、驚愕し、そして反省した。結局、功太を今の状況に貶めたのは自分なのだ。

「まあでも、あんまり自分を責めないで頂戴。どちらにせよ、荻原君には天子になってもらう予定だったし……そのためにこの図書館に呼んだわけだしね」

 紅茶を飲みながらそんな風に語る冬美の様子に、悪びれたものは一切感じられなかった。それは冬美の性分でもあり、本心でもあった。

「ねぇ、香ちゃん。今荻原君は、ある妖怪を殺しに行っているわ」

 香は注意深く冬美を見る。冬美は時折過激な冗談を飛ばすことを香も知っていたので、今回もそれではないかと疑ったのだ。

 しかし、その顔に冗談と思わせる笑みはない。

「……殺しに」

「そう、殺しに。天子とはそういう存在だもの。妖怪と人間。複雑な二種族の関係を保つ為に動く殺人鬼。……そうそう、殺人鬼とはよく言ったものよね。人を殺す鬼。人を殺す人はもはや人間じゃないって考えなんでしょうね。とてもおもしろいわ」

 香の表情が段々と険しくなるのを見て、冬美はほくそ笑んだ。

「冬美。あんまりそういう冗談は好きじゃない」

 慎重にそう告げる香に、冬美は幾分の間も持たせずに切り替えした。

「冗談では無いわよ」

 沈黙が冷たい図書館を包み込む。冬美はわざとらしく音を立てて紅茶を啜った。

「……でも、荻原君はきっと、殺せやしないでしょうね」

 香は噛みつかんばかりに反応した。

「当たり前だ。功太はそんな人間じゃない」

「荻原君はもう人間じゃないけどね」

「冬美」

「冗談よ」

 冬美はひらひらと手を振った。それを見ても、香は険しい顔をして冬美を睨みつけるだけだった。


 二人が静謐を守っていると、玄関が開いた。功太が帰ってきたのだ。功太はリビングに入るなり二人を認め、その空気の重さに驚く。

「香坂さん、今日は仕事なんじゃ?」

「休憩中よ」

「……さっき追い犬が香坂さんの元に向かいましたけど」

「あらら。すれ違っちゃったかしら」

 冬美は頭を掻くふりをした。

「ところで荻原君。アグリコはちゃんと殺してきた?」

 冬美の瞳が紅く染まるのを、功太は見た。ぞっとするほど冷たい紅色に、気後れすら覚える。功太は改めて、冬美は妖怪なのだと悟った。

「殺してません」

「……あら。追い犬はなにをやっていたのかしら」

「判断は俺に任せるということでしたので。……アグリコは、妖怪にとっても人間にとっても悪いことはしないと思います」

「本当にそう言い切れる?」

「はい」

「たった一回、しかも半日も会ってないのに大した自信ね」

 冬美はくすくすと笑った。嘲るような声に、功太は思わず蜘蛛切を握りしめた。

 冬美は立ち上がって、功太の方へ近づいた。

「ま、良いわ。荻原君に妖怪を斬れるとは思ってなかったし。……でもね、荻原君。もしも、目の前に香ちゃんを襲う妖怪がいたら、あなたはどうするの? そのときになっても日和見するのかしら」

「そのときは、斬ります。アグリコはそんな妖怪じゃなかっただけです」

 冬美は功太を見、蜘蛛切を見、最後に香を振り返ってからその場を後にした。功太は冬美が居なくなってからもどうしても動くことができなかった。

 そこに、香が近寄ってくる。

「功太、大丈夫か」

「ん、ああ」

「眉がぎゅーってなってるぞ」

「大丈夫だよ」

 功太は優しく香の頭をなでた。それがどうにも功太らしくなくて、香はまた不安になる。

「……無理なら、天子をやめてもいいんじゃないだろうか」

「それは……」

 それこそ無理だと、功太は思う。蜘蛛切はもうおそらく、自分の手を離れることはないだろうという、漠然とした予感があった。蜘蛛切を手に取るときに感じた背筋を撫でるような恐怖は、手中にあるからこそ押さえられているのだ。一度蜘蛛切から手を離してしまえば、また飲み込まれてしまう……そう、功太は予見していた。

「大丈夫だよ。ありがとう」

 なにがどう大丈夫なのか、それすら伝えることが功太には出来なかった。香もまた目を伏せたが、そこにすねこすりが近寄ってきて、功太の肩に上った。

「スス。そこに上ることはゆるさん」

 香が言うと、すねこすりは威嚇するように鳴いた。

「スス?」

「すねこすりの名前だ。いちいちすねこすりと呼ぶのは面倒くさい」

「ススか。なるほど」

 功太はすねこすりの頭を撫でた。すねこすりは満足そうに頬をゆるませる。そしてそれを見て香はまたむっとするのだが、功太はそれに気づかなかった。

「功太」

「なんだ」

「紅茶、淹れてくれ」

 香は自分で淹れて失敗したことを、功太には言わなかった。しかしテーブルに置いてあるティーカップを見て、功太はすぐに理解し、くすりと頬を緩ませた。

「砂糖は」

「三つ」

 功太はいつも通りの返答に微笑むと、香とすねこすりに囲まれながら、キッチンへとゆっくり、ゆっくりと歩いていった。


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