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明日、僕は君を忘れるらしい  作者: les.
1週目

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17/19

16話 春は続く

次最終話です

桜は、どこまでも咲いていた。


 神崎陽斗は、隣を歩く少女の手を握ったまま、ゆっくりと前を見ていた。


 風が吹くたびに花びらが舞う。空は淡く明るく、時間の流れさえ曖昧になるような静けさが続いている。足元の道は白く、まるで最初からここへ来るために用意されていたみたいに、どこまでも穏やかに伸びていた。


 隣の少女は、ときどき陽斗を見上げて笑う。


 昔と同じようで、でも昔より少しだけ大人びた表情だった。


「ねえ」


 少女が小さく呼ぶ。


「ん?」


「ほんとに、もう痛くない?」


 陽斗は少しだけ考えてから答えた。


「……痛くない、は嘘かも」


 少女が目を細める。


「どこが?」


「胸の奥」


 素直にそう言うと、少女は困ったように、でも優しく笑った。


「そっか」


「でも、前みたいなのとは違う」


 陽斗は桜を見上げる。


「苦しいっていうより、ちゃんと残ってる感じ」


 少女は何も言わずに、その言葉を受け取るみたいに頷いた。


 二人はまた少し歩いた。


 景色は変わらないはずなのに、不思議と飽きなかった。花びらの舞い方も、風の強さも、空の色も、少しずつ違って見える。まるで春そのものが、二人の歩幅に合わせて息をしているみたいだった。


 やがて、大きな桜の木の前で少女が足を止めた。


 今まで見てきたどの木よりも大きい。枝は空いっぱいに広がっていて、その下だけ時間が静かに沈んでいるみたいだった。


「ここ、覚えてる?」


 少女が聞く。


 陽斗は木を見上げたまま、ゆっくりと頷いた。


「……最初の場所だ」


「うん」


 小さく笑う。


「私たちが始まった場所」


 陽斗はその言葉を胸の中で繰り返す。


 始まった場所。


 そして、終われなかった場所。


 長い間、そこに置き去りにしてきた春だった。


「なあ」


「ん?」


「俺、ちゃんと終われたのかな」


 少女は少しだけ黙った。


 それから、繋いだ手を少しだけ強く握る。


「終わるっていうより」


 優しい声だった。


「やっと続きが書けるようになったんじゃない?」


 陽斗は目を伏せる。


「続き、か」


「うん」


 少女は桜の幹に背中を預けるようにして立ち、空を見上げる。


「だって陽斗、ずっとあの日で止まってたもん」


 否定はできなかった。


 あの交差点から、ずっとどこかで動けずにいた。忘れていたんじゃない。忘れたふりをして、春ごと閉じ込めていただけだった。


 それが今、ようやく開いた。


「……そっか」


 陽斗が呟くと、少女は少しだけ笑った。


「うん。だから、ここは終点じゃないよ」


「でも、俺」


 そこで言葉が止まる。


 口にしなくても、自分で分かっていた。


 自分はもう、向こうには戻れない。


 病院の廊下も、春の街も、澪の泣いていた顔も、全部あちら側に置いてきた。


「置いてきたものがある」


 やっと、それだけ言う。


 少女の表情が少しだけ静かになる。


「……うん」


「澪も」


 名前にした瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。


 あの日、最後に見た顔。


 血に染まった自分を前にして、取り繕いも何もできずに泣いていた姿。


 あれはたぶん、一生消えない。


「俺、最後までちゃんと向き合えたのかな」


 少女は少しだけ考えるように目を細める。


「完璧じゃなかったと思うよ」


 あっさり言われて、陽斗は少しだけ苦笑した。


「でも」


 少女は続ける。


「完璧じゃなくても、本物だった」


 風が吹く。


 花びらが、二人の間をゆっくり流れていく。


「陽斗があの子に向けた気持ちも、私に向けた気持ちも、どっちも嘘じゃなかった」


「……そうかな」


「そうだよ」


 迷いのない声だった。


「人って、一つだけしか好きになっちゃいけないわけじゃないでしょ」


 陽斗は何も返せなかった。


 少女はまるで全部分かっているみたいな顔で笑った。


「私ね」


「ん?」


「ちょっとだけ、澪ちゃんに嫉妬してた」


 陽斗は思わず目を見開く。


「は?」


「だって、陽斗が今の時間をちゃんと生きた相手だもん」


「お前、そんなこと思うのかよ」


「思うよ。初恋だからって、なんでも綺麗なままでいられるわけじゃないし」


 少女はそう言って笑う。


「でもね、安心もしてた」


「安心?」


「うん」


 少女は桜の木から体を起こし、陽斗のほうへ一歩近づく。


「陽斗が、ちゃんともう一回誰かを好きになれる人でよかったって」


 その言葉は、ひどく優しかった。


 優しすぎて、胸が痛くなるくらいに。


 陽斗は目を閉じる。


 好きになった。


 確かに。


 最初は似ているだけだったのかもしれない。過去に引きずられていただけだったのかもしれない。それでも途中からは、ちゃんと澪の声を聞いて、澪の顔を見て、澪と笑っていた。


 その事実まで否定したくはなかった。


「……お前はずるいな」


 陽斗が呟くと、少女はふっと笑った。


「何回目、それ」


「たぶん、何回でも言う」


「じゃあ私も何回でも言う。陽斗のほうがずるいよ」


 言い合って、二人は少しだけ笑った。


 その笑い声は、桜の下ではひどく自然に響いた。


 しばらくして、少女がふと空の向こうを見る。


 その表情が少しだけ変わったのを、陽斗は見逃さなかった。


「どうした」


 少女はすぐには答えなかった。


 けれど、隠す気もなさそうだった。


「……ねえ、陽斗」


「ん?」


「もしさ」


 少女は言葉を選ぶようにゆっくり話す。


「春が、ひとつじゃなかったらどうする?」


 陽斗は眉を寄せる。


「どういう意味だよ」


「そのままの意味」


 少女は桜の向こう側へ目を向ける。


「ここと、あっちだけじゃなくて」


 そこで一度区切る。


「もっと、いくつも続いてたら」


 陽斗はその言葉の意味を、すぐには掴めなかった。


 けれど、少女の視線の先を追った瞬間、息が止まりそうになる。


 桜並木のさらに奥。


 光の揺らぎみたいに見えていた場所に、うっすらと別の景色が重なっていた。


 白い廊下。


 カーテン。


 窓から入る春の光。


 遠くのほうに、誰かが立っている気がする。


 輪郭はぼやけている。はっきり見えるわけじゃない。けれど、そこに“続き”があることだけは、なぜか分かった。


 陽斗の喉が、わずかに動く。


「……あれは」


 少女は、小さく笑った。


「まだ、分かんない」


「分かんないって」


「だって私も初めて見るし」


 陽斗は黙ったまま、その光景を見つめる。


 胸の奥が、かすかにざわついた。


 怖さではない。


 懐かしさとも違う。


 もっと曖昧で、でも確かに前へ引かれる感覚。


「行ってみたい?」


 少女が聞く。


 陽斗はすぐには答えなかった。


 ここは穏やかだった。


 桜は綺麗で、少女は隣にいて、長い間止まっていた初恋の続きがようやくここにあった。


 それでも。


 その向こうに何かがあるのなら。


 まだ終わっていない何かがあるのなら。


 陽斗は、少しだけ笑った。


「……聞くまでもないだろ」


 少女も笑う。


「うん。そう思った」


「一緒に来るのか」


「もちろん」


 そう言って、少女は何でもないことみたいに手を差し出した。


 陽斗はその手を見て、自然に重ねる。


 握る。


 今度はためらわなかった。


「ねえ」


 少女が小さく言う。


「次の春で、何が待ってても」


「うん」


「今度はちゃんと、見失わないでね」


 陽斗は少しだけ目を細める。


「誰を」


 少女はいたずらっぽく笑った。


「それは、自分で決めて」


 返事の代わりに、陽斗は手を握り返した。


 風が吹く。


 桜が舞う。


 大きな木の向こう、淡い光の先で、まだ名前のつかない景色が揺れている。


 終わったはずの春の先に、まだ続きがあるなんて、昔の自分なら信じなかったかもしれない。


 でも今は、少しだけ信じてみてもいいと思えた。


 初恋の少女が隣で笑っている。


 置いてきた春も、忘れられなかった春も、全部抱えたまま。


 それでも、道はちゃんと前に伸びている。


 陽斗は、桜の木を一度だけ振り返る。


 長い間、自分を縛っていた場所。


 でも今はもう、そこに置いていかれる気はしなかった。


「行こっか」


 少女が言う。


 陽斗は頷く。


「ああ」


 二人は歩き出す。


 桜の向こうへ。


 光の先へ。


 まだ誰も知らない、次の春へ。


 その先で誰が待っているのか。


 何を失って、何を見つけるのか。


 それはまだ、誰にも分からない。


 ただ一つだけ確かなのは――


 春のつづきは、まだ終わっていないということだった。


 桜は静かに舞い続けていた。


 まるで、これから始まる物語を祝福するみたいに。

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