16話 春は続く
次最終話です
桜は、どこまでも咲いていた。
神崎陽斗は、隣を歩く少女の手を握ったまま、ゆっくりと前を見ていた。
風が吹くたびに花びらが舞う。空は淡く明るく、時間の流れさえ曖昧になるような静けさが続いている。足元の道は白く、まるで最初からここへ来るために用意されていたみたいに、どこまでも穏やかに伸びていた。
隣の少女は、ときどき陽斗を見上げて笑う。
昔と同じようで、でも昔より少しだけ大人びた表情だった。
「ねえ」
少女が小さく呼ぶ。
「ん?」
「ほんとに、もう痛くない?」
陽斗は少しだけ考えてから答えた。
「……痛くない、は嘘かも」
少女が目を細める。
「どこが?」
「胸の奥」
素直にそう言うと、少女は困ったように、でも優しく笑った。
「そっか」
「でも、前みたいなのとは違う」
陽斗は桜を見上げる。
「苦しいっていうより、ちゃんと残ってる感じ」
少女は何も言わずに、その言葉を受け取るみたいに頷いた。
二人はまた少し歩いた。
景色は変わらないはずなのに、不思議と飽きなかった。花びらの舞い方も、風の強さも、空の色も、少しずつ違って見える。まるで春そのものが、二人の歩幅に合わせて息をしているみたいだった。
やがて、大きな桜の木の前で少女が足を止めた。
今まで見てきたどの木よりも大きい。枝は空いっぱいに広がっていて、その下だけ時間が静かに沈んでいるみたいだった。
「ここ、覚えてる?」
少女が聞く。
陽斗は木を見上げたまま、ゆっくりと頷いた。
「……最初の場所だ」
「うん」
小さく笑う。
「私たちが始まった場所」
陽斗はその言葉を胸の中で繰り返す。
始まった場所。
そして、終われなかった場所。
長い間、そこに置き去りにしてきた春だった。
「なあ」
「ん?」
「俺、ちゃんと終われたのかな」
少女は少しだけ黙った。
それから、繋いだ手を少しだけ強く握る。
「終わるっていうより」
優しい声だった。
「やっと続きが書けるようになったんじゃない?」
陽斗は目を伏せる。
「続き、か」
「うん」
少女は桜の幹に背中を預けるようにして立ち、空を見上げる。
「だって陽斗、ずっとあの日で止まってたもん」
否定はできなかった。
あの交差点から、ずっとどこかで動けずにいた。忘れていたんじゃない。忘れたふりをして、春ごと閉じ込めていただけだった。
それが今、ようやく開いた。
「……そっか」
陽斗が呟くと、少女は少しだけ笑った。
「うん。だから、ここは終点じゃないよ」
「でも、俺」
そこで言葉が止まる。
口にしなくても、自分で分かっていた。
自分はもう、向こうには戻れない。
病院の廊下も、春の街も、澪の泣いていた顔も、全部あちら側に置いてきた。
「置いてきたものがある」
やっと、それだけ言う。
少女の表情が少しだけ静かになる。
「……うん」
「澪も」
名前にした瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。
あの日、最後に見た顔。
血に染まった自分を前にして、取り繕いも何もできずに泣いていた姿。
あれはたぶん、一生消えない。
「俺、最後までちゃんと向き合えたのかな」
少女は少しだけ考えるように目を細める。
「完璧じゃなかったと思うよ」
あっさり言われて、陽斗は少しだけ苦笑した。
「でも」
少女は続ける。
「完璧じゃなくても、本物だった」
風が吹く。
花びらが、二人の間をゆっくり流れていく。
「陽斗があの子に向けた気持ちも、私に向けた気持ちも、どっちも嘘じゃなかった」
「……そうかな」
「そうだよ」
迷いのない声だった。
「人って、一つだけしか好きになっちゃいけないわけじゃないでしょ」
陽斗は何も返せなかった。
少女はまるで全部分かっているみたいな顔で笑った。
「私ね」
「ん?」
「ちょっとだけ、澪ちゃんに嫉妬してた」
陽斗は思わず目を見開く。
「は?」
「だって、陽斗が今の時間をちゃんと生きた相手だもん」
「お前、そんなこと思うのかよ」
「思うよ。初恋だからって、なんでも綺麗なままでいられるわけじゃないし」
少女はそう言って笑う。
「でもね、安心もしてた」
「安心?」
「うん」
少女は桜の木から体を起こし、陽斗のほうへ一歩近づく。
「陽斗が、ちゃんともう一回誰かを好きになれる人でよかったって」
その言葉は、ひどく優しかった。
優しすぎて、胸が痛くなるくらいに。
陽斗は目を閉じる。
好きになった。
確かに。
最初は似ているだけだったのかもしれない。過去に引きずられていただけだったのかもしれない。それでも途中からは、ちゃんと澪の声を聞いて、澪の顔を見て、澪と笑っていた。
その事実まで否定したくはなかった。
「……お前はずるいな」
陽斗が呟くと、少女はふっと笑った。
「何回目、それ」
「たぶん、何回でも言う」
「じゃあ私も何回でも言う。陽斗のほうがずるいよ」
言い合って、二人は少しだけ笑った。
その笑い声は、桜の下ではひどく自然に響いた。
しばらくして、少女がふと空の向こうを見る。
その表情が少しだけ変わったのを、陽斗は見逃さなかった。
「どうした」
少女はすぐには答えなかった。
けれど、隠す気もなさそうだった。
「……ねえ、陽斗」
「ん?」
「もしさ」
少女は言葉を選ぶようにゆっくり話す。
「春が、ひとつじゃなかったらどうする?」
陽斗は眉を寄せる。
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
少女は桜の向こう側へ目を向ける。
「ここと、あっちだけじゃなくて」
そこで一度区切る。
「もっと、いくつも続いてたら」
陽斗はその言葉の意味を、すぐには掴めなかった。
けれど、少女の視線の先を追った瞬間、息が止まりそうになる。
桜並木のさらに奥。
光の揺らぎみたいに見えていた場所に、うっすらと別の景色が重なっていた。
白い廊下。
カーテン。
窓から入る春の光。
遠くのほうに、誰かが立っている気がする。
輪郭はぼやけている。はっきり見えるわけじゃない。けれど、そこに“続き”があることだけは、なぜか分かった。
陽斗の喉が、わずかに動く。
「……あれは」
少女は、小さく笑った。
「まだ、分かんない」
「分かんないって」
「だって私も初めて見るし」
陽斗は黙ったまま、その光景を見つめる。
胸の奥が、かすかにざわついた。
怖さではない。
懐かしさとも違う。
もっと曖昧で、でも確かに前へ引かれる感覚。
「行ってみたい?」
少女が聞く。
陽斗はすぐには答えなかった。
ここは穏やかだった。
桜は綺麗で、少女は隣にいて、長い間止まっていた初恋の続きがようやくここにあった。
それでも。
その向こうに何かがあるのなら。
まだ終わっていない何かがあるのなら。
陽斗は、少しだけ笑った。
「……聞くまでもないだろ」
少女も笑う。
「うん。そう思った」
「一緒に来るのか」
「もちろん」
そう言って、少女は何でもないことみたいに手を差し出した。
陽斗はその手を見て、自然に重ねる。
握る。
今度はためらわなかった。
「ねえ」
少女が小さく言う。
「次の春で、何が待ってても」
「うん」
「今度はちゃんと、見失わないでね」
陽斗は少しだけ目を細める。
「誰を」
少女はいたずらっぽく笑った。
「それは、自分で決めて」
返事の代わりに、陽斗は手を握り返した。
風が吹く。
桜が舞う。
大きな木の向こう、淡い光の先で、まだ名前のつかない景色が揺れている。
終わったはずの春の先に、まだ続きがあるなんて、昔の自分なら信じなかったかもしれない。
でも今は、少しだけ信じてみてもいいと思えた。
初恋の少女が隣で笑っている。
置いてきた春も、忘れられなかった春も、全部抱えたまま。
それでも、道はちゃんと前に伸びている。
陽斗は、桜の木を一度だけ振り返る。
長い間、自分を縛っていた場所。
でも今はもう、そこに置いていかれる気はしなかった。
「行こっか」
少女が言う。
陽斗は頷く。
「ああ」
二人は歩き出す。
桜の向こうへ。
光の先へ。
まだ誰も知らない、次の春へ。
その先で誰が待っているのか。
何を失って、何を見つけるのか。
それはまだ、誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
春のつづきは、まだ終わっていないということだった。
桜は静かに舞い続けていた。
まるで、これから始まる物語を祝福するみたいに。




