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ロマン・ストーリー 剣に導かれし者たち  作者: 灰庭論
第三章 公子の素養編
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第二話(90) エリゼの夢

 エリゼの語った地獄は本物の地獄ではない。彼女は単に両親から厳しいしつけを受けているだけである。裕福な商家の娘だから、そういう高度な教育を受けることができるわけだ。他の者から見れば、羨むような環境といえるだろう。


 僕は父親が五長官職に就いている下級貴族の子どもなので、それほど厳しい教育を受けているわけではなかった。中には英才教育を受けている者もいるが、父上は武術の鍛錬さえ怠けなければ、後は何も言わない人だ。


 とはいえ、エリゼのように裕福な家の子どもに自由がないのは憂うべき問題だ。多くの女子にとって婚姻の自由が認められないのが最たるものである。そういう僕にも婚姻の自由なんてものは存在していないので気持ちが分かるのだ。


 僕が州都長官の息子であることをエリゼに打ち明けてしまったら、いくら裕福な商家の娘でも、こうして気軽に話せなくなるというのが現実なのだ。彼女がどれだけ魅力的でも、恋をすることすら許されないのが僕たちの身分差である。


 そう、もうすでに僕はエリゼに恋をしていた。差し出された手を握って連れ出したけど、今の僕には、もう、彼女の手を握る勇気はない。握りたくても、握れない。怖くて、震える、臆病な自分が、ここにいるからだ。


「ヴォルベ、聞いてるの?」


 そう言って、エリゼが不満顔を見せた。

 それも愛らしく思えるのだから、僕は完全に参ってしまった。


「ああ、聞いているとも。砂時計に支配されるなんて恐ろしいと思ってさ。想像しただけで怖くなってしまったんだ。もしも僕がエリゼのいる地獄に連れて行かれたら、毎晩、砂に埋もれる悪夢を見てしまうだろうな」


 たいして面白いことを言ったわけでもないのに、エリゼが笑ってくれた。


「ヴォルベ、あなたはとても優しい人なのね。しかも強い人」

「臆病者の間違いじゃないのか?」

「いいえ、違うわ」


 エリゼの目が真剣だった。


「同じ話をお兄様にしたら、きっと『泣き言をいうな』とお説教するに決まってるんですもの。でも、あなたは私の身になって考えてくれたの。そんなこと、優しい人にしかできないことよ。おまけに弱みまで見せてくれた。それは、あなたが己を知っている証でもあるの。もっと言うと、弱点を克服できるだけの自信があるということね。自信がない人は、弱みを握られまいと必死で隠そうとするもの。あなたは向上心を失わない、今の自分よりも己を高められる、そんな強い人よ」


 出会ったばかりの僕に、そんなことを言うのだった。自分のことなのでエリゼの言葉が的確かどうかも分からないが、彼女が僕に自信と勇気をもたらす存在だということだけはハッキリと分かった。


「それに、だって、私を地獄から救い出してくれた王子様ですものね」


 なぜだかエリゼの頬が赤い。僕のことを好いてくれているような反応だが、裕福な商家の娘が、平服姿の僕を好きになることはないはずだ。彼女の意識の中にも、どうにもならない身分差があるに決まってるから。


「ヴォルベ、あなたは私のことをどういう人だと思っているの?」


 ハッキリと要求するところが商家の娘らしい、と思って、それをそのまま口にしようとしたが、互いに身分を明かしていないので言うのをやめた。それでもドキドキしながら僕の言葉を待っているので、何か言わなければならなかった。


「……それは」

「それは?」


 プレッシャーがすごい。


「それは何?」

「それは、足が速い人だなって」


 そう言うと、立ち上がって、僕の目の前にきて見下ろすのだった。


「ねぇ、ヴォルベ、どこの世界に『足が速い』と言われて喜ぶ女の子がいると思う?」


 どうやらエリゼは怒っているようだ。


「いや、でも、地獄の番人を出し抜けるなんて、君くらいなもんだよ?」


 僕としては最上級の褒め言葉だ。


「砂時計で毎日走らされているんだから、足だって速くなるわよ」


 そう言うと、これみよがしに顔を背けて見せるのだった。

 その、ふくれっ面まで可愛らしいのだから困ったものだ。

 僕も立ち上がって、彼女の機嫌を直すことにした。


「ねぇ、エリゼ、聞いてくれるかい?」


 目を閉じて、僕の言葉を待っている。


「今は亡きカイドル帝国ではね、『足が速い』というのは、これ以上ないくらいの褒め言葉なんだそうだよ。時の皇帝は妃の条件として、真っ先に足が速い女性を求めたんだ。世が世なれば、場所が場所なれば、エリゼが皇帝に求婚されてもおかしくないんだ。それくらい君の脚力は魅力的なんだよ。足が速いということは、天賦てんぷの才があるだけではなく、その才がびつかないように鍛錬を怠らなかったということじゃないか。それは強い精神力がなければ続けられないことだ。君の他にも足が速い人を何人か知っているけど、地獄の番人を困らせるほど速い人は、君をおいて他にはいないさ」


 僕の言葉に、またしてもエリゼが笑ってくれた。


「それは地獄の番人の足が遅いだけよ」

「でも、僕よりも速いだろ?」


 エリゼが照れたように、コクリと頷いた。


「といっても、僕だって地獄の番人よりは速いけどね」

「だから、それはホロムの足が遅いだけなの」


 どうやらそれがエリゼのお目付け役の名前のようだ。気が強い彼女のことだから、きっと、そのホロムの方が手を焼いているのだろう。ご主人様のご令嬢では言いたいことも言えないはずだ。そんなことを想像するだけで楽しい気分になる。


「それにしても、ヴォルベ、あなたって物知りなのね」


 話を変えたということは、ホロムについて、それ以上は語りたくないということなのだろう。僕も無理に追及したいとは思わなかった。それは互いの身分を明かしてしまうと、その身分差に苦しむことになると分かっていたからである。


 それからカイドル帝国について語り合い、僕が歴代の皇帝にまつわるエピソードを披露し、エリゼがオーヒン国に行った時の思い出話を聞かせてくれて、珍しい食べ物の話になったところで、二人ともお腹が空いていたことを思い出すのだった。



「ねぇ、ヴォルベ、どこへ向かっているの?」

「お腹が空いたんだろう?」

「ええ。でも、市場のある大通りとは方向が違うじゃない」

「いいから、ついて来なって」


 僕がエリゼを案内した場所は、港から来る外国人や行商人が足を踏み入れることのない港町にある、地元の人間しか知らない卸売市場だ。ひったくり被害なども多く、治安が悪い地域だが、安くて美味しい食べ物がたくさんあるのだ。


「あら、香ばしい、いい匂いがするわ。あれは何かしら?」


 エリゼが市場の露店で足を止めて訊ねた。


「あれはサーモンの中骨をあぶっているのさ」

「身はどうしたの?」

「それは貴族や旅行者が食べたんだ」

「捨てずに骨を食べるというの?」

「美味いんだぜ? 食べてみるかい?」

「うん」


 返事をしたものの、エリゼは不安げだ。

 それでも僕の好物を知ってほしかったので買うことにした。

 カリカリの中骨を差し出すと、恐る恐る手に取るのだった。

 それを苦い薬でも飲むような顔をして口に入れる。


「本当だ。美味しい」


「だろう? 炙るだけでも加減が難しいんだ。直火に当てるとすぐに焦げてしまうからね。かといって、炙りが足りないと中まで火が通らないから、サクサクっとした食感が生まれない。焦げ臭い味にならないよう、香ばしく仕上げるには加減を覚えなきゃ出来ない仕事さ。しかも炙る火も大事でね、スープを煮込むような木で炙っても美味くはならないんだ。煙の臭いが強いだろう? だから風味を損なわないように炭で炙るわけだ。僕も自分の家でやってみて、何度も失敗したから気がつくことができたんだよ。こういうのはお店の人に聞いても教えてくれないからね」


 話している最中に、エリゼは残りの中骨をきれいに平らげてしまった。


「ねぇ、あの気持ち悪いのは何?」


 そう言うと、エリゼが僕の袖を掴んだ。

 彼女の視線を追って説明する。


「あれはタコだよ」

「タコ?」


 その反応から察するに、どうやらエリゼは内陸出身者のようだ。


「まさかアレも食べるんじゃないでしょうね?」

「その、まさかさ」


 それを聞いて、エリゼが口元を押さえた。


「今からさばくところだ。近くで見物しよう」


 嫌な顔をしながらも、素直についてくる。


「見て、切られた足が動いてる」


 彼女のあらゆるリアクションが、僕の心を満たしていく。


「茹でて食べるの?」

「いや、あれは一度湯通ししてから衣をつけて、貴族街で捨てられた廃油でサッと揚げるんだ」

「どんな味がするの?」

「食べてみればわかるさ」


 ということで、タコの衣揚げも買うことにした。

 差し出すと、今度は興味津々といった感じで口に入れるのだった。


「どうしてこんなに美味しいのかしら?」


 そう言うと、すぐに二つ目の衣揚ころもあげを頬張った。


「これも単純そうに見えて調理法が難しいんだ。軽く湯通しするのがポイントなんだよ。茹で上げてしまうと身が固くなってしまうからね。かといって生茹でだと、タコだけが持つ独特の食感が生まれないし、やっぱり加減を見極めるのが料理人の腕でもあるんだ。カラッとした衣と、中の弾性をバランスよく仕上げるには修業が必要ということだね。しかも衣自体に味をつけたり、香りの強い油を使って味を変えたり、料理というのは工夫次第でバリエーションを増やすことができるのが面白いところさ」


 説明している間に、またしてもエリゼがタコの衣揚げを全部食べてしまった。


「それにしても、ヴォルベ、あなたは料理人でもないのに、どうしてそんなに詳しいの?」


 真面目な話になる。


「それはジェンババが王城の料理人だったという話を聞いたからなんだ。ジェンババがモンクルスと双璧を成す軍師だったことは知っているだろう? その伝説の軍師が『戦争で一番大事なのは食い物だ』って言っていたのを知って、それで僕も興味を持つようになったんだ。とにかく食べられそうなものを徹底的に調べていたんだそうだ。動物はもちろん、草や、キノコや、昆虫まで、ありとあらゆるものを食糧にしていた。それに比べて、王都の兵士は毒草や毒キノコの見分けがつかない者ばかりだったというからね、カイドルの王城を攻め落とせなかったのは当然というわけさ。そういう僕もジェンババから学んだのだから、当時戦った兵士を批判する資格はないんだけどさ」


 気がつくと、エリゼが僕の顔を哀しい目で見ていた。

 つい、話に夢中になってしまったようだ。

 女の子が聞いて喜ぶ話ではないことは僕も知っている。

 落ち込む僕を察してか、エリゼが笑顔を取り繕って口を開く。


「この、甘い匂いは何かしら?」


 辺りをキョロキョロと見回すエリゼは、ミツバチがダンスをしているかのように軽快だ。


「焼きリンゴだけど、それは流石に知ってるだろう?」

「うん。でも、香りが違う」

「じゃあ、こっちの焼きリンゴを食べてみるといい」


 ということで、早速買うことにした。

 皿に盛られたアツアツの焼きリンゴも手掴みで食べる。


「うわっ、こっちの方が美味しい」


 そう言って、ベタベタした指先をハンカチで拭った。


「うん。オーヒン国もそうだけど、ハクタのような大陸と繋がっている港町にはラム酒が入ってくるんだよ。比較的平和な時代ということもあり、ブドウ酒よりも多く出回っているくらいだからね。そのラム酒で煮切りをして風味を加えているのがハクタの焼きリンゴというわけさ。造船技術が進歩すれば経済圏も広がるだろうから、ラム酒の需要は増々高まっていくと思うんだ。といっても、まだまだ先の話だし、こういうのは数百年単位で貿易が途絶えることがあるそうだから断言はできないけどね」


 それから二人で海岸線通りを目指した。



「そこのお前、この辺じゃ見ない顔だな」


 市場を抜けて、浜辺に入った瞬間、ガラの悪い二人組の少年に声を掛けられた。

 関わってもロクなことがない。


「おいおい、勝手に行かれちゃ困るぜ」


 そう言って、僕たちの前に立ち塞がるのだった。


「どいてくれないか?」

「その前に、盗んだ物を返すのが先だぜ?」

「君たちから何かを盗んだ覚えはない」

「隣にいる女の首にぶら下がっている、それ、オレたちのものだぜ?」


 言いがかりだ。


「これは私が祖母から贈られた物よ」


 エリゼの気の強さが出た。


「いや、違うね。オレが爺様からいただいたものだ」


 市場で目立っていたエリゼに目を付けていたのだろう。弱そうな商人の子どもを狙うのがコイツらの手口だ。金目の物を身に着けていれば、五歳に満たない子どもからでも巻き上げてしまうようなヤツらである。


「声を掛ける相手を間違えたようだな。これが見えてないとは言わせないぞ?」


 僕には父から譲り受けた短剣があった。


「そのオモチャが何だって?」


 そう言って、二人組の少年は笑い合うのだった。


「こちらは二対一でも構わない」


 その程度の相手ということだ。

 僕の言葉に背の低い兄貴分の少年が腹を立てたようだ。


「やろうってのか?」


 痩せた長身の少年は狼狽うろたえている。


「貴様が望めば、相手になってやってもいい」

「望むところだ」


 決闘成立である。決闘は古式ゆかしい文化の一部だ。互いの同意と、第三者の立ち会いがあれば罪に問われず、誰でもすることができる。殺人が横行しているので、わざわざそんなことをする者は珍しいのだが、それがカグマン島の伝統でもあるのだ。


「おい! 決闘が始まるぞ!」


 僕たちのやりとりを見ていていた者が人を集め始めた。

 その声に、ぞろぞろと浜辺に見物人がやってくるのだった。


「ヴォルベ、まさか本気じゃないわよね?」


 エリゼは明らかに怒っていた。

 それは僕の一番好きな表情だ。

 その凛々(りり)しさは、正義が何であるかを知っている人の顔だからだ。


「本気も本気さ」

「あなたって、なんて人なの」


 見物人に聞かれないように、声を潜めて静かに怒っている。


「お願いだから、こんな愚かなことは止めてちょうだい」

「もう、後戻りはできないよ」


 エリゼが僕の手を握る。


「私のお願いでも?」


 握った手に力が込められるのを感じた。


「私はあなたにもう一度会いたいの。いいえ。一度だけではなく、何度も会って、また今日のようにたくさんお話がしたいの。食べたことのない物を食べて、色んなことを教えてほしい。それができるのはヴォルベ、あなただけなのよ?」


 エリゼの思い描いた未来に、出会ったばかりの僕がいることが嬉しかった。


「エリゼお嬢様!」


 そこで遠くの方からホロムとは別の人の声が聞こえてきた。おそらく大人数で手分けして捜していたのだろう。決闘なんて派手なことを始めようとしたから目立ったわけだ。これで安心してエリゼと別れることができる。


「エリゼ、聞こえただろう? 君は今すぐ帰るんだ」


 そう言っても、エリゼは手を離さなかった。


「あなたはどうするというの?」


 手を強く握り返す。

 その手は剣よりも僕を強くする。


「君の未来に僕がいるならば、何も心配することはない」


 エリゼが頷く。


「あなたの未来に、私はいる?」

「もちろんさ。僕の隣で豚の丸焼きにかぶりついているよ」


 エリゼがふくれる。


「もうっ、ヴォルベったらっ」


 ジョークで笑えたら、別れるには最高のタイミングだ。


「また会いましょうね」

「うん。また会おう」


 もう二度と会えないことが分かっているかのような表情だ。

 いや、それは僕が感じていることだった。

 会えたとしても、恋人同士にはなれない。

 それが僕たちの関係だ。

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