第二十一話(197) 不断のミルヴァ
「マルン」
私の名前を呼んだのはミルヴァだ。
「あれを見て」
私たちはカグマン国の王都を望む丘の上にいて、交戦中のハクタ軍との勝敗の行方を見守っているところだ。それでもついさっきまでキンチ将軍が隠れ家にしている基地にいたので、どうなるかは予想できた。
「レオーノが降伏するようね」
あと少しで王宮軍とカグマン軍が全面戦争するところだった。戦力はハクタ軍が有利だったけど、誰かの工作によって戦力が逆転してしまった。もしもそのまま戦っていたらどうなっていたか気になるけれど、人間の歴史に「もしも」はない。
「やっぱりお父さんを見殺しにはできなかったみたいね」
レオーノらしい決断だ。
「オーヒンの三悪人なら見殺しにして、勝手に歴史を創作するんだけどね」
でも、私は父親を助けたレオーノが好きだ。
「さぁ、行きましょうか」
それからミルヴァは『シスター・アナジア』として軍事会議に参加するために化粧を落としてからオーヒン国へ向かった。日中の移動ということで、人間に姿を目撃されないように森の中を低空で飛び続けた。
「それにしてもジジはすごかったわね」
ミルヴァが感心しているのはジジによるキンチ将軍の捕縛作戦についてだ。
「弓兵が狙い撃ちしているのに正面突破するんだもん」
ジジの作戦は、自らが囮になって、飛距離の勝る長弓で部下に相手の射手を狙い撃ちさせるというものだった。射手を仕留めたリュウガという部族出身の弓使いもすごいけど、やはりここは槍一本で立ち向かったジジを褒めるべきだろう。
「実際に見た者しか信じないでしょうね」
槍兵というのは身長や腕の長さや筋力で槍の長さや重さが変わるものだけど、ジジが持っている槍は、おそらく世界で一番重くて長い槍だ。世界を見てきた私たちがいうのだから間違いない。
「大袈裟に話しても、それでも想像を超えると思う」
その大槍をジジは軽々と持ち上げて、くるくると回しては、飛んでくる矢を払い落としたのだった。飛んでくる矢なんて避けられるような速さではないというのに、ジジには止まって見えているかのように払うのだ。
「そういえば『ジジ最強説』っていうのがあったわね」
ビーナの仮説だ。剣使いのドラコよりも槍使いのジジの方が強いかもしれないと言っていた。闘技場のような平場ではジジの圧勝で、ドラコが勝つには場所などの条件が必要になるという説だ。
「でもカイドル州に左遷される前まではさっぱりだったらしいから相当努力したのね」
ザザ家との戦いで意識が変わり、カイドル州に行って槍を太く長く重くしてから強くなったとビーナが言っていた。軽い方が俊敏に動けるので良さそうに思えるけど、それでは自分の限界を超えられなかったのではないか、というのが彼女の分析だ。
「さてと」
オーヒンの王城近くの森でミルヴァが一息つく。
「マルン、あなたにも注意してもらいたいんだけど、オーヒン国にいるわたしは『アニーティア』ではなくて『アナジア』だから、当然カグマン国がハクタ国に勝ったことは知らないわけよね? それが今日の午前中の出来事だから、それがオーヒン国まで伝わるのに、どれだけ急いでも三日か四日は掛かると思うの。だから目を引くような反応をしたらダメよ? 特にコルヴスやコルピアスはハクタが勝つと思っているでしょうからね」
いつものことだけど、こうしてミルヴァは自分に言い聞かせているわけだ。
「狼煙か何かで合図を決めている可能性があるからもっと早く伝わるかもしれないけれど、実際に伝わった時に『知っていた』という顔をしたらダメ。コツはね、彼らと似たような反応をすればいいの。彼らにとって意外な結果なら、わたしたちも『意外だった』と同調すればいい。とにかく怪しまれないように振る舞ってね」
それをミルヴァは三十年以上続けてきたわけだ。
「シスター・アナジア、陛下がお待ちです」
オーヒン城へ行くと、すぐに衛兵が取り継いで、軍事会議が行われている議場へと案内された。そこの議場にはゲティス・コルヴス陛下以下、七政院の高官らが勢揃いしていた。当たり前だけど、その中で女はミルヴァと私の二人だけだった。
「開戦を前にして逃げられたと思ったが、杞憂だったようだ」
宰相のゲミニ・コルヴスによる嫌味だ。
それに対して、ミルヴァが余裕を見せる。
「逃げるにしても、もう少しだけ様子を見させていただきます」
その言葉に場内から小さな笑いが起こった。
「それではドクターにも会議に参加していただこう」
そう言うと、ゲミニはミルヴァを壇上へ手招きして、隣の席に座らせるのだった。国王と横並びの席に座らせたので、かなり信頼しているということだ。また、高い地位にあることを周囲に納得させているともいえる。それを私は壁際に立って観察しているところだ。
「宰相閣下にお訊ねするが」
ゲミニに質問したのは国王選に敗れたアント・セトゥスだ。パルクスを暗殺した四悪人の一人だけど、息子を国王にする野望はコルヴス家によって絶たれたばかりで、置かれた状況に焦りを感じていると聞いていた。
「この時期に南部へ出兵する意味を今一度お聞きしたい。一昨年ユリス・デルフィアスによって建国されたカイドル王国が、その後わずか一年で滅亡したが、それが誤報でないことは今やはっきりしておる。ならば、まずは情勢が不安定な北方地域を統一するのが先ではないのかね? 北部を統一してこそ、初めて南部と互角に戦えるのだ。南部にはハクタ軍やカグマン軍の他にも数十万を超える七政院の自治領軍もおるのですぞ? それは南部生まれの宰相閣下ご自身がここにいる誰よりもご存知のはずではございませんか。此度の出兵計画に反対しているのはわしだけではなく、他にも大勢おるのです。その者たちが納得するような説明を願いたい。今ならば、まだ取りやめることも可能ですからな」
北方地域に攻め入らせないようにしているのは、ミルヴァがコルヴス親子を精神支配してコントロールしているからだ。でも、そのことをゲミニ本人も気がついていないので、ミルヴァに誘導されたとは答えないはずだ。
「そのネズミのような大きな耳は飾りかね?」
大勢の人の前でバカにするのがゲミニの性分らしい。
「飾るならばよく掃除しておくことだ。もうすでに何度も話し合ったではないか。議会で承認が得られたから、こうして出兵案が具体化されたのであろう。それを今さら納得させろとは、議会を何だと思っておるのだ。息子が議会を蔑ろにし、議決を無視していると、そういった誤った印象を植え付けるのはやめたまえ。反対するのは結構だが、遠征に協力しない者が、戦った者と同等の分け前を得られるとは思わぬことだな。それで全会一致したではないのかね? 誰もが勝機ありと考えたのだ」
ゲミニのオヤジは質問に答えていない。それもそのはず、コルヴス親子は亡命者で、フェニックス家の王位継承権を完全に放棄したと、周囲に思わせているからだ。南部を支配したら北部は敵になるので、野望を正直に打ち明けるはずがないというわけだ。
ゲミニ・コルヴスは死んだコルバ王の盟友なので、オフィウ擁するマクス国王を失脚させれば、カグマン軍と戦わなくても何とかなると考えているに違いない。コルヴス親子にとっては、いわば朝廷内における内乱のようなものなのだ。
フィンス国王の補佐官をしているエムル・テレスコですら七政院の自治領軍を動かせないということは、フィンス国王の命令に従わない、つまりゲミニ・コルヴスの命令でしか動かない反対勢力が存在しているという意味でもある。だからゲミニは余裕なのだろう。
「司令官」
そこでゲミニが盟友に話を振る。カイケル・コルピアスは根っからの商売人で、儲けることができれば国王がブルドンであろうが、パルクスであろうが、コルヴスであろうが、誰でもいいという男だ。ある意味、ゲミニにとって最も信用できる人間というわけだ。
「貴君の指揮では不安だと言われておるぞ? まぁ、それも分からなくはない。なにしろ未だかつて南部は北部からの侵攻を受けたことがないのだからな。カイドルには名を残す皇帝がたくさんおったが、誰一人として峠を越えた者はおらんかった。此度の遠征が成功すれば有史以来、初めて南部を支配した男となる。その自信はもちろんあろうな?」
私にはコルピアスのタヌキオヤジが歴史に名を残すとは思えなかった。
「小官が勝算のない戦いに身を投じるはずがないではありませぬか。北方地域には我々を脅かすような強大な勢力などないのですから、土地開発は後回しにすればよいのです。それよりもカグマン国の歴史がそうであったように、気候に恵まれた南部を支配した後、未開の地に屯田兵を送り込むやり方が理に適っているのです。切り株一つを引っこ抜くにもかなりの労力を必要としますからな。我々が先に北方地域の開発を始めてみなされ。開発が進んだところで乗っ取られて終わりですぞ?」
つまり朝廷を丸ごと乗っ取ることが重要だと考えているわけだ。それこそが、まさにアステア人が最も得意としているやり方だ。そうすることで、最小の労力で最大の利益を手に入れることができるからだ。
そのアステア人のやり方は多くの地域で行われており、豪族が治める古い土地ですら、お家が断絶しているにも拘わらず、歴史書や家系図ではその豪族の血脈が続いているというデタラメがまかり通っているわけだ。
帝国の覇権を握っているガルディア人はアステア人の知恵を借りて領土を拡大させてきたけど、どちらがどちらを利用して、どちらがどちらを支配しているのか分からない状況にある、なんて陰謀説もあるくらいだ。
ガルディア系のコルヴスとアステア系のコルピアスは、まさに大陸の縮図といえるだろう。島の南北を統一した後、コルヴス家よりもコルピアス家の方が資産を多く抱えていても不思議とは思わない。すでにコルピアスの毒が全島に回っているかもしれないからだ。
「しかし司令官」
同じアステア系のセトゥスがコルピアスに訊ねる。
「南軍との兵力差というのは、どうにも埋まらぬ差があるではないか。その気になれば五十万の兵を一度に挙兵できるという話ではなかったか? そんなことが現実に起これば、ひと月ともたずに攻め滅ぼされよう。閣下は立派な船をお持ちなので大陸に逃げおおせることは可能であろうが、残された我々はどうしたら良いのかね?」
コルピアスではなく、宰相のゲミニ・コルヴスが答える。
「そんなことは現実では起こり得んのだよ。どこに五十万もの兵を統率できる者がおるというのだ? ハクタに泣きついたデモン・マエレオスにそれができるとお思いか? 懐刀として召し抱えたランバ・キグスなど役には立たぬぞ? それはカグマン国が勝利しても同じこと。サッジ・タリアスやエムル・テレスコでは動かせぬのだ。剣聖と謳われたモンクルスですら一万以上の兵を持つことを許されなかったのに、弟子の分際で何ができるというのだ? 生まれ持ったものが違うのだよ。ただ一人、リアーム・キンチならば可能性もなくはないが、ハクタが敗れた時点で真の敗北を知ることとなるだろう。彼奴は味方にすべき人選を誤ったのだ。要するに、南軍からの侵攻を受けないためにもハクタに勝利することが重要というわけだ」
そこでゲミニがコルピアス司令官に訊ねる。
「開戦の準備は万全であろうな? 予定では昨日のうちにハクタが奇襲を仕掛けたはずだが、正確な情報を手にするのは明日か明後日となるだろう。セトゥス閣下がしきりに不安がっているのは、司令官である貴君が今もそこの椅子に座っているからではないのかね? 南軍との戦いで最大の障壁となるのは、このどうすることもできない時間差というものなのだからな」
この時点でハクタ国が滅亡したとは誰も夢にも思わないだろう。
「慎重に期すようにと、ご命令されたのは宰相閣下ご自身ではありませぬか?」
「こちらの動きを気取られぬよう忠告したまでだ」
「確かに、我が国を共通の敵として共闘されては堪りませんからな」
「それで、どうなのだ?」
「もうすでに戦端は開いております」
「開戦したというのか?」
そこでタヌキオヤジが気持ち悪い笑顔を浮かべる。
「いやいや、ハクタ国の者は、それが我が国による攻撃だとは認識してはおりません。なにしろ兵士には軍服を脱がせて、山賊に化けさせてから、ハクタ領の町や村を襲わせておりますからな。それを昨日から実行させておるのです。ハクタ国にしてみれば、カグマン国の戦争の最中に山賊への対応が求められておるわけですな。村民からの訴えを無下にはできんでしょうし、さぞや困り果てていることでしょう」
そこでコルピアスが立ち上がる。
「さて、そろそろ第三部隊に号令を掛けねばなりません故、これにて失礼いたします」
一見すると戦争とは関係ない事件や事故のニュースに見えて、それが実は戦争の一部だったと後で知ることになるのが敗者というものだ。残酷に思えるけれど、そういうことを平気でしてくる連中がいることを知っておかなければならない。
非道な者ほど勝者になれるけど、戦争自体が非道なので、勝者だけを責めることはできないのだ。いや、勝者はその後の歴史も好き勝ってに書き残してしまうので、結局は敗者が悪者にされるだけというわけだ。
だからミルヴァは北方部族のハトマを最後に勝たせるために静観しているのだろう。どの国が最後に勝とうと、最終的には自分が支配できると思っているに違いないからだ。つまり今のところは順調というわけだ。
会議が終わるとミルヴァは今後の対応についてコルヴス親子と話をして、それを済ませるとオーヒン市内の大聖堂に帰ると言いつつ、城下町の郊外にある練兵場へと向かうのだった。どうしてもコルピアス司令官のことが気になるようだ。
姿を隠しながら練兵場に潜入すると、そこはすでに宴会場と化していた。星空の下、兵士らが焚き火を囲みながら酒を浴びるように飲んでいるのだった。暗いのでよく分からないけど、四千人から五千人はいるようだ。
「勇敢なる兵士諸君よ」
酔っ払ったコルピアスが演説を始める。
「諸君らは選ばれたのだ。戦争とは、実に素晴らしいものではないか。これほど盛大な宴を諸君らは今まで経験したことがあるか? あるわけがなかろう。ケチで有名な、このわしが大盤振る舞いしたのだからな。勝利した暁には、蔵の酒をすべて諸君らにくれてやることを約束しようではないか!」
その言葉に兵士らが沸き返った。
「戦争の素晴らしさはそれだけではないぞ? 南部にある食糧はすべて食い放題だ。食い物だけではない。金目の物はすべて諸君らの物にしてもよいのだ。力づくで奪うがよい。ただしだ、仲間内で奪い合うことだけは許さん。欲しければ新しい村や町を襲えばよろしい。それが諸君らに課せられた使命なのだからな」
最悪の演説だ。
「諸君らの中にも戦争が起こる日を待ち望んでいた者もたくさんおろう。なにしろ女を見つけ次第、片っ端から犯せるのだからな。子どもだろうが年増だろうが、諸君らの好きにすれば良い。亭主の前で女房と娘を犯してやれ! なに? 年寄りもいいかだと? 好きにすれば良い。五つの女子だろうと、八十の婆様だろうと、好きに犯すことができるのが戦争だ。諸君らは自由であり、諸君らこそ法なのだ。ただしだ、北部の女には手を出してはいかんぞ? 必ず峠を越えてから獲物を見つけるのだ。北部の女に手を出した者を見つけた時は、その場で処刑するのだ」
戦争をしたがっている野蛮な男たちがいる限り、この世から戦争がなくなることはないだろう。彼らにとっては平和な世界よりも、戦時下の方が幸福だからだ。一人だと犯さない罪も、集団だと犯せる人たちがたくさんいるというわけだ。
「酒を持てい!」
と言って、盃を構えた。
「戦争に乾杯!」
それに兵士らが呼応する。
「戦争に乾杯!」
コルピアスが続ける。
「南部を我らに!」
オーヒン市内にある大聖堂への帰り道、真っ暗な海岸線を歩くミルヴァは一言も言葉を発しなかった。いつもは考え事をまとめるために独り言のように会話を始めるのに、それがないので心配になった。
「ねぇ、ミルヴァ」
何を考えているのか分からなかったので、こちらから話し掛けてみる。
「何もしなくていいの?」
「何もって、なに?」
「ほら、コルピアスが兵士に村を襲うように命令してたけど」
「何かしたいなら、あなたが何かしてあげたら?」
その言葉だけで彼女が不機嫌だということが分かった。
「私はほら、何もできないし……」
そこでミルヴァは立ち止まり、怖い顔をした。
「自分にできないことを、わたしに頼まないで」
怖い顔ではなくて、悲しそうな顔の間違いだった。
「わたしだって、あそこで全員殺してやりたいって思ったよ。わたしにはそれができるんだから。ハクタ領にある各地の教会を歩き回った時、色んな人と出会って、たくさんの人が親切にしてくれたの」
そこで悔しそうな顔になる。
「でもね、きりがないのよ。こうしている間も世界中で多くの女が殺されたり凌辱されたりしているでしょう? そういう人たちを、わたし一人で助けろと言うの? どうして、わたしにばかり責任を負わせるの? わたしには、わたしにしかできない、やるべきことがある」
ミルヴァは苦しんでいる。
「だから、わたしは何もしない」
それを聞いて、マホのことを思い出した。『何もしない』というのはマホが使っていた言葉だ。彼女はただひたすら死に寄り添うだけの存在だ。私たちは何十年も掛かって、やっとマホと同じ境地に達することができたということだろうか。




