第九話(185) 公子の自責
「ヴォルベ」
名前を呼ばれたと思ったら、いつもの幻聴だった。そもそも現在の僕には、気兼ねなく名前を呼んでくれる人など周りに存在しない。隠れ家として利用させてもらっているアント・セトゥスの別荘にいるのは、領地を守る警備兵だけだ。
しかも表向きは僕の警護をしていることになっているけど、実のところは僕が持っている『金の王冠』を目当てにしていて、それがどこに隠されているのか探るために監視しているようなものだ。だから外部の人間と接触することもできなかった。
「公子、雪が降るといけないので、あまり遠くへはいかれないようにお願いしますよ」
これは気遣いではなく、手を焼かせるな、という警告だ。
「ああ、分かってるよ。昨冬は散々な目に遭ったからね」
それだけ言って、ドラコの剣を背負って、山へ走る練習に出掛けることにした。雨が降ろうと、雪が積もろうと、走る練習だけは欠かさないようにしていた。それがいずれ役立つ時がくると信じているからだ。
それを一年以上も続けていた。最初は監視役の兵士も後について走ってきたけど、次第に引き離すことができるようになり、一月後には馬で追い掛けてくるようになった。それでも山の中まで追い掛けることはできず、結局諦めさせることに成功したというわけだ。
二か月後には山籠もりすることにも成功して、監視役に怪しまれることなく別荘を留守にすることができた。半年後の夏には一週間ほど無断で外出しても、誰からも何も言われなくなった。ただ、今回は冬に遭難したことがあったので、それで注意されたわけである。
今回は少なくとも二週間は別荘に戻らないつもりだ。それが常態化されることで、いざという時に、怪しまれずに外出することができるからだ。ただし、その『いざという時』がいつ来るのかさっぱり予想できないのが、僕を孤独にさせているのだった。
走り疲れたところで剣術の稽古を始める。普通の状態で戦わせてくれるほど敵はお人好しではないからだ。できれば足場も悪い方がいい。その方があらゆる状況に対応できるからである。剣術の稽古を終えたら、今度は逃げる練習だ。ひたすら、これを繰り返す。
父上と母上は元気にやっているだろうか? 十二月の寒空を見上げると、大事な人たちの顔ばかりが思い出される。従弟のフィンスの警護に関しては、父上がカグマン王国の首都長官になったので心配は無用だ。
ただ、問題なのは、脆弱な王都に比べてハクタが堅牢にして盤石だったのは、父上が州都の防衛を築いたからで、その鉄壁の都が『ハクタの魔女』ことオフィウ・フェニックスの手に渡ってしまったことだ。
労せずして鉄壁の城塞都市を手に入れたオフィウに対して、父上は一から王都の防衛体制を見直さなければならなくなったわけだ。三国分国から一年以上が経過したけれど、それだけの期間で守りを固めることができているのかは不安だった。
もうすでに十五歳。本来ならば今年の春に徴兵されている年齢だ。それなのに僕ときたら、オーヒンの外れで無為な生活を送っているのだから、事情を知らない父上はさぞ呆れていることだろう。いや、事情を知ったら尚更怒られるかもしれない。
この一年以上の年月を、僕は何をしてきただろうか? ユリスが国王になったカイドル国に危機があると知りながら、結局は何もすることができなかった。ガレットに打ち明けたものの、頼みの彼女もあれから一度も姿を現していない。
カイドル国は健在だろうか? ユリスは無事だろうか? 何よりもガレットの身に何事も起こっていないことを祈るばかりだった。外部との接触を自ら禁止しているので、今の僕には祈ることしかできなかった。
二週間振りに山籠もりから戻ると、居間の暖炉で火に当たって、焼き菓子を食べているルシアス・ハドラの姿があった。どうしてこんな小悪党がエリゼの兄なのか分からないが、今は仲間の振りをしなければならないので感情を表に出さないように注意した。
「公子、どちらに行かれていたのですか?」
「山籠もりだ」
「てっきり、また遭難でもしたかと思いましたよ」
「その割には呑気だな。俺が死んで一番困るのはお前なんだぞ?」
「分かってますとも。ただの冗談ではありませんか」
この一年で軽口を叩くようになり、すっかり子分が板についてきたようだ。しかし、内心では腹立たしい気持ちを必死で抑え込んでいるのが見て取れた。僕に利用価値がなくなったら、あっさりと殺してしまうような男だからだ。
「それで今日は何の用で来たんだ?」
「セトゥス家の本邸で新年を祝うそうで、その招待状をお持ちしました」
「あまり気が進まないな」
アント・セトゥスは、どちらかというと苦手な人物だ。彼はオーヒン国の法務官の身でありながら、ドラコに協力しつつ、それが失敗したと見るや、すぐに僕の協力者となったからだ。その変わり身の早さが怖かった。
「そういうわけにも参りませんでしょう。これだけお世話になっているのですから」
そのお世話にしても、僕が断れないように恩を着せているのが怖いのだ。
「そうだな」
結局、断ることなどできないわけだ。
「それに妹と母上もお呼ばれしていますしね」
「エリゼも来るのか?」
「公子に会いたがっていました」
「嘘をつくな」
「ばれましたか」
「やっぱり嘘なのか?」
「すいません」
エリゼが僕に会いたがっているはずがない。すっかり嫌われてしまったので、僕のことなど顔も見たくないはずだ。父親を亡くした彼女に寄り添ってあげたいと思っても、僕がその父親を殺したことになっているので、そうもいかないというわけだ。
セトゥス家の本邸は領内の牧草地にあった。領主のアント・セトゥスはフェニックス家の縁戚で、荘園地で酪農を営む平凡な牧夫だったそうだ。いや、働かせているだけなので正確にいうと大地主という扱いだろうか。
それがオーヒン国の建国に多大なる貢献を果たしたとかで、三十年前に官職付きの大貴族となったわけだ。だから普段は王城のある安全な貴族街に住んでいるので、自国領の本邸に帰ってくるのは年に数回ほどしかないらしい。
そんな話を食事の席で聞くことができた。同席しているのはセトゥス家の親子三人以外では、ハドラ家の三人しかいなかった。だから心苦しくも僕が主賓の扱いを受けているわけだが、それも一年前では到底考えられなかったことだ。
セトゥス閣下が懐かしむ。
「実は公子のお父上とは一度お会いしているのです。いえ、実際に言葉を交わしたわけではないのですが、あれはそう、今から三十年以上も前になりますが、帝国時代のカイドルとカグマン王国との間で和平交渉を行うこととなり、その時に事前交渉でオーヒンの大聖堂に、モンクルスと共にお見えになったわけですな」
剣聖モンクルスとも会っているとは、まさに歴史の生き証人だ。
「実際に交渉に当たったのは女の神官でしたが、あれは名前を何と言ったか、いや、失礼、年を取ると忘れっぽくなっていけませんな。ともかく、その時にお父上をお見掛けしたのです。いやぁ、当時はまだ少年兵といった感じでしたが、目が合った時に身震いしたのを今でもはっきりと覚えていますとも。もう、その時はモンクルスも老いには勝てぬ様子でしたから、お父上の方が殺気立っているように感じたくらいです」
この場で話を受けるのは僕の役目だ。
「剣聖は若い頃から爬虫類のように静かに獲物を狙うと聞いていましたから、殺気を隠すことができたのでしょう。その点、父はまだまだ未熟だったのかもしれませんね。だから王宮に出入りする貴族に警戒されて、王都から離れたハクタの任務を命じられたのでしょう。所詮は五長官職までしか出世できなかった男なのですよ。法務官を務められているセトゥス閣下とは比べるまでもございません」
ルシアスの手前、父上を持ち上げるわけにはいかなかった。
「いえいえ、私は妻のおかげで現在の地位を手にすることができたので、剣一本で出世されたお父上には到底敵いません。あまり知られてはおりませんが、お父上がいなければ、オーヒンの領土はもっと拡大していたことでしょうな。終戦間際のゴタゴタで土地を巡る争いが各地で勃発していたのですが、それを見事に鎮めたのがお父上でございました」
だから防衛線を守るハクタの州都長官を任されたわけだ。
「お父上の特異な点は、それがたとえ味方であろうとも、主君に命じられれば躊躇なく斬ることができたことでございましょう。当時は荘園地を巡って身内同士が争う状況でしたから、お父上のような非情に徹することができる剣士が王国には必要だったのですよ。もっとも、その王国にしても権力争いの渦中にあったという話ですがね」
確かに、モンクルスのように領土をもらえなかったということは、当時の国王から最高の評価を得られなかったということだ。その時の国王といえば一昨年亡くなられたコルバ王だけど、少しだけ納得のいかない話だ。
しかし、やたらと父上のことを持ち上げているのが気になる。これは僕のことをカグマン国のスパイであると疑っているからだろうか? あるいはゲミニ・コルヴスから探りを入れろとの指示、いや、コルヴス家を出し抜くために自発的に動いている可能性もある。
「とはいえ、その父にしても最後のところで選択を誤りました。なにしろ現在のカグマン王国には『三種の神器』のうち、ただの一つも残っていないのですからね。それでは、とてもじゃありませんが、正統性が認められるはずがないではありませんか。今の父は誰に忠誠を誓っているというのですか? これならまだコルヴス家のご子息の方が真の王位継承者に相応しいと言わざるを得ませんね。もっとも父には選択権などないので同情の余地はありますけどね。いや、もう父の話は止しましょう」
不本意でも父上とは異なる立場であることを強調しなければならなかった。
「以前から公子は誰かに似ていると思っておりましたが、それが今はっきりと分かりました。若い頃のデモン・マエレオスにとてもよく似ている。いや、気を悪くされたのなら謝りますが」
ここはきっちりと否定しなければならない。
「いいえ、とんでもございません。恐れ多いことですので面食らった次第にございます」
そう言うと、セトゥス閣下が納得したように頷いてくれた。
「マエレオス猊下も、いえ、当時はフィウクス姓でございましたが、猊下も父親に対する反発心が強い男でございました。知り合った時にはもう既に父親を亡くされていたというのに、あの男にだけは、まるで亡霊のように見えているかのようでございました。とにかく否定ばかりされて育ったと聞いておりますが、しかし、それが飽くなき向上心へと繋がっているのですから、父親に対する劣等感というのも、悪しき心とばかりは言えないようでございますな。いえ、公子がお父上に劣等感を抱いていると断じているわけではありませんが」
偽りの自分が似ているというなら、僕はデモン・マエレオスとは正反対ということだ。
「揚げ足を取るつもりはございませんので、どうか、お気になさらぬように。第一、優越感に浸るくらいならば、劣等感に苛む方が良いと考えておりますので、セトゥス閣下の仰られた通りのお方ならば、確かに私はデモン・マエレオス猊下と似ている部分があるのかもしれませんね。ただし、そうであるならば光栄なのですが、私の場合は従弟に対する劣等感もございますので、そうなってしまいますと、強大なる父に対する対抗心だけではなく、周囲の者に対して見境なく敵愾心を抱いてしまいますので、マエレオス猊下のように組織の中に柔軟に溶け込んでゆけるものか、不安になってしまうのです。幸いにして、セトゥス閣下のようなお方から援助していただけているので、これから少しでもご恩返しができればと考えているのですが」
セトゥス家の面々が満足そうな顔をしているので、満点の答えだったようだ。
「では、年長者として申し上げますが、こう考えてはいかがですかな? マエレオス猊下にもパルクスという好敵手がおりましたので、ああ、そうそう、南部の方にはジュリオス三世と言った方がよろしいか。そのジュリオス三世と同様に、ご従弟のことも好敵手として捉えるのです。まさにフィンス国王陛下の存在が、公子を覇道へと導いておりますからな」
気持ちよく喋らせているということは、完全に僕のペースだ。
主が続ける。
「勝ちたいという気持ちは、案外と簡単に持てることでは、いえ、そうではなく、持ち続けることは容易ならざることなのです。地位と名誉と、後はほんのわずかでも財産と呼べるものを手にしてしまうと、人は望まずとも守勢に回ります。他人の足を引っ張ることだけを考えて、ついには『勝つ』のではなく、『勝たせないように』と考えてしまうのです。マエレオス猊下のように、何度も人生をやり直すという気概など持てぬのですよ。その点でいえば、やはり公子はマエレオス猊下に似ているのかもしれませんな」
アント・セトゥスはデモンと協力して成功を掴んだように、今度は僕にデモンを重ねて、もう一度同じような成功を手にしたいと考えているのかもしれない。特に彼は親の贔屓が過ぎるので、息子に約束された将来を与えてやりたいと願っているはずだ。
そうであるならば、非常に計算しやすい人物であるともいえるだろう。僕自身が勝馬であり続ければ、そう簡単に裏切ることはないからだ。やはり利用しやすい人間とは、欲にまみれた人のことを指すようだ。
「生意気な口を利くようで失礼ではありますが、マエレオス猊下にも多少の恩を売ることができましたので、ハクタ国が天下を手中に収めるというのも悪くない展開かもしれませんね。その折には是非ともセトゥス閣下に仲を取り持っていただきたいのですが、いかがでございましょう?」
そう言うと、閣下はネズミのような髭をさすりながら何度も頷いた。
「喜んでお引き受けいたしましょう」
その言葉に誰よりも嬉しそうな顔を浮かべたのはルシアス・ハドラだった。
「もっとも、ハクタが上がり目を振ることができたらの話でございますがね。北部にはユリス・デルフィアス陛下もおりますし、まずは手並みを拝見しようではございませんか」
この人は日和見主義者という一点で、皮肉ではあるが、最も信用できるといえそうだ。
「ところで、先ほど閣下はジュリオス三世の話をされましたが、実際にお会いしたことがあるのですか?」
まるで一仕事終えたように、ブドウ酒を美味そうに飲む。
「うむ。パルクスはマエレオス猊下にとって好敵手だったが、私にとってもかけがえのない友でございました。南部の者は今でも暴君として恐れているようでございますが、それは一種のプロパガンダとして利用されたに過ぎないのですよ。パルクスほど心根の優しい者を、私は知りません。目の前でパルクスのことを悪く言おうものなら、私がこの手で斬り捨ててやりますよ。それくらい人を惹きつける魅力を持った男でございました」
そこでハドラ家の面々を流し見る。
「そう、亡くなられたハドラ家のご当主に雰囲気が似ていたかもしれませんな。一度信じた者は疑わず、信念を持って行動し、一度始めたことは最後までやり遂げることを信条としていました。だからこそ、人を動かすことができたのです。ダリス・ハドラ猊下に似ているではありませんか? ご当主様もそうでございますが、パルクスの汚名もそそいでやらねばなりませんな」
協力した手前、そう願わずにはいられないのだろう。
「どうか、よろしくお願いいたします」
そこでハドラ未亡人が簡単に返事をした。
「そうそう」
セトゥス閣下が何か思い出したようだ。
「今日はそのパルクスが生前最後に食した卵ケーキをご用意していましてな、話の続きはそのケーキを食べながらにしようではありませんか」
そこでセトゥス夫人が立ち上がる。
「それでは早速ご用意いたしますね」
それを見て、エリゼも立とうとする。
それを制したのはセトゥス閣下だった。
「いやいや、客人に手伝わせるわけにも参りませんので、どうか、そのままで」
貴族のご婦人が家事を手伝うことなど滅多にないことだ。
「いや、なに、ケーキだけは家内の手製でしてな、これがすこぶる評判がいい。ソースに苦味を加えておりますので、やや大人向けではありますが、食した者はみな満足してレシピをせがむほどなのですよ」
それからしばらくして、セトゥス夫人が両手に皿を持って現れた。それから自らナイフを握って切り分けて、わざわざ夫人自ら配膳までしてくれた。それから席に着いて声を掛けるのだった。
「さぁ、ご賞味あれ」
「いただきます」
やけにベチャベチャしているのは狙いだろうか?
ケーキに掛けられた焦げ茶色のソースが何でできているのかは不明だ。
スプーンですくって食べてみる。
味は……、不味い。
それでも他の人たちは我慢して食べている。
それも美味しそうに。
それはそうだ。
セトゥス夫人の手料理を残すわけにはいかない。
僕も我慢して食べなければいけないようだ。
「お口に合わなかったかしら?」
夫人が不安げだ。
「いいえ、とても美味しいです」
と言った手前、残さず食べきらなければならない。
カアッとする。
それ以外に形容できなかった。
もうすでに気持ちが悪い。
明らかにおかしい。
目の前が歪む。
いや、回っている。
座っているのに、目の前が回っている。
水が欲しい。
でも、掴めない。
僕は死ぬのか?
ん?
パルクスが最後に食したケーキ?
これが最後の晩餐ということか?




