第十話(186) 公子の迷い
目を覚ますと、泊まり部屋のベッドの中にいた。
傍らにはルシアスとエリゼの姿があった。
どうやら二人が付き添いで看病してくれたようだ。
「公子、お目覚めですか?」
「ああ、うん」
「エリゼ、家人を呼んできてくれ。公子が目を覚ましたと言ってな」
エリゼは兄の言葉に黙って従うのだった。嫌われているとはいえ、弱っている人に対しては一生懸命になれるのが彼女の素晴らしいところだ。笑顔は見せてくれなくなったけど、僕はエリゼが可愛い笑顔を持っていることを知っているので、それだけで充分だ。
「何があったんだ?」
「ケーキを食べていたら、突然床に転げ落ちたんじゃありませんか」
「それで?」
「憶えていないのですか?」
「ああ、うん」
「『大丈夫』と口にしていましたが、明らかに具合が悪そうだったので、僕がベッドまで運んであげたんじゃありませんか。重かったんですからね」
「それは、ありがとう」
「まるで死体を運んでいるかのようでしたよ」
「それは分かったから、それで?」
ルシアスが思い出しながら答える。
「セトゥス夫人が看病すると言ったら、母上がエリゼに看病するように命じて、それを閣下が『客人だから』と断ったけど、母上が『息子と娘の二人で交代で看病させる』って言ってきかないものだから、それで閣下も納得して引き揚げて行ったんですけど、いやぁ、あの時の母上はおっかなかったなぁ」
まるで記憶になかった。
「それでエリゼは看病してくれたというわけか?」
「いや、ぼくですよ、ぼく。ぼくが夜通し看病してあげたんですから」
そこで『寝言を言わなかったか?』と訊ねようと思ったけれど、ルシアスの様子が昨夜までと変わっていなかったので質問を止めることにした。こういうのは藪蛇になる場合があるので余計なことは言わないに限るのだ。
そこへセトゥス親子が三人連れだって入室してきた。
「公子、ご気分の方はいかがでしょうか?」
閣下が心配そうに訊ねた。
「どうやら回復したようです。それよりもご心配をお掛けして申し訳ございませんでした」
「滅相もございません」
夫人が僕の手を取って謝る。
「ごめんなさいね。わたくしの作ったケーキがいけなかったのでしょう」
「いいえ、他の方は問題ないようですので、私に問題があったのでしょう」
「隠し味のラム酒が効きすぎたのかもしれませんね」
「ああ、それです。なにしろ私は生まれてこのかた一度も酒を身体に入れたことがありませんので、きっと身体の方が驚いてしまったのですね」
閣下が一息つく。
「いや、公子がご無事で良かった」
それから翌日までゆっくりさせてもらうことにした。
明くる日の朝、別荘地に帰る前にエリゼと話がしたいと思い立って、ルシアスに馬車蔵まで来るように呼び出してもらうことにした。家の中では話を聞かれる心配があったため、二人きりになるにはそこしかなかったというわけである。
「エリゼ」
どうやら言われた通り一人できてくれたようだ。
でも、彼女は俯いたまま何も口にしなかった。
「来てくれて、ありがとう」
そう言っても、反応はなかった。
昨日も思ったけど、エリゼは一年前よりもずっときれいになっていた。
以前よりも胸が大きくなったように感じる。
「なに?」
突然こちらを睨んだので焦った。
「いや、その、ルシアスから看病してくれたと聞いて、お礼を言いたくて」
見るからに怒っている。
「ありがとう」
そう言っても、エリゼは口を尖らせたままだ。
彼女になら確かめてもいいのではないだろうか?
ルシアスと違って言葉の裏を読むことはない。
「あの、一昨日の晩だけど、俺、寝言で何か言わなかったかな?」
「心当たりがあるの?」
「いや、ない。あるわけない」
エリゼはやっぱり怒ったままだ。
急に不安になった。
バレたか?
「言ったよ、一言だけだけど」
しまった。
「なんて言った?」
「ガレット」
良かった。
それだけなら問題ない。
いや、それはそれで問題だ。
「ガレットって誰?」
「いや、その、君には関係ないんだ」
そう言うと、唇を噛んで泣きそうな顔になるのだった。
「もう知らない」
それだけ言うと、エリゼは走り去ってしまった。
どうして僕はこうも次から次へとピンチに見舞われるのだろうか?
別荘地に帰ってくると、今度は国防長官を兼務するカイケル・コルピアス軍務官からの招待状が届いていた。面識がない上、軍事基地内にある本邸への招待ということで、嫌な予感しかなかった。
確かユリス・デルフィアス夫人のアネルエ王妃陛下がコルピアス邸で誘拐されたはずである。僕はそんなところへ一人で、しかも自分から進んで行かなければならないということだ。変なケーキを食わされたばかりなので嫌でも警戒してしまうのである。
それでも行かないわけにはいかなかった。今の僕には『行かない』という選択肢はないからだ。それに、行けばオーヒンの内情、つまりは今後の軍事行動の予定を知ることができるかもしれない。それを探るのが僕の役目である。
一月の中旬、行きはセトゥス閣下お抱えの馭者に馬車で送ってもらった。帰りはコルピアス閣下の馬車で送ってくれることになっている。『金の王冠』を所有しているので喋らなければ殺されることはないだろうけど、それでも警戒は怠らなかった。
コルピアス邸に到着したところで思うのは、どうしてこれほど厳重な場所で誘拐事件が起こったかということだ。高い壁があり、官舎も併設しているので多くの警備兵が常駐しているので、護衛付きの王妃を誘拐するなど不可能に思えるからだ。
通されたのは一階の応接間だ。夏場は屋内から造園を見渡すことができるという話だが、冬場なのでガラス戸で完全に閉め切られており、それが残念だった。それでも見たことのない大きなガラス窓を見ることができたので充分だ。
「お呼び立てして申し訳ない」
入ってくるなり、すぐに謝った。
「公子とは初めてでしたな。私が当主のカイケル・コルピアスにございます。以後、お見知りおきを」
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。ヴォルベ・テレスコです。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
そこでコルピアスが戸口を振り返る。
「もう一人、客人が見えてましてな」
その言葉を待っていたかのように、戸口から黒衣の女が現れた。
「ああ」
「公子、お久し振りでございます」
「お久し振りです」
挨拶をしたのは、前に一度だけ会ったことのあるシスター・アナジアだった。彼女はコルヴス家に出入りする修行者で、普段はオーヒン市内にある大聖堂で修行している女だ。その大聖堂に寄った時に話をしたのだ。
「知り合いならば紹介は無用ですな。早速始めるといたしましょう。おい、下がってなさい」
そう言うと、コルピアス閣下は護衛を部屋から下がらせるのだった。
「まま、どうぞ、お掛けくだされ」
そこで暖炉に近い長椅子を勧められたので座ることにした。閣下とシスターは僕の対面の長椅子に並んで腰を落ち着けた。アナジアはすぐにテーブルの上のガラス瓶を取り、三人分の花茶を淹れてくれるのだった。乾燥花が浮かんだ茶は絶品だった。
「お呼びしたのは、ご報告がありましてな」
コルピアス閣下が切り出した。
「北部でカイドル国と部族の間で争いが起こっていることはご承知でしょうが、先月、その争いに決着がついたのですよ。結論から申し上げましょう。ユリス・デルフィアスは亡くなられました。殺されたのです」
動揺するな!
反応してはいけない。
平常心を保つのだ。
「さすがは公子、噂通り、肝が据わっておられますな」
僕に対するテストは終わっていない。
「そうですか、新生カイドルは一年も持ちませんでしたか」
喜んでもいけない。
余計な感情など見せなくていいのだ。
僕は己の利のみに生きていることになっているのだから。
「閣下、それは確かでございますか?」
その情報を予め知っていたと勘繰られてもいけないわけだ。
「その場にいた者の報告なので、まず間違いないでしょう」
「カグマン国からの応援はなかったわけですね」
「それも間違いございませんな」
少なくとも、それで僕が両国を繋ぐスパイでないことは証明できたはずだ。
ということは、ガレットも……。
いや、今は考える時ではない。
「それでは、北部の情勢はどうなるのでしょう?」
こういう時は質問される前に、こちらから質問するに限る。
「北部の蛮族どもには国家の概念などという進歩的な頭はございませんからな。土地以外に目ぼしい交易品などありませんし、鉱物が眠っているならば別でございますが、調査するにも邪魔が入るという有様で、しばらくはそのままにしておく他ないでしょう。そもそも、カイドル国など再建する必要などなかったのですよ。国力を二分して何になるというのか。北部には我々がいるのですから、峠を境にして仕切ればそれで良かった。それを挟撃するためか、欲をかいたからこのような結果を招く。欲を持つのは構わんが、欲深いのはいけませんな」
そこでコルピアス閣下は深い溜息をついた。
「しかしアネルエは別。あの子ほど無欲な者は見たことがない。陛下に嫁がせたばっかりに、酷い目に遭わせてしまった。こうなることと知っていれば、無理にでも止めていたのだが、それだけが無念でならないのですよ。あの子はわしたちのことを本当の親子のように慕ってくれましたからな。それを思い出しただけで……」
そこで涙する老人を慰めたのはアナジアだった。
「閣下は何も悪くありません。どうか、ご自分をお責めにならぬように」
僕は『ドクター』とも呼ばれているシスター・アナジアのことが苦手だった。彼女と話をしていると、つい自分に負けそうになってしまうからだ。神の代理人と話しているような、そんな錯覚に囚われてしまうのだ。それが神職に就く人の怖さかもしれない。
「その誘拐事件ですが、犯人は捕まったのですか?」
花茶で一息ついてからコルピアス閣下が答える。
「いや、結局は分からずじまいだった。デルフィアス陛下はデモン・マエレオスを疑っておったようだが、あの男が自分に繋がるような証拠を残すはずがありませんからな。ということは、デモン・マエレオスを罠に嵌めたい何者かの仕業だったのでしょうな。しかし、その事件の最中で死んだドラコ・キルギアスの首を手土産に、ハクタ国で出世したのもまた事実。真相は藪の中だが、得をしたのが一人だけというのも、あの男らしいといえるかもしれませんな」
しかし、デモンに剣を抜いたドラコを殺せるはずがない。
「そのハクタ国ですが、閣下は先ほど『峠を境にして仕切れば良い』と仰られましたが、それはオーヒン国による南征はないと考えてもよろしいのですか?」
閣下がはっきりと頷いた。
「まず『ない』と断言させていただきましょう。まったくもって現実的な話ではございません。兵力では互角に見えても、そんなもの所詮は数字遊びに過ぎんのです。サイコロを振って、出た目の数だけ兵を動かせるわけではございませんからな。物資を運搬することがどれだけ大変か、一度でも商売をしたことがある者ならば、嫌というほど身につまされることなのですよ」
舶来品に囲まれた暮らしぶりをみると、そう苦労しているようには見えなかった。
「しかしながら、私も所詮はただの役人にすぎませんからな。陛下の勅命が下れば、それに従わざるを得んのです。さらに公子にだけ特別にお教えしますと、現時点で遠征が決まっていたとしても、それは機密情報であるが故、真正直には答えられないのですよ。その辺のことを以後ご察しくだされば、これ幸いに存じます」
今後何があろうと、僕に対して『嘘をつかなかった』ということを言いたいのだろう。
「閣下」
アナジアが変なタイミングで割って入ってきた。
「公子に例の件を相談されてみてはいかがでしょう? 南部出身の公子ならば、閣下の知らないことを知っているやもしれません」
「おお、そうだな。いや、なに、未確認情報なのですが、妙な噂を耳にしたのですよ。現在、カグマン国は大陸から造船の技術者を引き抜いて大型の貨物船を建造中でしてな。それが今年の夏に処女航海に出ることが決まっておるのです。その記念の式典にクルナダの特使も参加することから、その式典が八月一日に行われることまでは分かっております」
それは僕もハクタにいた時に耳にしたことがあった。
「ところが、その式典に参加するフィンス国王陛下を狙った暗殺計画があるというのですよ。それで我々としては、その掴んだ情報をいかに処理するか大いに悩んでいるというわけでございますな。警備は万全でしょうし、暗殺を想定した対策も充分でございましょう。しかし、ただの怪情報ならば見過ごすこともできるのですが、その情報の出所が問題でして、ええ、つまり、困ったことに、式典に参加するコルーナ特使からもたらされたものなので、それでどうしたら良いものか悩んでいるというわけにございます」
それを僕に相談するということは、僕を試しているということだ。
動揺してはいけない。
悪童を演じ続けなければダメだ。
「つまり、こういうことですね? そのクルナダ国のコルーナ特使はオーヒン国の出方を試していて、だからコルピアス閣下は悩まれていると」
閣下が感心する。
「さすがは公子、理解が早い」
言葉に詰まることなく、ここは一気に説明しなければならない。
「クルナダ国といえば、カグマン国を半島の戦争に巻き込むことで、平定させることに成功したと聞いています。それは戦略として後悔はないと思いますが、それには支援の代償もあり、暗殺を企てるということは、ここにきて負担が重荷に感じられるようになったのかもしれませんね」
父上との雑談から得た知識を思い出せ。
「暗殺が成功すれば、カグマン国はハクタ国の領土となることが想定され、そこでカグマン国と交わした支援に対する補償を白紙に戻せると考えたのではないでしょうか? クルナダ国にとって、三国分国は願ってもない好機というわけです」
この場では、僕は傍観者として振る舞わなければならない。
「コルーナ特使がわざと情報を掴ませたのは、単純にオーヒン国がどちらに味方するのか知っておく必要があるからですね。仮に暗殺計画が成功すればオーヒン国との協力関係を強化すればいいですし、失敗に終われば、敵対しているハクタ国と手を組めばいいというわけです。この際、暗殺計画自体はそれほど重要なことではないのでしょう。暗殺することよりも、情報を得ることの方が大事だと考えているでしょうからね」
そこでまたしてもアナジアが変なタイミングで口を挟んできた。
「公子ならば、その情報をどのように扱われますか?」
ここは公僕としてのスパイ活動を全うしなければならない。
「現在のカグマン国には何の値打ちもありません。わざわざ教えてやる必要などないのです。とはいえ、ガルディア帝国の庇護下にあることをいいことに、オーヒン国を弄ぶような真似をしたクルナダ国は、同じ島民として許しがたいですが、ハクタ国と手を組まれるのも厄介ですからね。一先ずは味方につけておくことが最善かと思われます」
アナジアが尋問するかのように問う。
「ご従弟に報せないというのですか?」
僕はスパイだ。
「情報が漏れないようにお願いしたいくらいです」
「暗殺されるかもしれないのですよ?」
「それが何か?」
「フィンス陛下のお命が懸かっているのですよ?」
「貴女は相当しつこいお方だ」
そう言うと黙ってくれたが、僕はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。




