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第五話(181) ハクタ国との密約

 オガ族の村を出たのは十一月一日のことだった。北部では既に朝晩が冷え込む時期になっていたので、見送りの村人から毛皮のマントをいただいた。寒さは感じないので必要ないけど、断ると不自然なのでありがたく頂戴することにした。


 それから三日掛けてガタ族の村へ戻り、そこで族長のハトマに経過報告を行ってから、その日のうちにハクタ国へ移動することとなった。ナザ族の集落へは寄らないので、そこからは高速移動が可能だ。


 といっても、私は風に乗るのが苦手なので、雷の杖にまたがるミルヴァの背中にしがみついての移動だ。久し振りに重力から解放されたので気分が良かった。この世で一番気持ちがいいのは、魔法で夜空を飛ぶことだ。



 しかし、それは最初だけだった。


「ハクタの王宮へ行く前に、ガサ村の隠れ家に寄るわね」


 そう言うと、ミルヴァは垂直落下で森の中へ突っ込んで行った。

 迫りくる地面を見て、死ぬかと思った。


「魔法使いのクセに情けないわね」


 地面にへたり込む私を見て、ミルヴァが笑うのだった。

 腰が抜けたけど、どうやら地表すれすれで急停止できたようだ。


「スピードの出し過ぎだよ」

「あら? これでも半分くらいの力しか出してないのよ?」


 それは考えられない速さだ。人間が馬を乗り継いでも一週間は掛かるところを半日も掛からずに移動してしまったからだ。ビーナも風に乗るのは上手だけど、重力を制御する力はミルヴァの方が上ではなかろうか。



「ようこそ、わが家へ」


 ミルヴァに案内されたのは、樹海の果てにそびえ立つ一本の巨木の前だった。


「どこに家があるというの?」

「裏に回ると入り口があるの」


 その巨木は中に荷馬車を隠せるくらいの直径があった。


「ほら、ここの隙間を抜けるのよ」


 そう言うと、ミルヴァは巨木の内側に入っていった。

 私も後に続く。


「中が空洞になっているんだ」

「そう、隠れ家にはピッタリでしょう?」


 空洞の中には椅子とテーブルがあり、棚まで立てられていた。その棚には様々な形をしたガラスの小瓶が並べられており、小瓶の中には液体や粉が詰められているのだった。どうやら、ここはミルヴァの魔法の実験室のようだ。


「ここって人間に見つからないの? ほら、近くにハクタ軍の演習場があるでしょう?」

「むりむり、こんなところまで来られるものですか。帰れなくなっちゃうんだから」


 ミルヴァが黒衣を私に手渡す。


「これに着替えてちょうだい」

「黒衣から黒衣に着替えるの?」

「それはクルナダ国で仕入れた黒衣なの」

「それに何の意味があるの?」

「ハクタではクルナダ国から来た『アニーティア』という名の修行者として乗り込むから、そのための衣装替えなのよ」


 そういうことなら着替えるしかなかった。


「ちょっとそこをどいてちょうだい」


 そう言うと、棚から小瓶を手に取った。


「今から化粧をするから待っていてくれる?」

「化粧って、お化粧のこと?」

「そうよ。他にある?」


 と言いつつ、椅子に腰掛けて、鏡を見ながら化粧を始めてしまった。


「修行者が化粧なんかして怪しまれないの?」


 基本的に修行者は自分を着飾ることはないからだ。


「これはただの化粧じゃないの」


 手を動かしながら説明する。


「『アニーティア』は十年以上も前にカグマン王国の王宮に出入りしていた修行者だから、見た目が変わらない今のわたしだと怪しまれる可能性があるでしょう? だから老け顔のメイクをして誤魔化そうというわけ。魔法を掛けてあるから、人間の目から見たら『アニーティア』が老化したように見えるの。まぁ、オフィウは目が見えないから心配ないんだけど、それでも掛けた魔法が解けないように、念のために予防しておこうかと思って」


 これは画期的なアイデアだ。つまり衣装と化粧を使って変装することによって、何年でも、いや、何十年でも他の人物に成りすますことができるからだ。しかもミルヴァの場合は相手の視覚に魔法を掛けるので、凝ったメイクは必要ないというのが利点だ。


 さしずめ『変装魔法』といったところだろうか。人間がスパイ活動を行うと、デモンら四悪人のように本性が暴かれやすいけど、ミルヴァの場合は魔法で見た目を変身させることが可能となったので、素性を見破られる心配がいらないというわけだ。


 それにしても化粧を小道具に使うとは驚きだ。化粧文化も元を辿れば求愛行動の一つだけど、これからは様々な意味合いを持つ時代が来るのかもしれない。魔法使いが始めたことは、必ず人間社会にも普及してしまうので、必ず真似されるに違いないからだ。


「さぁ、準備ができたわよ」


 化粧を終えたようだけど、見た目は肌つやを抑えたくらいで、それほど変わったようには見えなかった。それでも人間の目には三十代の女に見えるのだろうから、改めてミルヴァの魔法力の高さには恐れ入るしかなかった。



 とはいっても、ハクタ国の山の手にある新王宮の門を潜る時にはドキドキハラハラしてしまった。なぜなら今から四か月ほど前に、ユリスの妻であるアネルエ・デルフィアスの召使いエルマとして訪れたばかりだったからだ。


 ミルヴァの魔法の力は信じているけど、それでも不安だった。新王宮には数百の衛兵がいて、召使いも大勢いるわけで、そのすべての人に魔法が掛けられているのか心配だからだ。しかし、どうやら問題なさそうだ。


「本当かい? どこにいるんだい?」


 私たちの訪問の報せを受けたオフィウがわざわざ門の外まで出迎えてくれた。


「ここでございます」


 そう言って、ミルヴァがオフィウに歩み寄り、手を取るのだった。


「ああ、間違いないよ。その声は確かにアニーティアだ。お前さんもすっかり年を取っちまったみたいだけれど、忘れるものか」


 ミルヴァは低い声で喋っているだけなのに、それが人間の耳には三十女の声に聞こえてしまうということだ。こういった細かい芝居をすることで、より魔力の効果を増大させることができるということなのだろう。


「王妃陛下はお変わりないようで何よりでございます」

「お前さんのおかげで、こうしていられるのさ」


 それから杖代わりをしている息子に声を掛ける。


「マクスや、憶えているだろう? アニーティアがお前の命を救ったんだよ?」


 国王のマクスはよく分かっていない様子だ。


「まぁ、いいさ、命の恩人を『アニーティアの部屋』へ案内しておやり」


 ミルヴァが驚く。


「わたくしの部屋が存在するのですか?」

「当たり前じゃないか。お前さんの王宮でもあるんだからね」


 ハクタ国は既にミルヴァの支配下にあるようだ。



『アニーティアの部屋』と呼ばれる貴賓室は、丸太小屋がすっぽりと収まるくらいの広さがあった。そこで付き添いの護衛を下がらせて、オフィウとマクスとミルヴァの三人は革張りの長椅子に並んで腰掛けるのだった。


 私は外との連絡係として、戸口から三人の様子を見守るようにミルヴァから指示を受けた。同じ修行者だけれど、召使いのような役割だ。とはいえ、私はオフィウ母子が苦手なのでありがたかった。


「それにしてもアニーティアや、お前さんはいつもわしが困った時にやってきてくれる子だよ。マクスが大怪我をした時や、ユリスが国を乗っ取ろうとした時も助けてくれたじゃないか。お前さんがいなかったらカイドルへ行くとは言わなかっただろうさ。それで今回もそうだろう? 頼りにしていたムサカが殺されちまってね。憶えているかい? あの男はハドラに裏切られちまったんだよ」


 オフィウはミルヴァの手を掴んで離そうとしなかった。


「でも、お前さんが来てくれたら安心だ。そもそも、わしはあんな男を信じちゃいなかったのさ。あの男ときたら、大事な話になると決まってマクスを部屋から追い出して、そのくせ手前の息子は同席させるんだよ? お前さんはそんな真似しないものね。本性を知るために好きにさせていたけど、殺されて良かったんだ。あの男が生きていると、安心して死ぬこともできないからね」


 自分の話題なのに、マクスは退屈そうにしていた。何が面白いのか分からないけれど、長椅子の肘掛けをいじくっては革をめくり、その下の木材を手でこすってはにおいを嗅ぎ、そんなことを延々と繰り返すのだった。


「しかしアニーティアや、よく帰ってきてくれたね」

「陛下のご即位と建国のお祝いを直接申し上げたいと思いまして」

「お前さんの予言通りじゃないか」

「すべては父王のお導きにございます」

「ああ、そうだったね、お前さんは本当に謙虚な子だよ」

「改めて、この度はおめでとうございます。手土産を持参してこなかったことを、どうかご容赦くださいませ」

「何を言っているんだい。褒美を取らせたいのはわしの方さ」


 そこでミルヴァが居ずまいを正した。


「それでは、早速ではありますが、その褒美をいただいてもよろしいでしょうか?」

「ほほっ! ほほっ!」


 老婆が豪快に笑った。


「お前さんは本当に正直者だ。欲のない奴よりよっぽど信用できる」


 それは権力者にとって都合のいい論理にすぎない。


「それで一体、お前さんはわしに何をしてほしいというんだい?」


 ミルヴァがたっぷりと間を取る。


「オーヒン国と密約を結んでほしいのです」

「おやおや、それはお前さんらしくない話だね。オーヒンにいる毒ヘビ男が信用ならないって知っているだろう? それでも手を組めというのかい?」


 危うく『毒ヘビ男』という表現に笑いそうになった。実弟のゲミニ・コルヴスに毒を盛ったのは老婆も同じではなかったか? それとも、その毒が効かなかったから、そう呼ぶことにしたのだろうか?


「理由をお話しします」


 ここから老婆を手玉にする会話が見られそうだ。


「ハクタ国は建国したばかりではございますが、現在危機的状況にあります。なぜなら三つに分国したことで、国力が三分の一になってしまったからですね。オーヒン国を含めれば、この島には四つの大国が存在していることになります。ところが、それで均衡が保たれるかというと、そうはなりません。なぜならフィンス・フェニックス擁するカグマン国とユリス・デルフィアスが治めるカイドル国が初めから確固とした同盟関係が築かれているからでございます。これでは、非常に偏った三すくみの状況になっていると言わざるを得ない状況なのです」


 それこそが、オフィウがミルヴァに救いを求めた理由でもある。


「この不利な状況を打破するには、オーヒン国と手を組むのが得策だと思われます。なぜなら、そうすることによって地理的に二つの敵国を分断することができるからです。しかし、コルヴス家が信用ならないというのは、わたくしも同意見でございます。ならば、一時的に手を組んで、カイドル国を滅ぼした後、状況が好転したところで一方的に破棄するというのはいかがでございましょう? と申しますのも、ハクタとオーヒンが手を組むことを最も恐れているのはユリス・デルフィアスなのですからね。勝つためには敵が嫌がることをしなければならない、という兵法の基本戦略にもございます故、ご提案申し上げたわけにございます」


 オフィウが疑問を呈する。


「しかし、一方的に破棄すると分かった上で、オーヒンが話に乗ってくるかね?」


 ミルヴァにとっては想定内の疑問だ。


「それは問題ございません。なぜなら、あちらも状況次第で不可侵条約を一方的に破棄する腹づもりなのですからね。わたくしたちと考えていることは一緒なのです。現在の状況が不利であることも同じなら、天下統一を望んでいることも同じなのです。いずれ雌雄を決する時が訪れましょうが、それにはまずは目障りな後背の敵を討たねばならないという、まさしく双子のように、何から何まで状況が酷似しているのです」


 オフィウ・フェニックスとゲミニ・コルヴスは双子の姉弟だ。人間界には不思議な因果があるもので、こういった数奇な運命というのはしばしば見られる現象でもある。迷信深い老婆も、これには不安を覚えたようだ。


「共倒れなんてことにならないだろうね?」


 ミルヴァがオフィウの手を握る。


「ハクタ国とオーヒン国の大きな違いは、わたくしが王妃陛下に協力している点にございます。さらに付け加えますと、コルヴス家に出入りしているシスター・アナジアという名の修行者がおりますが、彼女はゲティス国王から多大なる信頼を勝ち得ているのですが、そのアナジアは弟子の一人でございまして、わたくしの意のままに動かせるという優位性があるというわけにございます」


 ミルヴァは『アニーティア』と『アナジア』の一人二役を演じていくつもりのようだ。


「それは本当かね?」

「アナジアの信頼性については、わたくしが保証します」

「ほほほほほほほほほっ」


 オフィウが気持ち良さそうに笑った。


「弟が姉を出し抜くなんて、初めから道理が間違っているのさ。やっぱり神さまというのは見ているんだね。わしのところにアニーティアを寄越してくれたのは、きっと神さまに違いないよ。だから『お祈りをしなさい』って、わしはあの男に何度も言い聞かせてきたのさ。一度でも言いつけを守っていたら、罰なんて当たらなかっただろうに」


 ミルヴァがやんわりと忠告する。


「まだ、ゲミニ・コルヴスに天誅が下るとは限りません。現在が不利な状況であることに変わりはないのですからね。ユリス・デルフィアスとフィンス・フェニックスはまだ若く、問題を先送りさせることで、時間切れとなり、対話によってご子息を丸め込もうと目論んでいることでしょうから、そうなる前に手を打たねばならないというわけにございます」


 オフィウが何度も頷く。


「そうだったね、ユリスも厭らしい男だからね、マクスに黙って従っていれば許してやったのに、立場を弁えずに、それどころか、バカにするから罰が当たるんだ。いや、アニーティアや、ユリスにもちゃんと天罰が下されるんだろうね?」


 ミルヴァは頷く代わりに、握った手に力を込める。


「そのために北西部族に支援していただきたいのです」


 オフィウが得心する。


「ああ、そうだったね」

「そうすれば、遠征することなくカイドルの地を手に入れることができるわけです」


 そこでオフィウが思い出す。


「そういえば、少し前にデモン・マエレオスも同じことを言っていたんじゃなかったっけね? ほら、あの男は北部の出だろう? ああ、そうだよ、あの時わしは、部族なんか信用できないから、話を聞かずに断っちまったのさ。でもアニーティアや、お前さんが言うなら考えを改めるよ。お前さんは一度だって間違ったことがないんだからね」


 デモンの名前が出た途端、明らかにミルヴァは不機嫌になった。しかも考えていることが一緒というのは、彼女にとって最も屈辱的なことだったようだ。出会った時から似ている両者だけど、そのことを指摘されるのを最も嫌っているのだ。


「お褒めに与り光栄ではございますが、しかし、なんだってデモンなどという、敵か味方かも分からぬ男を引き入れたのでございますか? それも、よりによって神祇官の職を与えたというではありませんか」


 老婆がミルヴァの手を頬ずりする。


「それは、いなくなったお前さんがいけないんじゃないか。その時は他に頼れる者がなくてね、それで仕方なしに側に置いてやったのさ。ほら、ランバ・キグスを知ってるだろう? 『ランバは島で一番の軍人だ』っていうものだから、それで任せる気になったのさ。でも、お前さんが反対するなら、二人ともクビにするよ? アニーティアさえいてくれれば、わしはそれでいいんだからね」


 ミルヴァが一瞬だけ考える。


「いえ、これは賢明なご決断だったかもしれませんね。目の届くところに置いておけば、どこで何をしているのか瞭然ですし、何をするにも王妃陛下の許可を必要とします。少なくとも、カグマン王国に行かれるよりは良かったでしょう」


 オフィウが安心する。


「それは良かった。なにしろ名を馳せるような人材は、みなユリスに取られちまったからね。ムサカがしくじらなければ、こんなに悩むことはなかったんだ。ったく、あの能無しは、自分が死んだ後のことを考えていないんだから、本当に無能だよ」


 そこでオフィウが話を変える。


「そこで頼みがあるんだけどね、マクスの子を産んではくれないかね? いや、お前さんが断るのは分かっているんだ。それで出て行かれちまったんだからね。それでも諦めきれないのさ。なんたって、わしの後を継げるのは、お前さんしかいないんだからね」


 ミルヴァが即断する。


「大変恐縮ではありますが、以前にも申し上げた通り、それはできない相談でございます。王家の血を守るならば、やはりここは王族の縁者から選ばれるのが筋でございましょう。コルヴス家の跡取りもクミン王女との成婚を望まれておりますが、これは彼女を巡る戦いでもあるのですよ?」


「うむ」


 老婆は深刻そうに頷くが、マクスはまるで興味がないといった様子だった。

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