第二十六話(158) ケール夫人の金言
リング領の山中にある古城の中庭で盛大な宴が行われていたが、歌や剣舞に興じる兵士たちとは別に、私たち三人は焚き火の前でパルクス皇帝と側近を交えて話し合いを続けていた。といっても、会話をしているのはミルヴァとデモン・アクアリオスの二名だけだが。
「小官はマークス・ブルドンを疑っているわけではありません」
デモンがミルヴァに反論する。
「ブルドン町長が信頼に値する人間だからといって、彼を取り巻くすべての者を信用するわけではないと言っているのです。利用しようとする者がいないわけではないでしょう? 否、この実直な男を利用しようとする者から守るためにも保護してやる必要があるのですよ。私がそのための知恵を授けようというわけです」
デモン・アクアリオスが女に生まれてきていたら、間違いなくミルヴァに匹敵する魔法使いになっていたことだろう。しかし残念ながら、彼は男だ。その言葉はすべてハッタリでしかないのである。
「そのお知恵というのを、よろしければお聞かせ願えますか?」
相手が魔法使いではないので、ミルヴァも余裕があった。
「なに、簡単なことなのですよ。我々が持つ行政のノウハウを町営に活かしてはどうかということなのです。地方の豪族のように自治権の範囲で町政を行うのは構いませんが、治安の悪化だけは見過ごすことはできませんからね。ましてや、それが停戦中の両国にとって亀裂のきっかけとなっては敵いませんからな。要するに、陛下は諸君らの力になりたいと仰られているのです」
つまり役人を置くから金を出せということだ。予想通りの展開だったので誰も驚かなかった。五千人以上の軍隊を引き連れてきたのは、軍事力を示す目的もあったのだろう。帝都から進軍する力があることを誇示したわけだ。
しかしそれがカイドル帝国の限界のような気もした。領土を拡大してきたフェニックス家との停戦も一時的なもので、しばらくしたらまた戦争を始めてしまうのが人間だ。ジェンババという鉄壁の戦略家がいるから、カイドル王国も今は大人しくしているのだろう。
カイドル帝国の崩壊は目に見えている。大陸に存在する二大帝国に比べて支配地域が狭すぎるからだ。しかも地方の有力な豪族を配下に収めていないので、内部すら盤石とはいえない。それでもミルヴァは翌日以降も帝国側と町営について話し合いを続けた。
ミルヴァとビーナが会議に参加している間、私はコルピアス夫人のお相手をしているようにと命じられていた。といっても、特にすることもなく、客室で話し相手になってあげることしかできなかった。
滞在して一週間が経ったこの日は、古城の主でもあるリング家の一人娘も一緒にテーブルを囲んでいた。マナン・リングは使用人らから『王女様』と呼ばれており、城にいるすべての者から守られているような人物だ。
当主である女王は人前に姿を見せない決まりのようで、城内にいるとは聞いていたが、これまで一度も顔を合わせたことはなかった。その代りに娘のマナン王女が客の応対をしているというわけだ。
黒紫色の髪に黒い瞳の王女様を見ると、故郷のウルキアに帰ってきたような気分になる。美人さんだけど、いまいち自分に自信が持てないという、どこにでもいる十九歳の乙女だ。このところずっとケール夫人が恋の相談に乗ってあげているのだった。
「マルンさん、お身体の方は大丈夫なのですか?」
気に掛けたのは、マナン王女だ。
「城に来てから一週間になりますが、本当に何も口にしていないというではありませんか? もちろん断食というのは聞いたことがありますが、まさか本当に何も食べないとは思ってもみませんでしたので、城の者たちも驚いているのです」
魔法使いであることは教えられない。
「ご心配をお掛けして申し訳ありませんが、どうかお気になさらないでください。これも修行のうちと言いますか、一つの試練のようなものなのですね。最低でもひと月は続けられますので、心配には及びません」
限界はないけれど、限度を示しておかないと怪しまれると思ったので説明した。
「断食の効果なのでしょうかね」
ケール夫人も興味津々だ。
「お三方とも肌つやが十代のように若々しくございましょう? 羨ましくはありますが、一週間も食べないなんてことは出来ませんものね。かれこれ四年になりますが、お三方ともまったくお年を召されないのですよ?」
やはり魔法使いは人間社会に留まってはいけないようだ。
「ケール夫人は今のままで充分お美しいので、真似される必要はございませんよ」
「マルンさんは本当にお優しいのね」
三十代半ばの年齢なので肌は衰えているけれど、ふっくらとした容貌は美人そのものだ。特にガルディア人やアステア人にとってはふくよかであればあるほど男性にモテる傾向にあるので、細身のマナン王女よりも男性人気が高いのではなかろうか。
「しかし、あの方の好みというものがございましょう?」
マナンが口にした『あの方』というのは皇帝パルクスのことだ。
「ミルヴァ様に好意を抱いているように見えますし、それならば、わたくしも修行者様のように断食を始めた方がよいのかと思うのです」
私たちのライフスタイルを真似たがるのは、人間社会ではよくあることだ。
危険なので注意する必要がある。
「誠に恐縮ではありますが、どうか断食などなさらぬようにお願いいたします。これは幼少の頃から鍛錬を積み上げることで成せる修行でございます故、慣れない身体では無理が祟るのです」
ついでに恋のアドバイスもしておこう。
「マナン王女は古代ウルキア族の血を引くお姫様ではありませんか。ならば正面から堂々とお気持ちを伝えればよろしいかと存じます。ウルキアの王族の姫君らは誰しもがご自分で伴侶を選ばれるのですよ? カイドルには古からのしきたりが残っているのですから、それに則られるのがよろしいかと思われるのです」
ミルヴァやビーナならば魔法を使って強引にでも恋を成就させるだろうけれど、それで失敗しているのを見ているので、今回はアドバイスするだけに留めておいた。
「マナン王女」
今度はケール夫人が恋のアドバイスをする。
「王女殿下はお選びになられるお立場であることを忘れてはなりませんよ? 優秀な種を持つ男など数に限りがあるものでございます。遠慮してどうなさるおつもりなのですか? 他の女に譲ることが美徳になるなど聞いたことがありませんでしょう? 恋心というのは、身も心もお相手の方を欲しているという分かりやすいサインではございませんか。その気持ちに正直にならねばなりません。特に女というものは、男の仕事の出来次第で人生のみならず、子どもや孫たちにも影響を与えるのですから、捕まえて離さぬ覚悟を持って挑まねばならないのです」
ガルディア系とアステア系の結婚が最も富をもたらすカップリングだといわれているけれど、まさにコルピアス夫妻がそれに当て嵌まるのだった。現実的に考えて、人間社会ではケール夫人のアドバイスの方が言葉の通り、まさに金言といえるだろう。
「しかし男というのは英雄気質で、自分本位でございますでしょう? ですから女の方から選んでやるとすぐに自惚れてしまいますし、自信をつけてやるとすぐに気持ちが浮ついてしまいます。では、どうしたらいいかと申しますと、優秀な男というのは欲が深いので、自分に価値があると思わせなければなりませんよ。選ぶのは王女殿下の方で間違いございませんが、お相手の方には自分で選んだと思わせるのが肝要かと存じます。常に宝を掘り当てるのを夢見ているのが男なので、女こそが守るべき財宝であると思わせればいいということでございますわね。男は小さな心を大きく見せ掛けているだけなので、決してプライドを傷つけてはなりません。自分たちよりも心が小さいということを肝に銘じるだけで、上手に付き合っていくことが叶いましょう」
ケール夫人の話を聞くと、男神崇拝の太教ですら、実は女が男を上手に誘導して作り上げた宗派のような気がするから不思議な気分になる。いわば男による求愛の成れの果てみたいなものだ。宗教というのは、とどのつまり求愛の一形態でしかないわけだ。
といっても、男性中心社会で苦しんでいる女たちを尻目に余裕を持って分析できるのは、私が人間社会を俯瞰で見ることができる魔法使いだからだろう。人間には未来永劫、到達できない答えなので、目の前にいる彼女たちと考えを共有するつもりはなかった。
男社会が求愛という表現の一つである以上、これから先もますます男を中心に社会が発展していくに違いない。優秀な男を選ぶ指標として、女もそれを大いに活用することとなるだろう。それが今後の人間社会における大まかな流れになるような気がするのだ。
どちらが悪いということではなく、互いにとってメリットを得る割合が多いから望まれる形で社会が進んできたわけだ。ここカグマン島がその流れを変えられるかは、単にミルヴァの手腕に掛かっているといっても言い過ぎではないはずだ。
その後、マナン王女の恋が成就したのかどうかは分からなかった。なぜなら翌日には古城を後にしたからだ。それは町政を巡る帝都側との交渉がまとまったことを意味している。デモンが大陸へ渡る準備をしていることから、帝都側も納得のいく結論に至ったのだろう。
五百人の帝国軍にオーヒン町まで護衛してもらったのは、そのまま町の警備兵として駐留させるためだった。それが当面においての妥協案の一つだったのだろう。これはさすがにミルヴァでも受け入れを拒否することができなかったようだ。
将来的にオーヒンを国として独立させる時、この在留帝国軍は障害になると、ミルヴァは事前に話していた。当初の予定では、移民の中でも特に優秀な者を警備兵に抜擢しようと考えていたからだ。
つまり移民にとっては一つの目標であり、希望を失わせないための重要な仕事が警備職だったわけだ。こちらにとっても軍政を乗っ取られないように大事に守らなければならない仕事だった。
それでも受け入れたということは、こちら側にもメリットがあったからなのだろう。その辺のことを修道館に戻って、神官長の部屋に帰ってきた時、ようやく聞くことができた。それまでは護衛という名の監視の目がきつくて自由に話ができなかったのだ。
「ねぇ、ミルヴァ」
ビーナが不快感を前面に押し出す。
「外にいる警備兵だけど、いつまで見張らせるの?」
「これからずっとよ」
やっと会話を聞かれずに話ができるので、ミルヴァの表情は柔らかかった。
「まさか外出中もくっついてくることはないよね?」
「ないとは思うけど、尾行するように指示は受けているかもね」
「勘弁してよ。カラスが喋ってるところなんて見せられないんだよ?」
「そこら辺は上手くやってちょうだい」
「女が一人で出歩くだけでも怪しまれるじゃない?」
「だからって魔法は使わないでね。風に乗るのも充分に気をつけて」
「どうやって尾行を撒けばいいの?」
「修行と言えば何とでもなるでしょう?」
「はぁ」
そこでビーナが大きな溜息をついた。
「なんで警備兵なんか受け入れちゃったのよ? 計画にはなかったよね?」
「思ったより帝国が使えそうだと分かったの」
一週間でカイドル帝国に対する評価が一変したということになる。
「パルクスはわたしたちが考えていた以上に優れた男よ? 今回の話し合いだって、本来ならば一方的に決定しても良かったんですもの。まぁ、その場合は魔法を掛けていたから命はなかったでしょうけどね。そういう意味でも、彼にはまだ運がある。運に恵まれた男はどんどん使ってあげないとダメなのよ。まだ戦争を知らないから実戦でどれほどの力を発揮するのか定かではないけれど、フェニックス家を打倒するくらいの実力があるのなら、わたしたちで彼をサポートして勝たせてあげてもいいと思っているの。あくまで勝てるだけの戦力を準備できたらの話だけどね」
魔法を使って一網打尽にすることは可能だけど、それをしては人間社会に魔法使いの存在を痕跡として残してしまうので、ミルヴァはそれを避けたいわけだ。だからオーヒンが単独で島を制圧できるようになるまで兵力を増員させようとしているのだ。
「でも、当面は感謝を忘れて反抗した親不孝者の移民たちに悩まされることはなくなったわね。反乱を起こした移民たちを鎮めるようにパルクスにお願いしてあるんですもの。犯罪者どもを見つけ出して、あちらで勝手に始末してくれるのよ? これほどありがたい申し出はないじゃない。それこそが『国家』の根元なんですものね。それで監視や監査されるわけだけど、お金を払って訓練された警備兵を派遣してもらったと考えれば安いものよ。後は勝手をさせないように、こちらも監視しなければいけないけどね」
結局は、国家とは大層なものではなく、国民の命を守るために存在しているにすぎないわけだ。それが反対、つまりは国家を守るために国民が犠牲になると、本末転倒を招くこととなる。国民を反国家主義者にさせてはならないことが大事なのだ。
「それとデモン・アクアリオス、あの男の存在も忘れてはならないわね。初めは面倒だから殺してしまおうかと思ったけど、利用してやろうと思って歩み寄ったら強力な味方となるって気がついたの。『敵にすると厄介だけれど、味方にすると心強い』とはよくある言葉だけど、まさかデモンのためにあるような言葉だったとは思わなかったわ」
帰路ではミルヴァとデモンが一緒の官馬車に乗っていたので親しくなったようだ。
「デモンのおかげでビジョンが具体的に広がったように感じるの。オーヒン町とベントーラ領の間にある森林地帯に軍事基地を建設するというのは最高のアイデアよ。初めは練兵場として土地を開き、やがては騎馬隊を組織するの。そこに軍隊を常駐させておけば荘園の城下町に睨みを利かせることができるし、オーヒン町で万が一にも武装蜂起が起こった場合でも、すぐに鎮圧させることができるでしょう? 今まではコルピアスに配慮する必要があったから荘園を見張ることができなかったけど、皇帝陛下の勅命ならば話は別よね。デモンを通してパルクスに働き掛けてもらえば、コルピアスに対しても無理を通せるというわけ。わたしたちの代わりにデモンが表立って行動してもらうというのも悪くないし、ここまで上手くいくと、彼こそが欠けていた最後の歯車のようにも思えるのよね」
ミルヴァは日頃から『水車のように設置すれば勝手に仕事をしてくれるのが理想の組織だ』と言っていた。『わたしの仕事は信頼できる人物を長に据えてやるだけ』とも言っていたので、デモンが理想的な人材だったわけだ。
「残念なのが、彼はパルクスと違って体力に自信がないということね。ジェンババと一緒でいくら頭脳明晰でも、抜きん出た武力がなければカイドルの皇帝にはなれないみたいなの。山暮らしの豪族を黙らせるには、絶対に手出しさせないっていう、パルクスのような分かりやすい強さが必要なのよ」
オーヒン町の西方にはオガ族やガタ族やナザ族といった豪族が支配している地域があって、カイドル帝国やカグマン王国ですら手出しできない原住民系の民族が暮らしていて、両国の戦争に干渉しないのが特徴だ。
「デモンは昔から病気がちで、何度も原因不明の高熱に悩まされてきたみたいね。そのせいか、達観したところがあるから、パルクスと同じ年齢には見えないでしょう? 無事に成人を迎えることができたのが奇跡だったみたい。そんな彼が今回大陸に渡るわけだけど、一説にはガルディアの帝都に行って、医者に診てもらうためじゃないかっていわれているの。あの男のことだから私事のために行くとは思えないけど、目的が不明だし、やっぱりわたしも彼と一緒に大陸に行こうと思う」
それは当初の計画通りだ。
「だから島のことは、あなたたち任せるわね。現時点で起こり得る問題といったら、常駐することとなった警備兵と移民の間でいざこざが発生してしまうことだけど、それは完全にパルクスに任せてあるから何も心配はいらないわよ。大事な労働力であることは確かだけど、わたしだって恩を仇で返すような犯罪者に用はないもの。だから皇帝陛下には、ちょっとだけ強めに言い聞かせておいたの。ご神託ようには受け取ってもらえなかったでしょうから、どの程度効果が現れるのか分からないけど、これで以前よりは治安が良くなると思うんだ。パルクスにとっても全島に名前を売り込むチャンスになるかもしれないし、今のところ完璧といっていいかもしれないわね」
ミルヴァが皇帝パルクスに暗示魔法を掛けたかどうか分からないが、目に見える形で成果を挙げたのは確かだった。デモンの出港を確認すると、皇帝は古城を出て、旧チャバ町の役場に居を移して、そこに反乱者の掃討を目的とした作戦本部を設置するのだった。
オーヒン町に常駐している五百人の警備兵も含めて五千人での大規模な掃討作戦となり、命を受けた警備兵は皇軍として各地に散らばり捜査を始めるのだった。当然、狼藉者はその場で断罪となり、今回の作戦を機に追い剥ぎなどの山賊も併せて一掃されたという話だ。
私はビーナから話を聞いただけなので詳しいことは分からないけど、皇軍の特徴は騎馬兵の機動力と百人隊の組織力が特に優れているという話だ。これはパルクスが陣頭に立って指揮しているから統率の取れた組織づくりができているのではないかと分析していた。
それと改めて確認できたのは、大陸馬との馬力の違いだ。先住民と共に渡ってきた馬が特に素晴らしく、疲れ知らずの大きな馬が今回は大活躍したそうだ。カグマン王国が北征したのは馬を求めたからだとする説もあるくらい、カイドル産の馬は優れているということだ。
その後、秋までにさらに一万人の移民がオーヒンの港に来島したけど、すでに皇軍による統治が行き届いていたので、混乱することなくスムーズに仕事に就かせることができた。就職できる環境があるということ自体が、彼らにとっては偉大なる一歩なのた。
ミルヴァとデモン・アクアリオスは冬になっても島に帰ってこなかった。こうなると翌年の春までは戻らないことが決定的だ。それでも、この二人のフィクサーが不在でも行政が上手く回るところが両者の政治手腕の優れた点だろう。
ただし、デモンの方に関しては帰島しない理由がカラス部隊の報告によって判明していた。一緒に大陸に渡った夫人が妊娠していたらしく、それで滞在予定を大幅に延ばさなければならなくなったそうだ。
六年目の春を、いつもと同じようにオーヒン町を一望できる丘の上でビーナと一緒に迎えたけど、すべてが順調に思えた都市計画が、ビーナからの報告によって、思わぬところから不穏な空気を感じることとなった。
「オルバ・フェニックスが死んだって」
オルバ王といえば、まだ四十歳にも満たない若い王様だ。近親者と結婚したばかりで、王宮で幸せそうに暮らしているという報告を受けていた。健康に不安がないと聞いていたのでビックリだ。
「しかも、どうやら暗殺されたらしいよ」




