22.
……ひどく、なつかしい夢を、俯瞰していた。
どこにも指がかけられないほどに凹凸のない、無菌処理をほどこした真っ白な部屋。
そこにうずくまる、銀髪の少年は、いまだに何の名も持たず、何者でもなかった。
『シルバー・ユニバース』という個体名は存在していたが、人格形成が未熟な彼にそれを認知するすべはない。
「無意味だな」
と、彼を確保した男は言った。
顔を上げると、男も少年に目を合わせて言った。
「この部屋がよ。その気になれば貴様はどこに行ける。何者にもなれるにも関わらず、ここにいる。役目の上で政府は貴様を確保したが、そうして捕らえたつもりでいる貴様をどう扱っていいか分からず持て余している。懐柔も処分もできずにいる」
「あんたは……?」
「司馬大悟、というのが今の俺を表す名だ。貴様と同様だ。時州瑠衣の対抗馬として『喚んで』おきながら、どう扱って良いか分からず外のじゃじゃ馬の話相手でしかない」
男の言い方はひどく迂遠で、かつ毒を含んだ不遜なものだった。だが、不思議と不快にはなれなかった。
そこに多くの出会った人間が見せてきた恐怖や敬遠、嫌悪の色というものがなかったからだ。
「ずいぶんな言い草ね。でも近いうちにそんな減らず口を叩くヒマもなくなりますよ」
その時、白亜の部屋のドアが開いた。色が差し込み、もうひとりが靴音を鳴らして入ってきた。
うずくまる少年にしっかりと目線を合わせて、ゆったりと、しかし確たる口調で、長髪の女性は言った。
「『銀の星夜会』でも、『吉良会』でもないのか。どこの組織だ」
「我々にまだ名はありませんが、その役割は決めています。『吉良会』や百地一族の取りこぼした命を救い、目こぼしした悪を裁く。そのために夜を駆ける猟犬」
「……それで、自分は、こぼれ落ちた生命ですか? それとも、裁くべき悪ですか?」
「それを決めるのは他人でも、組織でもないわ。他ならない、あなた自身が選ぶこと」
でも、と彼女は付け加えた。
「もし貴方が大地に根をはる一個の生命たらんとするならば、我々が貴方を受け入れる。その時は、我々が家であり、家族です」
音もなく差し出された白い手を、無名の少年は掴みかえす。
ほぼ無意識ではあったが、それが彼が初めて下した決断だった。
ーー積み重ねてきたことが、俺の全てだ。
回顧を見つめながら、錫日照慈の意識は、ゆっくり現実へと向けて浮上していった。
『ヤクト・ハウンド』第四班長錫日照慈は、休暇明けに出仕した。
都内のビジネス街に設けられた分屯地にやってきた彼がIDカードを入り口に提示すると、何ら問題なく入ることを許可された。
――今回の件、公人の俺としては不問ということか。
そもそも、自分に処分をくだせば内外に『シルバー・ユニバース』と錫日照慈が同一個体であることを認めることとなるから、お上としても手が出しにくいのだろうが。むろん、それを見越したうえで総領たる早瀬須雲と副長の司馬大悟の根回しがあったのだろうが、それでも彼女らには何らかの形で代わって処罰が言い渡されるおそれはあった。
――けっきょく大事になって、早瀬班長たちには迷惑をかけてしまったな。
いっそ切り捨ててくれたほうが好都合だったのだが、一時的に意識を喪ったあと、気が付けば施設の病院だった。名目上は「エレクトラムを名乗る怪人が襲撃した『泰山連衡』のホテルから逃げ出した、『聖女』のクローンのひとりを確保した」ということになっていたようだが、すぐに司馬大悟が生き証人として回収というのを大義名分に、迎えにやってきてくれた。
いわくありげな笑みを浮かべて皮肉をさんざん言われたから、助けてくれたこと自体には素直に礼を述べる気にはならなかった。
それでも、彼が須雲の感情を押しとどめさせたであろうことは想像にかたくない。
さまざまな思索や後ろめたさを、不愛想な官僚の顔の裏に隠しながら、彼はドアをくぐった。
「おはよう」
とあいさつをしたが、返事はなかった。というよりも、人の気配が普段より希薄だった。
せいぜい、斎藤がキャスターつきのイスを並べて、その上で死んだように寝ているだけだ。
人の侵入した気配に気が付いたのか、斎藤は唸り声とともに、ひっかけた毛布を持ち上げた。
美青年と呼ぶにふさわしい相貌と、伸びかけたヒゲが、実にミスマッチだった。
「あぁ、はよーざす」
だらしなく返事をした彼を、咎める気にはなれなかった。昨夜非番だった彼が、この明け方まで忙殺されていたことぐらい予想がつく。
「……どうかしたか?」
それでもあえて彼の口から聞くのが義務なので、照慈は尋ねた。
キャリキャリと、まるで平坦な重戦車のように、寝ながらイスごと移動しながら、斎藤は照慈を見上げた。
「聞いてないんスか? チャイニーズマフィアどもがなんか例の銀髪ちゃんとドンパチやらかしたみたいで、今の今まで引き継ぎなしで検証と事後処理に駆り出されてたんスよ」
「…………すまん」
「? なんでボスが謝るんです?」
「ともかく、ご苦労だったな。これは土産だ」
照慈は斎藤の手が届く範囲に缶コーヒーと茶菓子のケースを置いた。
体を持ち上げた部下は、そのパッケージを見て首をひねる。
「……なんで『ひよこ』?」
「福岡の名産だ」
「なるほど班長は九州へ……って思いっきり東京土産っすよコレ。里帰りするときオレが実家に持ってくヤツベスト5ぐらいに入りますよ」
と、斎藤は怪訝な顔つきで睨んだが、寝不足で頭がはたらかないらしい。それ以上は追及したりはせず、包みと箱をやぶくようにして『ひよこ』を手づかみ、もしゃもしゃと食べて糖分を補給していく。
「どうです? 休暇、楽しかったスか?」
その行為と並行して、斎藤は照慈に尋ねた。
対する班長は多くは答えない。ただ、彼の脳裏には銀髪の少女が浮かび上がった。
自分と似たような顔で、おにぎり相手に苦闘する姿。憎悪し、嫌悪する表情。彼女の中でなにかが壊れたかのような、咆哮じみた慟哭。その後、自身をかばった照慈に対する、あっけにとられて見開いた深紅の目。そして、伸ばされた手。
それらすべての事象を包括し、内なる少年は、
「無意味では、なかった」
とだけ返した。
そうですか、という生返事とともに斎藤は頬に詰め込んだ菓子をコーヒーで押し込み、それから小さく声を漏らした。
「そうそう、言い忘れてました」
そんな言葉とともに、彼はみじかい言葉を放った。
それはなんてことのない、ごくありふれたあいさつだった。だが照慈は一瞬、硬直し彼がそう言った意図をさぐった。だが、すぐにその理由を自分のなかに見出して、そして静かに納得した。
一拍子おいて、彼はそれと対となる返事をしたのだった。
その日の昼前には、本部の方に出向くことができた。
定期的な清掃が行き届いた廊下を官僚の姿で歩き、総合執務室をノックする。
中から「どうぞ」という許可をもらったあと、ドアを開ける。
締め切られた部屋からかすかに漏れる、陽のあたたかな光に、それによって浮き彫りになった、いつもと変わらぬ彼女の仕事姿に、彼は安堵の息を漏らした。
部屋に入って扉を閉めたときには、照慈は銀髪の少年に戻っていた。
「錫日照慈、本日より復帰いたしました。それと、色々とご迷惑をおかけし、申し訳ありません」
外見不相応に折り目正しく頭を下げる美少年に一瞥をくれた後、部屋の主人はまた書類に目を戻した。
「礼と詫びならば司馬大悟に言いなさい。混乱する現場で、どさくさにまぎれて貴方の『伯父貴』と接触して貴方を回収したのは、あの男なのだから」
「やはり、そうでしたか」
「私には自制を強いておきながら、ずるい男」
物憂げに、そしてため息交じりに、彼女……『ヤクト・ハウンド』第一班長早瀬須雲は頬杖をついた。
「ああいう平気な顔しておいて裏で動きまくるところ、最近似てきたんじゃないの」
「……あまり、嬉しくはありません」
玲人は頬杖とは逆の手の指を、照慈のかたわらにあるその『ずるい男』のデスクに示した。
「それ、あいつからの宿題よ。緊急出動した第五班のしわ寄せ分、第四班に任せるって」
「……そういうところがあるから、似ていると言われてうれしくもなければ、感謝も言いにくい」
「気持ちはわかる。だけどもう少し時間を置いてからでもいいから、言っておきなさい」
少年の両手で余るほどの書類の束を横目でにらみながら、照慈は重い溜息をついた。
その彼の前で、
「もう、帰ってこないとも思った」
と、須雲はこぼした。
ハッとする銀髪の少年は、彼女の伏せがちの長いまつげと、強張った手の表情から、おのれに対する咎めと安堵とを読み取った。
「帰ってきますよ。あなたがたが受け入れてくれるかぎり、ここが俺の居場所ですから」
青い目を細め、口許をほころばせ、少年は首を振った。
それは、長いようで短い旅路だった。
深いようで浅い煩悶だった。
答えは、最初からおのれの内に、その起源にあった。青い鳥のように。
「そして、俺も誰かにとっての居場所でありたい。寄る辺のなかった鐘山銀夜のような人間を俺が受け入れるために。彼女の激情が生み出した因果と負債を、俺で断ち切るために」
そう、とそっけなく須雲は返す。
ただし、ありったけの慈しみを細めた両目に込めて。
「復帰を許可します。以後、その正義に従って行動するように」
「感謝します」
お互いに通過儀礼的に言葉を交わしたあと、
「それと」
少年はようやく年相応の、あどけない笑みを、大切な人へと向けた。
「ただいま」
「お帰りなさい」




