10.
『青雲閣』は、この一帯では随一の敷地面積と高度と人気をほこるホテルだ。
極上の国際色豊かな料理と、一生をそこで暮らせるような高級設備の数々は、そのぶん値は張るが、文字通り宿泊客を天上の彼方の至福へと導くだろう。
ただそれは、あくまで、表向きはだが。
それを引っぺがして叩いてみれば密輸品、密入国者、政治犯の隠れ蓑であり、国内でも最大のブラックマーケットでもあるという、『泰山連衡』の収入源だ。
警察も公安もその事実を知りながらも手が出せないのは、対外的な要素に起因するものだが、何より下手を打てば何をしでかすかわからない、曹鳳象の常軌を逸した行動理念と、一個師団にさえ匹敵するという彼らの武力、無数に張り巡らせた犯罪者ネットワークを警戒してのことだった。
彼らがその気になれば、いかなる政府高官の暗殺も、経済封鎖も、首都を火の海にかえるテロ活動も可能となるだろう。
無論、総力をあげて制圧に乗り出せば殲滅も不可能ではないが、その結果が灰塵と化して首都機能を失った東京と諸外国からの忌避というのでは割に合わない。
ーー『エレクトラム』を素直にここに連れてきたのは早計だったか?
『シルバー・ミスティ』らを追跡するかたちで、裏口から侵入した照慈の顔からは、すでに笑みは消えている。不気味なほどに静まり返った、無人の悪の宮殿。そのロビーを物おじせず先行する『エレクトラム』の背を目と足で追っていく。
ただこの激情の『聖女』を放置すれば無用な被害が出るのは明白で、その被害に彼女自身が含まれているのが容易に想像がつく。自分が情報をもたらさずともいずれはここに行き着いて、多くを巻き込んで破滅していただろう。
それに、今はおとなしくしているこの強敵の今の戦力を、見ておきたかったのもたしかにある。
何度か彼らと対峙したおぼえはあるが、根幹に触れるような決闘には程遠かった。
――そもそも、先日奴らがどこぞの組織から奪取した積み荷。あれだけは、奪わせるわけにはいかない。
先行する銀髪の乙女に、
「わかっていると思うが」
と断りを入れてから忠告する。
「あくまで目的は『シルバー・ミスティ』とヤツが奪ったブツの確保だ。彼女をふくめ、誰も殺すな。この組織とことを構えるのは、得策じゃない」
「ずいぶん甘いことを言う……それに、奴らがそんな生やさしい状況を作ってくれるとは、思えんがな」
『エレクトラム』がそうつぶやいた矢先、肌で異変を察知した。
いや、その違和感にはもっとはやく気が付くべきであって、『エレクトラム』はすでに立ち止まって刀に手をかけ、周囲を警戒していた。
予約が一年先まで取れないとウワサされるホテルのホールは今、無人の静寂につつまれていた。
照明は落とされ、夕方の差し込むばかりで周囲はほの暗く、洋の東西を問わずかき集められた豪奢な調度品に、ぶきみな影を落としていた。
「空城の計、というわけか」
「いや、そうでもないさ。空城の計とはそれすなわち、城内に居もしない兵を演出してみせることであり、対して今、我が城には最強戦力がいる」
薄闇のなか、彼らの浮かび上がった、強烈な気配がふたつ。
それに反応した『エレクトラム』が重くつぶやき、存在の片割れが答えを返した。
「……やはり、こちらの奇襲は露見していたようだな」
妙に得心の入った表情でうなずく『エレクトラム』に、
「……『やはり』っていうのは?」
と怪訝な顔で照慈は返した。
「あぁ。監視中何度もそこの女と目が合ったからな」
「…………いや、先に言えよ」
気を取り直して、彼は下りてきた声の主を探す。
吹き抜けとなっているロビーを抜け、三フロア目。その欄干によりかかるようにした銀髪の女と、その脇で後ろ手を組んで直立する白いチャイナ服の男がいた。
「曹鳳象と『シルバー・ミスティ』だな」
緊張と夕闇のなかでも一目でわかる異装のふたりを、照慈はあえて名を呼んでたしかめる。
貴婦人ふうの銀髪の女は、心外そう眉を吊り上げた。
「あら、いまの私は『聖女』、という名で呼んでくださいます? もしくはかなや」
「黙れ。悪人に媚びる女に、その名も容姿も、持つ資格などあるわけがない」
似た顔を持つ女同士のいさかいに、今度は頭上の男が不服げに口を挟む。
「また直裁的な物言いだ。せめて闇に生きる大侠者、とでも呼んでもらいたいな」
「笑わせるな。どれほど言いつくろおうと、お前はただの侵略者だ」
応じたのは錫日照慈だった。
男たちの言葉と女たちの応酬が錯綜する中、曹鳳象は肩をそびやかして、
「侵略、ね」
と嗤った。
「知っているか。この人工島一帯、合法非合法問わず、土地所有者の五割は海外資本だ。首都と目と鼻の先にある港湾部がだぞ。首都にしたって似たようなものだろう。海外進出の結果、空洞化した日本の不動産や森林を、海外企業が取り放題だし、その多くは地籍調査がままならない体たらくだ。そんな有様にも関わらず、我々のもとで下働きをする日本人に、母国語以外のコミュニケーションをとれる者たちがどれほどいると思う? 海外のアーティストや歌手の片言の日本語でのあいさつを嗤う日本人が、逆に彼らの言葉で会話できたというためしはほとんど聞かない。……目に見える悪意を侵略と非難する前に、おのれらが解決しなければならない問題が山積しているのではないかね?」
本邦人よりも訛りもなく、流ちょうな日本語で饒舌をふるう男を、
「詭弁を言うな」
と照慈はひくく一喝した。
「べつに俺たちは純日本人ではない。お前に世論調査をしにきたわけでもなければ、政治討論をする気もない。お前が不法入国のあげくに、犯罪でもって不当な利権を手にし、外法から生まれたイレギュラーな存在を使って非合法なものを売買しているからこそ、ここで対峙している」
「頑迷な少年だね。……まるで、官憲のような口ぶりでもあるが……君は何者だろうな」
遠目でもわかるほどに伝わってくる、異様な色を放つ曹の眼光。
まるでこちらの素性が看破されそうな心地がして、一瞬照慈は顔を伏せそうになった。
だが、それをねらったような相手の思惑に乗りたくなくて、逆ににらみ返す。
「だがその美しい目は、嫌いでない」
と男は臆面もなく素直にそう褒め、手すりから後ずさりして距離をとった。
「ただ、ここには荷の積みかえ作業に立ち寄っただけでね。君らをゆっくりと歓待はできそうにもない」
後ろ手を解いて片手を挙げると、隣の女が微笑を浮かべて、優雅ささえともなった足取りで、奥の廊下へ姿を消した。
「逃がすかッ!」
怒号をはなってそれを追う『エレクトラム』は、呼び止める間もなく姿を夕闇に沈めて消えた。
「……どう見ても誘いだろうがッ」
と、彼女を追おうとした照慈の前に、一塊の風圧が落ちてきた。
その中心にいたのは、三階に立っていたはずの曹鳳象だった。
彼は、特殊な能力を使用したわけでもなければ、ジェットパックやワイヤーのような道具を持っていたわけではなかった。ただあったのは、彼自身の肉体と積み重ねてきた技術。
それらをもって、地上十数メートルの地点から一気に飛び立ち、二階を手すりを足場に一度衝撃を分散させ、その後一階の硬い地面に音もなく降り立ったのだ。
床につけた片手には、彼の半生を物語る古傷のみで、あたらしい裂傷や骨折は見受けられない。
それを持ち上げ、乱れた前髪や服のすそをととのえ、チリを払い、そして悠然と彼は微笑した。
「……時間がなかったんじゃ、ないのか?」
動揺の息遣いを気取られないよう、ため息まじりに問う少年に、闇の武王は答えた。
「なに、すぐに済むさ。彼女らも、我々もな」




