第33話 「届いた声と、抱きしめた温もり」
第33話 「届いた声と、抱きしめた温もり」
数日後の午後。
灯台荘の玄関に、控えめなノックの音が響いた。海人がドアを開けると、そこに立っていたのは、三十代半ばの女性だった。
柔らかなベージュのコートを着て、手に小さな紙袋を抱えている。
目元に、悠真とよく似た、穏やかで少し寂しげな影があった。「……美咲さんですね。」
海人が静かに微笑んだ。美咲は小さく頷き、息を詰めたまま中を覗き込んだ。
「兄が……ここにいるって、本当ですか?」海人は静かに頷き、奥の台所の方を指した。
「今、刷毛を洗っています。
……ゆっくり、行ってあげてください。」美咲の足が、わずかに震えていた。
十年以上、消息を絶っていた兄。
施設から出て、ようやく辿り着いたというこの場所。
胸の奥で、幼い頃の記憶が波のように押し寄せてきた。
悠真は台所の流し台で、刷毛を丁寧に洗っていた。
白いペンキが指先に残り、ゆっくりと水に溶けていく。
あかりが隣で「もっときれいにお洗いしてね」と小さな声で言っていた。そのとき、背後に気配を感じた。悠真がゆっくり振り向くと——美咲が、そこに立っていた。一瞬、時間が止まった。
悠真の目が大きく見開かれ、手に持っていた刷毛が、ゆっくりと床に落ちた。
水音が、静かな台所に響く。「……美咲……?」声は掠れ、ほとんど息のような音だった。
でも、それは確かに、妹の名前だった。美咲の目から、涙が一気に溢れ出した。
十年分の、言葉にできなかった想いが、堰を切ったように零れ落ちる。「お兄ちゃん……!」美咲は駆け寄り、悠真の胸に飛び込んだ。
悠真の体が、びくりと震えた。
十年間、誰にも触れられなかった体が、突然の温もりに戸惑う。
でも、次の瞬間——悠真の腕が、ゆっくりと美咲の背中に回った。
ぎこちなく、震えながらも、確かに。「……ごめん……ずっと、黙ってて……」
悠真の声が、喉の奥から絞り出される。
涙が、美咲の髪に落ちた。
熱い。
十年ぶりの、妹の体温が、悠真の胸の奥に灯りを灯すように広がっていく。美咲は兄の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
「生きててくれて……ありがとう……
お兄ちゃんが、灯台荘にいるって聞いたとき……
もう、会えないと思ってた……」悠真の指が、美咲の背中を、ぎこちなく何度も撫でた。
言葉にならない嗚咽が、二人の間に響く。
あかりが少し離れたところで、じっと見守っていた。
小さな手で、自分の目をごしごしと擦りながら。
海人は少し離れた廊下から、静かにその光景を見ていた。
澪がそっと隣に寄り、涙を浮かべて微笑んだ。
「やっと……届きましたね。」海人は頷き、胸の奥が熱くなるのを感じた。夕方、岩場に皆が集まったときも、悠真と美咲は少し離れた場所で並んで座っていた。
美咲が持ってきた手作りのクッキーを、あかりが嬉しそうに頰張っている。悠真はまだ言葉少なだったが、時折、美咲の方に視線を向け、
小さく、けれど確かに微笑むようになっていた。海人は皆を見回し、穏やかな声で言った。
「今日は、一つの光が、もう一つの光と重なった日だ。
再会は、痛みを伴うこともある。
でも、その痛みの向こうに、確かに温もりがある。」夜。
灯台の最上部で、海人は遥に語りかけた。(遥……
今日、悠真の胸に、十年ぶりの温もりが戻ってきた。
震える腕で抱きしめた妹の背中が、
きっと彼の胸の灯りを、強く強く燃やしてくれる。
ここは、そんな場所なんだな。
失われたものを、ゆっくり取り戻す……
君が残してくれた灯台は、今も、確かに誰かを照らしている。 )風が、優しく二人の頰を撫で、星空の下で静かに灯りを守り続けた。
(第33話 完)
灯台の光は、ますます優しく強く、広がっていきますね。
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