第31話 「白い刷毛と、届かない声」
第31話 「白い刷毛と、届かない声」
翌朝も、灯台荘は穏やかな喧騒に包まれていた。悠真は台所の隅で、昨日と同じ椅子に座っていた。
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ただし今日は、手に刷毛を持っている。
昨日の塗装の続きを、朝のうちに一人で続けたいと言ったのだ。
海人は黙って頷き、代わりに温かいお茶を淹れて置いていった。外壁の白いペンキは、潮風で少しずつ剝がれかけていた。
悠真はゆっくりと刷毛を動かす。
一筆、一筆。
十年間、ほとんど何も握らなかった手が、かすかに震えながらも、確かに壁に触れている。あかりが、いつものように小さな刷毛を持って寄ってきた。
「おじちゃん、一緒に塗ろう?」悠真は言葉を返す代わりに、軽く頷いた。
二人は並んで、下の方の壁を塗り始めた。
あかりの刷毛ははみ出しまくり、悠真の刷毛はまだぎこちない。
でも、二人の影が朝の陽に長く伸びて、重なり合っていた。
午前十時過ぎ。
澪は二階の自分の部屋で、昨日届いた手紙をもう一度読んでいた。
翔太の笑顔の写真を、胸のポケットにそっとしまった。そこへ、響子がノックもせずに顔を出した。
「澪さん、ちょっと来て。海人がみんなに話があるって。」集まった二十三人の前に、海人が立っていた。
手に、一通の新しい封筒を持っている。「今朝、郵便受けにあった。
差出人は……悠真さんの、妹さんだそうです。」悠真の肩が、ぴくりと動いた。海人は封筒を悠真に差し出した。
悠真はしばらくそれを見つめ、震える指で封を切った。中には短い手紙と、一枚の古い写真。
写真には、幼い悠真と、少し年上の女の子が灯台の模型の前で笑っている姿があった。
お兄ちゃんへ突然でごめんなさい。
お兄ちゃんがあの施設を出たって聞いて、ずっと連絡できずにいたけど……
やっと勇気が出ました。私、今、遠い街で保育士をしています。
あかりちゃんっていう子がいて、毎日「おじちゃんに会いたい」って言ってるの。
……あかり、って名前、覚えてる?お兄ちゃんが灯台荘にいるって聞いたら、
どうしても手紙を書きたくなった。
もしよかったら、返事なんて無理でもいいから、
ただ「生きてるよ」って、いつか教えてほしい。ずっと、待ってるね。——美咲より悠真の目から、一筋の涙が落ちた。
それは、声にならない嗚咽とともに、ゆっくりと零れ落ちた。海人は静かに言った。
「返事は、急がなくていい。
でも、刷毛を動かした手で、いつか書ける日が来るかもしれない。」
午後。
悠真は外壁の塗装を続けながら、時折、手紙の封筒をポケットから出しては眺めていた。
あかりが隣で「悠真おじちゃんの妹さん、来るの?」と聞いてきた。悠真は初めて、掠れた声で答えた。「……わからない。でも……
いつか、会いたいかもな。」その言葉は小さかったけれど、灯台のてっぺんで回る光のように、確かにそこにあった。夕暮れ。
岩場で皆が輪になると、奏がギターを、響子がバイオリンを静かに奏で始めた。
今日はいつものハーブティーではなく、澪が淹れた温かいココアだった。海人は空を見上げ、遥に語りかけた。(遥……
また一つ、届いた声があった。
刷毛はまだ震えてるけど、確かに動いている。
手紙はまだ、返せていないけど……
ここは、そういう場所なんだな。
「ただいま」を重ねて、いつか「行ってきます」と言える場所に、
少しずつ変わっていく。)夜風が、皆の頰を優しく撫でた。
(第31話 完)




