09
これは橋なのだろうか、と一刻はまじまじと足元を見た。白い面があるのみで、道が先々まで続いている。
「いーちゃん。橋はないのだよ。さあ、ここが我が宮殿さ」ティナが言うなり、目の前に白く聳え立つ巨塔が出現した。
「さあ、行きましょう」ホーラは言い、ティナの後についてく。
ここに来て最も不可解な現象に出会ったと浜北は溜息を付き、渋々と建物に入っていく。一刻は耳元で何かが囁くのを聞いていた。「クラちゃん?」一刻は呟いてあたりを見回した。光がないというこの白い世界にクラちゃんの姿はなかった。しかし、しっかりと声が聞こえる。
「「行くのは自由だけれど、後悔をしてはいけないよ」」
一刻はしっかりと頷いて建物に向かっていく。
ティナが住んでいたという塔は、中に入った瞬間から一刻の感覚を混乱させた。建物の中に入ったつもりが、そこにはまっさらな白い空間が広がっているだけなのだ。一〇メートルほど先にぽつねんと浜北が立っているが、それ以外には何もない。
「浜北さん。ティナたちは?」一刻は浜北に話しかけた。
「いないんだよ。ここに入った瞬間にどこかへ行っちゃったみたいで。困ったな」
あたりを見回しても、白く広い空間が広がっているだけでティナたちの姿はどこにもない。ふと床が盛り上がり、長方形のテーブルが現われた。椅子も四つ、いや五つモコモコと形を成していく。
そこへティナとホーラが突如座った姿勢で出現した。また、ハイバックの玉座のような椅子にある人物が座っている。
「長旅ご苦労であったね、時枝一刻君、浜北和哉君。まあ、かけたまえよ。娘のティナから大よその事情は聞いたぞ。記憶をなくしたそうだね。私はこの時空で王位についているレックスだ」
浜北は出現した椅子に腰掛けたが、一刻は呆然と立ち尽くしてその場を動けずにいた。目の前にいる人物は時枝整司にそっくりであった。ほぼ一緒といってもいいかもしれない。色がない世界だからことさらそう見えた。今ではティナも根駒妙と見分けがつかない。猫耳や尻尾があることが相違点だが、それにしても似ている。
そして問題だったのが、ティナのことを「娘」と言ったことだ。時枝整司には認知した子どもが三人いたが、そこに根駒妙は含まれていない。そして一刻は自分自身が整司の子であることにも気づいていた。つまり、一刻と妙は兄弟だったのだ。
「いーちゃん。いろいろと気づいてしまったようだね。私にはレノバティオという一つ違いの兄がいたのさ。いーちゃんにそっくりな兄がね。残念ながら時空戦争によって命を落としてしまったけれど、とても強く勇敢で尊敬のできる兄だった」珍しく真剣な表情でティナは言った。
「一刻君はあちらの時空で、ずいぶんと不遇な環境にあったようだね。真実とは時に残酷なものだ」
一刻は目をつむり、大きく息を吸った。目を開けたとき、そこには何の感情もなく、虚ろな視線があった。彼はすべてを受け入れ、動じずに虚勢を張った。そうやって生きてきたのだ。小さく「はい」と返事をした一刻。
「二年前、私は君を時人にした。それから君は時間ループをして記憶を引き継いだまま同じ一年を、世界が消滅しない時空を選択するまで続けなくてはならない。ただし、君は記憶を失った。何が起こったのか分かるかい?」レックスは優しく語り掛けたが、目は決して笑ってなどいなかった。一刻の非を問いているのだ。
「命を落としたのですね。だから記憶が引き継がれないままに次の年を迎えてしまった。時人としての能力も失ったため、再びこちらに参ったのです」一刻は頭を下げた。
「そうですか、とすんなり時人にするわけにはいかない。なあ、ティナ。彼は何故死んでしまったのだ。彼自身が覚えておらんのだから、お前の口から言ってやるのが筋なんじゃないのかな」レックスはティナにも険しい視線を向けた。
ティナは小さく縮こまり、両手を固く結んで俯いていた。やがてその口を開き言った。
「いーちゃんは、お母さんのことを調べていたのだよ。どんな人なのか、まだ生きているのか、とか。そしたら時枝家の秘密を知っちゃって、おじいちゃんの整司さんに刺客を向けられて、消されてしまったんだと思う。二年目の暮れは別行動でいーちゃんだけ逃亡していたから、生死については分からなかったのさ」
レックスは大きく溜息をついた。
「複雑な家庭環境じゃな。そちらの時空は世知辛い。私達の様に同じ年を繰り返し生きている種では過ちの起きた過去は避けることができる。これも運命のいたずらというやつのかな。だがな、一刻君。君は自分の置かれた境遇をよく理解し、命を危険に晒してはいけない。これはゆめゆめ忘れないで欲しい。私の子レノバティオにあまりにもそっくりだから、君を他人のように思えないのだ」レックスはいいながら片手に杯を出現させた。
「これを飲みなさい、一刻君。時の水といわれるものじゃよ」
一刻は杯を受け取り、一口で飲み干した。たちまち猫耳が生え、尻尾は小さく目立たないものが現われた。しかし、一刻の耳は小さくぺちゃりと折れていた。
「ぷぷ。スコティッシュフォールドみたいだ。似合ってますよ時枝さん」浜北は一刻の頭部を指さして笑った。一刻は指で耳をいじりながら苦笑いをして「困ったな」とぼやいた。
「では改めて、時枝一刻をこちらの特命大使に任命する。また、時人として生き、この世界を消滅の危機から救っていただきたい」
「拝命いたしました」一刻は膝をついて頭を下げた。
「ところで浜北君。君は二年前にはこちらに来なかったのだが、どうして今回は同行したのだ?」レックスの言葉に浜北は面くらい、「どうして?」と鸚鵡返しに言った。それに助け舟を出したのはティナだ。
「いーちゃんには友達が必要だと思ったからさ」
「はい、友人の浜北和哉と申します。お目にかかれて光栄です、レックス王」
浜北の「友人」という言葉にティナは満足そうに頷いた。
「そうか、あいわかった。では私は王としての任務があるゆえ、ここで失礼させてもらう。では頼んだぞ、ティナ、ホーラ、浜北君、そして一刻君」
そう言ってレックスは忽然とその場から姿を消した。
塔から出ると、浜北は気だるそうに肩を落としている。
「帰りも歩くんですよね」いかにもうんざりといった表情をしていた。流石の一刻も同じようにうなだれていた。
「いえ、一飛びですよ」ホーラがいうなり、空に黒色の影が飛来した。
「ギャーン」と天を劈くような雄たけびをあげ、白い世界と化した一面に異様な存在感を放つ黒色の麒麟が現われた。羽を持つ珍しい造形をした麒麟だった。
「あ、日本橋の中央柱の?」一刻は東京を出立したときのことを思い出していた。そういえば、この時間旅行はあの麒麟像からスタートしたのだ。
「私のペットなのだよ。三人の時人がいると、この麒麟が時空を跨いでくれるのさ。君らの時空までは三時間もあれば着くのさ。楽チンだろ」ブルブルと麒麟は鼻をならし、ティナに頬を擦り付けている。まるで幼女が怪獣に食べられているような絵に浜北は苦笑せずにはいられなかった。また、こんな便利な代物があるのなら最初から使って欲しかったと思わずにはいられない。
かくして一行は麒麟の背に乗り、東京に舞い戻った。麒麟に乗っているときは時が静止ししているようで、中央柱の本来の場所にその巨体が戻ったとき、時が動きだした。
車の走る騒音に排気ガスの臭い。足早に歩く人々。確かに東京の喧騒を感じ、浜北は「帰ってきたぞー」と拳を天に突き上げた。その様子に通行人は白い目を向けていたが、浜北もそして一刻もニコニコと笑いあい、二人で最寄のラーメン店に駆け込んだ。何より食べ物に飢えていたのだ。無人島から帰還したような心持で二人はラーメンを啜った。ティナとホーラは先に一刻のマンションへと帰っていた。
翌日四人が外務省の特殊領事館に登庁すると蔵持は目を丸くして四人の無事を労った。しかし、浜北の変わりように最初は誰なのか気づかず、「浜北です」と自ら名乗ってもしばらくは信じようとしない蔵持であった。それほど浜北は短期間で劇的に変化していたのだ。数日をかけ浜北は時間旅行のレポートを作成し、一刻とティナ、ホーラはこれからについて話し合った。蔵持や見来、伊井、江頭も時に話し合いの場に参加し、助言をした。地球が消滅する理由について考察をするところから始めたが、それにはやはり「時」が関係しているだろうという結論に達し、全員が納得した。星が一つ瞬間的に消えるなど、普通は考えられないことで、およそ現在の人類には想像もできない力が作用しているという結論に達したのだ。また、領事館を訪れる様々な宇宙人にもアドバイスを求めたが、彼らの知識を持ってしても具体的な原因と解決は導き出せなかった。
浜北は蔵持に二ヶ月半に渡る時間旅行の委細をレポートとして提出した。
「誰が空想小説を書けといった、浜北和哉」と言って、そのレポートを読み上げた蔵持は浜北を怒鳴りつけ、頭をはたいたが全く動じない彼の様子に蔵持は畏怖のような感覚を覚え、レポートの内容が真実であるのかと空怖ろしいものを感じたのだった。
その年は特に何の進展もなく終わった。それで良しとティナとホーラは考え、一刻も早急に解決できるとは思っていなかった。