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お疲れ様です。休憩のお供に。
「君はここに来て何年経ったかな?」
黄金色に揺れるハーブティーは異国の貴重なものらしく、独特の味がした。
普段、薬草を扱う薬師としては何が使われているのか気になるところだ。
舌でゆっくりと味わい、一つ一つ薬草を思い浮かべながら、その種類を予想する。
「そうですね……十歳からなので七年になりますでしょうか」
「君には感謝しているんだよ? 私がこんな風に過ごせているのは君のおかげだとね」
目の前の婚約者──マクスリー・ヒーラルトの感謝の言葉に思考が止まる。
驚いた。
いつもは横柄な態度の婚約者が今夜は殊勝な事を言っている。
今まで嘲ることはあっても感謝など一度もされたことはなかった。
明日は槍が降るのではないか。それほどに珍しい事だ。
魔力が体を巡る際、魔力回路にコブができ流れが滞り、やがて破裂して死に至る難病。
子供の頃、マクスリーはその病に罹患していた。
十歳の時、田舎の村の片隅で、母親の残したレシピと教えられた腕で薬草作りをしていた。
その中にその難病の薬があった。
噂を聞きつけたマクスリーの父、ヒーラルト伯爵は息子のために彼女を呼び寄せて、自宅の屋敷に彼女のために薬草室を作り、薬作りに必要な機材を揃えた。
それからは、毎日薬を飲み、今ではマクスリーは問題なく日々を過ごしている。
「それでね、父が君と勝手に結んだ婚約だけど、君と結婚はできないんだ」
「あ……そうなんですね」
「君は私を愛しているだろう? だけど、私にも色々あってさ。色々って言っても公爵令嬢から婚約の話が来ていて、受けようと思うんだけど、その条件が新しい薬のレシピなんだよ。でもさ、君、レシピ渡さないだろう? だから奪うことにしたんだ」
「それは……困りま……す」
今までもいくつかの薬のレシピを渡してきた。
そのレシピでヒーラルト伯爵家は大きな富と名声を得ている。
しかし、このレシピは亡き母やそのまた母、祖母が代々受け継いできた歴史の集大成なのだ。
家族の絆をそう簡単に渡すわけにはいかない。
それに──と考えるがグワングワンと頭痛がし、視界が揺れ、思考がまとまらない。
「うんうん。そう言うだろうと思ってね、一服盛らせて貰ったよ。大丈夫。流石に命の恩人を殺したりしないよ! これなーんだ?」
目を細めて揺れる視界の中マクスリーの持っているものを見る。
それは、少し前に依頼されて作った薬だ。辛い記憶を持つご婦人のためにと作った薬。記憶を消し去る薬だ。
用量により失う期間の長さが変わるが、その瓶の中身は一滴も残っていない。
「私の……記憶を?」
「そう。だって、これから新しい薬を発表していくんだ。君が覚えていたら困るだろう? 名乗り出られても困るし。薬は全てマクスリー・ヒーラルトの名で発表するんだから」
割れそうな頭の痛みに意識が飛びそうになる。
しかし、言わなければいけない。
「ぉか……さま、の、レ……ピは、しに……どく……ない。かえ……て」
「君の薬のレシピは私がヒーラルト伯爵家のために発表していくから安心してね。じゃあ、さようなら、私の元婚約者の──」
視界には嘲るように笑う婚約者の顔。
悔しさや悲しみがないまぜになる。だが意識を保っていられず、スゥッと暗闇の中に落ちた。
*****
ふっと目を覚ます。
頭が霞みがかったようにぼんやりとしている。
「あ、目が覚めた! 先生、患者さんが目を覚ましました!」
声のした方に目を向けると、栗色の髪の女性が立っていた。
「どれどれ。気分はどうだい? 名前は言えるかな?」
白髪混じりの髭を蓄えた医師が、メガネの奥からこちらを見ている。
「な……まえ……」
思い出そうとしたが、ズキっと頭に痛みが走り、呻く。
「あー、無理しなくていい。水を飲もう。さあ、ゆっくりこれを飲んで」
女性が背中を支えてくれ、ゆっくりと水を飲む。
乾いた体に染み込むように潤していく。ふ、と息が漏れた。
「ここはヴェルダン王国の辺境の村だ。私はハリル。ここいらで唯一の医者だ。彼女は看護師でフーリ。君は、この近くの村の入り口に倒れていたんだ。まだ少し熱があるね。解熱の薬を出しておこう」
「く……すり……」
薬と聞いて何かが引っかかるけれど、何なのかは分からない。
「まだ無理をしてはいけないよ。ゆっくり休みなさい」
フーリがゆっくりと寝かせてくれ、優しくあやすようにぽんぽんと叩いてくれる。
体力が戻っていないのか、瞼が落ちて再び眠りについた。
「エメル。今日も薬草を取ってきたの?」
外から戻り、フーリが声を掛けてくる。
エメルというのはこの地でもらった名前だ。
名付け親はハリル医師。
瞳の色がエメラルドと同じ色だからエメルと。
フーリが安直だと怒っていたけれど、エメルは気に入っている。
フーリはハリル医師の一人娘だ。
数日の入院で、体はすっかり回復した。しかし、記憶は一向に戻らず、どこの誰で、なぜ辺境の村で倒れていたのかも全く分からなかった。
「ええ、先生に確認してからになるけれど、多分これで食あたりの薬が作れると思うの」
「へぇ〜。何度も言うけどエメルは絶対薬師だったんだと思うわ。先生も腕がいいって言ってたもの」
村の周囲には森があり、薬草が豊富に生えていた。
なぜだか分からないが、何となくどれが薬草なのかが分かる。
都度、ハリル医師に確認してもらっているが、今のところ間違えたことはない。だが、薬草の名前は分からないのだから不思議だ。
「食あたりの薬か……いや、俺が知っている種類とは少し違うが。ふむ。効能はこちらの方がいいだろう。ピリン草とココ草は互いに作用を打ち消し合う。だから、調合にひと手間いるし、どうしても効能が低くなる。しかし、このトートンの根を入れることでそれを防ぐことができる。だが、トートンの根は相当な苦味があって薬は苦いもんだと言っても飲めたもんじゃねぇ。服用には向かないだろう?」
「はい。だけどトートンの根は火で炙ることで苦味が消えるんです。でも効能は変わらないから……」
スラスラと言葉が溢れる。
考えて答えたものではない。しかし薬草や薬作りに関してだけ、このように勝手に言葉がでてくるのだ。
「炙る? 焼くのではダメということか?」
「焼いてしまうと効能が消えます。軽く表面を炙るだけです」
「本当か? だったら他にもかなり応用できるぞ! トートンの根は使い所はたくさんあるのにこの強烈な苦味が弱点だったんだ。エメルは良い薬師だったんだな」
「そう……でしょうか?」
「益々記憶がないのが勿体無い」
「先生ぇ!」
ハリル医師の言葉にフーリが諌めるように声を上げる。
「あー、すまんすまん。あ、そうだ! この間、隣の村に薬を持って行っただろう? エメルが作った火傷の薬。あれがな、隣国──メリディア王国の商人の目に留まって仕入れたいと連絡が来ていた」
「私の作った、薬がですか?」
「ああ。酷い火傷でな、知り合いだし試しに使ってもらったらかなり効果があったらしい。興奮したように褒めていたぞ」
エメルは役に立てたことが嬉しくなる。
ハリル医師とフーリにはお世話になりっぱなしだ。
せめてものお返しに、と作った薬だが、それもハリル医師に指導してもらい確認をしてもらってようやく完成することができた。
それが役に立ったのだ。
「エメルの作った薬だから、エメルがどうするか決めなさい」
「え、でも。先生にお渡ししたものですし、先生の良いようにして頂いても……」
「ダメだ。エメルの知識も腕もエメルの財産だ。勝手に私たちがどうこうしていいものじゃないんだよ? トートンの根のことについても、だ。きちんと正しく取引しなければいけないよ」
諭すようにハリル医師が言った。そして、エメルの頭を優しく撫でる。
「不安であれば、私もいくらでも手伝おう」
「はい」
この村はヴェルダン王国の端。隣の村は隣国、メリディア王国だ。
長く戦争もしていないし、友好国なので国境間の行き来も厳しくはなく、ご近所さんとして長く付き合いがあった。
ハリル医師はこの辺りでただ一人の医師という事もあり、隣国の村々にも往診に行くことがあり、毎日のように国境を行ったり来たりしている。
聞けば、元々は隣国出身なのだという。
旅の医師だったハリル医師だが、亡くなった奥様に出会い、この村に腰を落ち着けたのだと言っていた。
「商会の連中も、私の昔からの知り合いだ。真面目な商いをしている奴らだからぼったくりなんかはしないだろう。交渉の時には私も立ち会おう」
「何から何まで、ありがとうございます」
「いやいや、エメルの薬でうちも助かってるし、これが広まればもっと助かる人が増える。良いことじゃねぇか」
「先生の仕事も少なくなると良いですね?」
「ばっ、おめぇ、処方も俺の仕事なんだよ!」
「でも病気が治れば処方もいりませんよね?」
「そうなると私の仕事も無くなりますね?」
「あ、それもそうだわ」
フーリの言葉に三人は笑った。
数日後、エメルはハリル医師と馬車で一時間ほどの少し大きな町に来ていた。
待ち合わせは、町にある小さなカフェだった。
このカフェも商会の経営らしい。
個室に通されてメニューを渡された。
ケーキと紅茶を注文する。
ハリル医師はパンケーキとコーヒー。
クリームのたっぷり乗ったパンケーキが出てきた。
ハリル医師は甘党らしい。
しばらくすると、若い男性が二人入ってきた。
一人はミルクティー色の髪に空色の瞳。着ているものは上質なもので、穏やかな笑みを湛え、見るからにやり手という男性。彼はセドリックと名乗った。
もう一人は、緑がかった茶髪に、湖面のような薄い青色の瞳。もっさりとした髪の毛が、目のすぐ上まで掛かっており、目の下まで影が落ちている。不潔とまではいかないが、洗練されたセドリックの隣にいるせいか野暮ったい印象を受ける。彼は名をキリクと名乗った。
セドリックが軽く商会のことを話してくれる。
オルフェン商会はメリディア王国で最も大きな商会であること。
王家との取引もあり、ヴェルダン王国にも支社がいくつもあること。
ハリル医師はセドリックのことを子供の頃から知っているらしい。
「先日、仕事中に火傷を負ったんですが、丁度ハリル医師がいると聞いて診てもらいましてね」
「お前が呼びつけたんじゃねぇか」
「処方頂いた火傷の軟膏を付けたら、ほら、この通り治りまして」
不満を言うハリル医師を無視してセドリックが腕の袖を捲ると、そこには何の傷も傷跡すらなかった。
「かなりひどい傷だったんですよ。傷跡が残るのも覚悟してました。ですが、この通り綺麗に治りました。今まで取り扱ったどんなものより質が良い。ですので、こちらをオルフェン商会で取り扱いできないかと思って連絡したんですよ」
エメルは少し考えて口を開く。
「火傷の薬をお渡しするのは問題ありません」
「そうですか! 良かったです! よろしければ他にも薬がありましたら見せて欲しいんですが」
そう問われ、どうすれば良いのか分からず、ハリル医師を見上げる。
他にも作ったものはいくつかある。だがまだ臨床試験を行っていないのだ。
成分に問題はない。
しかしハリル医師が知る一般的に作られる方法とは少し違うらしい。
もしもの事を考えて、安全がきちんと確認されてからと、二人で話し合って決めたのだ。
「もし、エメルが良ければエメルの事情を二人に話したいのだが、いいだろうか?」
ハリル医師が信頼する二人だ。
エメルは少し迷ってから頷いた。
ハリル医師はエメルと出会ってからのことを二人に話した。
薬草の知識はあるが、記憶がないのだと。
「なるほど。エメルさん、少し質問を宜しいですか?」
キリクの言葉に頷く。
「これからいくつかの単語を言いますので、分かる範囲で答えてください。まず一つ目、ティティル」
「胃薬や腹痛に用いる薬草?」
「マーギギー」
「湿布薬」
「イークチン」
「同じく湿布薬?」
「ドリースヴァルト」
「聞き覚えがありません」
「最後に、ヒーラルト」
「……聞き覚えが、ありません」
「分かりました。ありがとうございます」
「それで何か分かったのか?」
セドリックがキリクに聞く。
「はい。エメルさんの薬草の知識が的確であることが分かりました。記憶を失くされる前は薬師だったのだと思います。それも恐らくですがとても腕の良い薬師です」
「ふむ。キリクにそこまで言わせるほどか」
「はい。例の件、話してみてはいかがでしょうか?」
「そうだな」
エメルがハリル医師を見ると、ハリル医師も首を傾げた。
「オルフェン商会は今後薬師部門を大きくする予定でして、エメルさんにご協力頂けないかと思いまして。具体的にはキリクと組んで薬草や薬の研究をして頂きたいんです。もちろん、エメルさんの知識はエメルさんのものです。提供頂いた時も、利益が出た場合も報酬をお支払いします。オルフェン商会は顧客同様、従業員も大切にしますからね」
ヴェルダン王国が最近薬学で目覚ましい成果を上げていることに対し、メリディア王国側も薬学に力を入れようとなったらしい。
国の方針を受けてオルフェン商会も薬学部門を大きくする。キリクは暫定の責任者になっているそうだ。
「キリクがオルフェン商会で一番薬学に明るい。だから、キリクを所長にしようと思っていてね」
「いいえ。もしエメルさんが了承してくれるなら、俺はエメルさんの補佐になりましょう」
「いいのか?」
「知識量は恐らくエメルさんの方が上でしょう。だから、エメルさんの記憶の補完を俺がするのが一番良い。なんならエメルさんのブランドを立ち上げるのも手ではないかと思います」
あまりにも大きな話にエメルもハリル医師もセドリックすら言葉を無くす。
「そこまでか?」
「はい。エメルさんがいればメリディア王国の薬学が何十年分と進歩します。絶対です。エメルさんを国を上げて守る必要があります。なので、我が国でエメルさんのブランドを大々的に発表した方がいい」
セドリックとキリクが真剣な顔で向かい合う。
「分かった。エメルさん」
納得した後、セドリックはこちらに顔を向けた。
ハリル医師も腕を組んで考え込んでいる。
「キリクはこんな形ですが、薬学に関しては真面目な男です。そのキリクがここまで言うということはエメルさんの知識量には相当な価値があるのだと思います。人々を病気から救うためにも、エメルさんの身を守るためにも、オルフェン商会を使って頂けませんか?」
「えっと……」
「エメル」
ハリル医師の真剣な声に振り向く。
「俺もキリクの言葉は大袈裟ではないと思う。恐らくだがな、エメルの薬師の力は知識量だけではない。エメルの魔力は薬師と相性がいいんだろう。いや、逆か。薬師のための魔力なんだろう。同じ作り方でもエメルの作ったものの方が効果が高い。同じように作ったとしても、セドリックのあの火傷を跡もなく治すなんて他の薬師には不可能だ。作り方ではなく作り手なんだよ」
ハリル医師はニカッと笑う。
「どうせ薬作りでこき使われるならオルフェン商会にしとけ。やった分だけ報酬を貰えるし、守ってくれる。ああ見えてセドリックはメリディア王国王太子と友人だ。きっと大丈夫だから」
「ああ見えて、は余計だと思う」
「セド、お前もさっき俺のことをこう見えてって言っていただろう。忘れたとは言わせない」
「えぇ、そんなこと言ったー?」
「言った」
不満気なセドリックがキリクに文句を言われている。
王太子の名が出てきて、確かな人物なのだろうが、空の上の人に思えて少し構えてしまったが、文句を言い合うセドリックとキリクになんだか気が抜ける。
「決めるのはエメル自身だが、嫌になったらうちに帰って来ればいい。俺もフーリもずっとあの村に居る。実家だと思えばいい」
「まあ、すぐに答えなくてもいいし……」
「分かりました! やってみます!」
ハリル医師にここまで言ってもらったのだ、挑戦してみてもいいだろう。
そう思い、エメルは決断する。
「そうか! じゃあすぐに施設をこの町に作ろう」
「この町に?」
「ハリル医師のところに近い方が安心だろう? ここは治安も良いし、自警団もしっかりしてるからね」
「それに、薬草が自生する森が多くあるから薬草の調達もしやすいしね」
「じゃあ、急いで準備して迎えをやるから準備しといて、大体一週間もらえれば」
「え? 一週間?」
ハリル医師とフーリのいる村まで馬車で一時間。
都会というほどではないが少し大きい市場のある栄えてはいるが長閑な町だ。
新たに施設を作るとのことなので、時間がかかるのかと思えば一週間。早い。
こうしてとんとん拍子に話は進み、一週間後、本当に簡易的ではあるが施設が出来ていた。
聞けば、とりあえず既存の建物を改築したそうだ。話し合いの時点で念のためいくつかの候補地を決めていたらしい。
「だってあの薬を作る薬師だよ? ダイヤの原石だよ? そりゃ何よりも確保を優先するでしょ!」
そう言ってセドリックが綺麗にウインクをして見せる。
隣にはさらに大きな建物が建設中で、この建物が出来次第そちらに移るのだそうだ。
「エメルさん、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「あ、俺のことはキリクって呼び捨てで呼んでください。敬語も不要です」
「あ、じゃあ私も呼び捨て、敬語不要で」
「あ、じゃあ、俺もセドって呼んで!」
「じゃあエメル、中を案内するか」
「ちょっと!」
キリクに案内されながら、塗料の香りのする室内にエメルはワクワクしながら足を踏み入れた。
あっという間に日々は過ぎる。
薬師の仕事と同時に勉強も行っていた。
午前中に薬師の仕事をし、午後は勉強だ。
文字や算術、作法まで。
キリクと共に森に入り薬草のことを教えてもらう。
というか、薬草については一つ一つ確認する作業に近い。
キリクは公言したように、エメルの補佐に徹している。薬草のことを一から教え、差異があればきちんと説明してどこが既存の方法と違うか、そうすると効能にどう影響するのかなどを丁寧に教えてくれる。
必然的にキリクといる時間が長くなる。
足場が悪ければ自然と手を添えてくれ、支えてくれる。
必ず前を歩き、怪我をしないように木々を取り払ってくれる。
何よりもキリクの眼差しは最初から優しかった。
いくつかの薬を発表し、その薬が大勢の人を救ったことで、エメルはキリクと共に王宮に呼ばれたことがあった。
褒賞を授与されたのだ。
この時ほど、作法を習っておいて良かったと思った日はない。
ガチガチに緊張していたエメルをキリクがエスコートしてくれる。
キリクが隣にいることは、心強く、安心できる。
普段もっさりとした髪の毛を上げて後ろへ流し綺麗に整え、正装したキリクは、実は男爵家の人間と知って驚いた。
普段粗雑なキリクが正装をすると洗練された貴族の作法になるのだから驚きだ。
「ちょっと、人が違い過ぎない?」
「男爵家って言っても三男だし、俺堅苦しいの嫌いなんだよね。エメルだって今日は深窓の令嬢みたいだよ」
「似合ってないと思う」
「とんでもない! よく似合ってる。とても綺麗だ」
「あ……ありがとう」
「俺は、今の格好の方がいい?」
「え……どっちも、良いかな」
「そっか……」
二人して顔を赤くしていると、ちょうど現れたセドリックがニヤニヤした顔で見てくる。
「なあ、キリク。エメルを奪われないための手っ取り早い方法、知ってるよな?」
「ああ」
「うかうかしてると、俺が実行しちゃうよ〜」
「やめろ」
ニシシとセドリックが笑う。
エメルには何の話かは分からず、じっと二人を見つめる。
「さあ、キリク、エメル。出番だ」
キリクにエスコートされ、光溢れる中に一歩踏み出した。
それから、薬草の森にある花の咲き誇る中でキリクにプロポーズをされた。
年に一度だけ見られる一面が花で埋め尽くされる丘の上で、キリクと向き合う。
「エメル、君は強い。記憶を失い、大きな困難の中でも、前を向く強さ。人々を助けるためにひたむきに進める強さ。そんな君を支えることができて、俺は誇りに思っている。そして、これからもずっと隣で支えていきたい。エメル、俺と結婚してほしい」
記憶を失い、薬草のことも中途半端にしか分からなかった。
けれど、一つ一つ根気よくキリクは答え合わせをしてくれた。
たくさんのことを教えてくれた。
強いというのなら、その一端はキリクの存在があり、その存在はとても大きいものだ。
今のエメルがあるのはキリクの助けがあったからこそ。かけがえのない人。
エメルは小さく何度か頷いてから「はい」と答えた。
パァと破顔するキリクの嬉しそうな顔が好きだと思った。
いつだって、この笑顔がエメルの中に積もってきたのだ。何も無かった心に、優しく積み重なって。
抱きしめられたぬくもりに、エメルは幸せを感じていた。
キリクから親への挨拶としてハリル医師のところに行くことになり、
「うちの可愛い娘はやらん! 出直してこい」
と言われる。一度は突っぱねる、これが定番の流れらしい。
普段は温和で人の良さそうな顔をしているのに、キリッと眉を上げて険しい顔で腕を組んでいる。
その隣にはフーリが仁王立ちしていて、
「エメルは私にとって、妹みたいなものだから」
とエメルに囁いた。
キリクが三度お願いして、ようやくキリクとエメルは婚約者となった。
記憶は失っていたけれど、かけがえのないものがたくさん増えた。
ある日、いらしたお客様の忘れ物として一冊の手帳がエメルの手に残った。
「これは元々エメルのものだったんだ。記憶を失う前のものだね。亡きお母様が残したものだと聞いている。だから、これはエメルが持っていてあげてほしい」
「これが?」
キリクに渡されたそれは、使い古され膨らんだ古い手帳。
中の文字は、教師に少しだけ聞いた古代文字に似ている気がする。
でも、手にしっくり馴染み、とても懐かしい。
表紙を手で撫でる。
気付けば涙が頬を流れ落ちていた。
エメルはその手帳をそっと胸に抱いた。
──戻ってきた。
不思議とそう思った。
すでにこの手帳はエメルの宝物となっていた。
数年後、エメルは次々と薬や薬草の使い方を発表する。
それはたくさんの人々を怪我や病気から守り、命を救った。
エメルは新たに伯爵位を賜り、以降末永く薬学会に貢献する一族となった。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
第二話は、ざまぁ回、マクスリー視点をお送りする予定です。
お楽しみに。
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