第45話 はじめまして、旦那様
「モニカさん、準備はいいか」
私の献策を聞き入れてくれた伯爵が、最後の確認を取った。
準備と言われても、私自身にはなにも用意する物などない。
ここから先に持って行けるのは、ただ彼を信じるという、ちっぽけな勇気だけだ。
「はい。……行って参ります」
脚をすくませる恐怖はすべて置いていくつもりで、私はあの英雄のように微笑んで見せた。
口元を引き締めて頷いた伯爵は、高く杖を掲げ、飛行魔族と戦う兵たちに向けて命じた。
「その鳥を、こちらに向けて追い立てよ!」
同時に、私はその戦場に向けて、駆け出した。
伯爵の指示を受けた兵たちは、飛行魔族の進路を塞ぐように、連携して攻撃を畳み掛けた。
雷や雹など、もはや無秩序にばら撒かれているリュシオンの攻撃魔法も防ぎながら、なんとか飛行魔族を本陣側に向かせることに成功する。
こちらを向いた飛行魔族は、たったひとり、丸腰で荒れ地を駆ける私の姿を容易に発見した。
目が合うと、首籠をぶら下げた口からまた、どぱりと涎があふれた。
やはり私は、魔族にとって極上のご馳走らしい。
そんなご馳走が、護衛もなしにのこのこと戦場を彷徨いている。
主人である族長は、クライブとの戦いで手一杯だ。
“待て”の指示もない猛獣が、良い子で我慢できるはずもない。
飛行魔族は喉を鳴らして唸り声を上げ、真っ直ぐに私に向かって飛んできた。
踵を返したくなる衝動を抑えて、大丈夫、と何度も自分に言い聞かせる。心臓が口から飛び出しそうなほど暴れていた。
それでも足を止めず、私は進み続ける。
緊張で神経が高ぶっているせいか、まだ距離があるリュシオンの表情が、やけにはっきりと見えた。
焦ったような、絶望も含んだ表情。
もし声が出せるなら、きっと私を怒鳴りつけているだろう。そんな必死な表情だった。
飛行魔族の周囲では、炎や氷など、魔法の出来損ないが次々と現れては消えてを繰り返している。
私相手に発動しそうになる魔法を全力で抑え込んでいるようだ。
私は走り続けたまま、上がる呼吸を唾とともに飲み込んで、真正面から叫んだ。
「リュシオン! 私を攻撃して!!」
リュシオンが、はっと両目を見開く。
そしてしばし私を見つめた後、口角を上げた。
飛行魔族が、あっという間に私の目前に迫る。
巨大な翼の風圧で、私の足は簡単に止まった。
鋭い爪を掲げ、魔族は私を捕らえようとする。
獲物を見据え、接近する蛇の頭。
口から情けなくぶら下がる粗末な籠が、私の目の前に突き出される。
その中で首だけのリュシオンは、静かに目蓋を下ろした。
空気が震え、リュシオンを中心に熱が爆ぜる。
呪いの制限だろう、その渾身の爆炎魔法は、飛行魔族を傷付けることなく真正面、つまり私の居る方向へ集中して炸裂する。
暴れ狂う炎の腕が、リュシオンを首籠ごと包み、私の身体も抱き込もうとする。
その寸前で、私の視界の左端が眩しく輝いた。
まるで、世界そのものが止まってしまったように思えた。
絡みつこうとする炎も、爪を掲げた飛行魔族も、傾いたリュシオンの首籠も、彼本人の揺れる髪も。すべての動きが静止したかのようにゆっくりになっている。
晴れた日の、風のない空に浮かぶ雲のように、長い時間じっと眺めていなければ変化に気付けないであろう程のゆっくりとした動きだ。
この瞬間、“私に危害を加えようとしたもの”。
そのすべてに、耳飾りの時間遅延魔法が働いていた。
私は伯爵に尋ねた。
クライブも使えるはずの時間遅延魔法を、なぜ族長相手に使わないのか。
伯爵から返ってきた答えは、激しく動いている相手には効かないという遅延魔法の弱点。
しかし私は一度、身をもって体験し知っていた。
その弱点を、リュシオンが自作の魔道具では克服してしまっていたことを。
持ち主を絶対に守るという、彼の強い意思と執念で。
恐る恐る炎に触れてみたが、どういう仕組みなのか、私の手を焼くことはなかった。
ずっと触れているとじわじわ熱くなってくるので、“熱が伝わり、燃える”という現象そのものが遅くなっているのだろうか。
素人にはよくわからない。
「ごめんなさい。また、ご自分を焼かせてしまいましたね」
私は、リュシオンの首籠に両手を伸ばした。
もともと頑丈な造りではない籠だ。リュシオンの魔法により、燃えかけてボロボロに脆くなっていた。
私が少し力を込めるだけで、リュシオンを閉じ込めていた籠は呆気なく壊れた。破片はそのまま、水に浮かぶように近くを浮遊している。
邪魔な籠がなくなったので、私はリュシオンの首をそっと持ち上げた。
本来の重みは感じられず、なんの抵抗もなく私の両腕に収まる。
少し撫でてやると、髪の先で燻っていた火も簡単に消えた。
可視化された呪いのもやに覆われていてわかりづらかったが、リュシオンの顔は飛行魔族が垂らした涎でドロドロだった。
可哀想だがなんだか間抜けで可笑しくもあり、私はついにやけてしまいそうな頬をなんとか耐えながら、できるだけ手で拭ってやった。
昨日まであれほど、生首を見て怖くなってしまったらどうしようと不安だったのに、実際この状況になってみると、そんな恐怖は微塵も湧いてこない。
この腕の中に居るのは、ただの、私の大切な人だ。
「お会いできて、嬉しいです。……もう、離さないでくださいね」
自分の命も、大切なものも、何もかも。
私も目を閉じ、彼が幸せになるように心から祈りながら、その唇に口付けた。
冥婚の儀式の時にも感じた、淀んでいたなにかがすっきりと晴れたような感覚が、再び私の胸を満たした。




