2.一年生、秋(2)
いつまでも見ていてしまいそうだったのをこらえて、私は進み出た。自分の影を待合室の影に溶け込ませながらベンチに近づき、思い切って踏み出し、肩を何度か軽く叩いて、言う。
――ねえバス来たよ、っていうか、行っちゃうよ!
言い始めてすぐに、私は笑い始めていた。自分の演技が、あまりにも棒読みで下手すぎたから。振り向いた彼はきょとんとして、それからゆっくりと、穏やかに笑った。
――ええと……あのとき、なんて答えたんだっけ。
――あはは、私も覚えてないなぁ。久しぶりじゃん。
――うん。
彼は訳知り顔で笑いながら、頷く。つまり、私が再現しようとしたものを分かってくれたわけだ。
四か五ヶ月前(数字にすると、遙か昔みたいだ)の、私。彼は、帰りのバスに乗り込んだはずの私の知り合いの代わりにそこにいた。そして、大急ぎで声をかけ、肩まで叩いてしまった私に振り返った。
私はわけが分からず、さっきまでそこにいたはずの人が、突然別人と入れ替わってしまったようにすら思った。彼はそんな私を無表情に、しかしきょとんを私を見つめ、私が自分の勘違いに気づいて顔が一気に熱くなるまで、ずっとそのままだった。大慌てで謝り、立ち去った私が彼にまた会ったのは、何日か後、同じ場所、つまりこのバス停だった。そのときは、彼も待合室に入っていたような気がする。本を読んでいたかもしれないし、何かノートを広げていたかもしれない。たくさんの記憶が積み重なってしまって、一つ一つ取り出すことができなくなったみたいだ。だから、こうして自然と隣に座るようになったのがいつからなのかなんていうのも分からない。
――五連休だったでしょ、どっか行った?
――うん、旅行に。
――いいなぁ。私は部活あったし。ちょっと友達と遊びに行っただけだよ。
――大変だね。
――まあ、誕生日が遅い分取り戻そうとすると、頑張らないといけなくて。部活は好きだから、別にいいんだけどさ。
――なんか、悪いような気がする。お土産とか、渡せればよかったけど。
――あはは、全然。どこ行ったの?
――大学の下見とか。
――えっ、早くない? もう考えてるの?
――僕っていうか、親の方がね。でも、おかげで観光もできたし。
――なるほど。その手、いいかも。
彼は笑い、閉じて手元に置いていた本を、鞄の中に入れた。私は壁に掛けられていた時計を見た。二本の針は、ピンセットのように下を向いていた。
――なんか、色が凄いよ。
私が指で示した空を、彼も見る。目が大きく開かれて、驚きが控えめに表されているみたいだった。
バスの出発が近くなり、私たちはバス停まで出て、並んで立っていた。その間もいろいろなことを話した。印象と記憶に残っているのは、夕焼けが赤い理由とその条件のことだった。もっとも、赤い色の光(光の赤の色?)だけが私たちのところにまで届く仕組みだとかといったことは今ひとつ理解できなかったけれど。たぶん、それを話す彼こそが、私にとっては重要だったのだろう。
赤くて、橙色で、紫で、灰色の雲がいくつも並び、折り重なる、青から白にグラデーションを描く空を見上げて、私と話す時には私の方を向く彼が、さっきまで私が一方的に観察していた彼と同じ人なのだという当たり前のことが、何か、妙に不思議に感じた。こうやってすました顔(ひどい言い方だ)をしている彼の、いくらか違う面を覗き見たというのが、こんなにも、なんていうか、ぞくぞくさせられるような経験になるなんて思わなかった。そんな感覚は、たぶん彼に向く私の笑顔にも、入り込んでしまっていたんだろう。
――もう秋だねぇ。
自分でもびっくりするほどありきたりな決まり文句が、私の口から漏れた。彼がきょとんとして私を向き、何か言葉を探している間に、エンジンとタイヤの音が、無遠慮に私たちの間に割り込んできた。そしてゆっくりと、もったいつけるようにして、バスが目の前に停車し、甲高いブザーを鳴らしながら、ガッチャンとドアが開く。
――じゃあね、また……
軽く手を振りながら、私は、その先にあったのかもしれない、口にすることのなかった言葉の舌触りだけが残っているのを感じていた。