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第二話 襲撃

残酷描写があります。

 冬至祭(とうじまつ)りの初日である。

 縫殿(ぬいどの)の門をくぐり、終わった、と感慨深げに言いながら、二人は並んで伸びをした。

 雨星(うせい)はまとめていた髪をほどき、挿していた翡翠の彫りかんざしを抜いて帯にしまって、頭を振った。山にかかる夕陽と同じ色の髪が、ふわりと広がる。その彼の顔を下から覗き込み、まじまじと見つめた後、「まだ顔色が悪いわ」と言ったのは、紅雪(こうせつ)だ。

「大丈夫なの?一緒に祭りを回る約束だったけど……」

「大丈夫」

 雨星はうなずいた。

 この日までの数日間、表向きは風邪という理由で、雨星は仕事を休んでいた。ゆえに心配して、紅雪はそのように言うのだろう。

 時刻はちょうど、夕焼けが美しい、祭りが始まる頃である。

 通りを歩けば、着々と準備が進められていた。

 普段は、軒先に少しずつ吊るされている提灯も、今夜ばかりは拱橋(きょうきょう)の手すりにまで飾られている。そのおかげか、町の中は昼間のように明るく、わずかに小さな雲が浮かぶ空は、赤く燃えているようだった。

「もう露店が並び始めてるわ」

「いいにおいがする」

 雨星はくんくんと鼻を鳴らした。

 肉の脂が焼けるにおいと、鼻孔を刺激する唐辛子。棗や、金柑の甘露煮。熱々の甘酒。挽いた肉を包んだ麺麭(めんぽう)など、続々と美味しそうなものが並び始めている。

「じゃあ、帰って着替えてから、うちで待ち合わせね」

「紅雪のおうちは、今日はお店は?」

「やってるけど、今日は手伝わなくていいって」

「そうか」

 雨星はほっとしたように微笑み、手を振って去っていこうとする紅雪を、ふと呼び止めた。

「あの、紅雪……」

「なあに」

 ───話したいことがあるんだ。

 そう言おうとして、声が出なかった。紅雪は不思議そうに、雨星の言葉を待っている。言わなければ。この町を去らねばならないのだと。二度と会えないかもしれないのだと。それなのに、口をついて出たのは、まったく違う言葉だった。

「また後で」

「ええ。待ってるわ」

 通りを駆けていく紅雪の背中を見送り、雨星は振っていた手を力なく下ろした。

 そのまま、とぼとぼと家へと向かって歩き出す。

(しっかりしろ。明日の朝には発つんだから、絶対に、今夜言わないと)

 別れを切り出せないまま、とうとう夜になってしまった。それほどまでに、紅雪と、親友と離れ離れになるのが嫌だった。だからといって、黙ったまま別れることなどしたくない。

 薄暗い坂道を登りながら、雨星は、みずからの頬を軽く叩いた。

 そしてつと目を上げて、先に続く石段を見上げた───その時だった。

「───」

 背後から突然、口を塞がれた。

 人の手だ、とすぐにわかった。分厚い手のひらが口を塞ぎ、もう片方の腕が雨星の体を抱き込んで、後ろへと引きずった。茂みの中へと乱暴に連れ込まれた雨星は、ふいに放り出された勢いで、木の幹に背中を打ちつけ、そのまま倒れ込んだ。

「い……!」

 衝撃で息が詰まり、目眩がした。

 湿った土のにおいがする。

 何が起きたのかわからないまま、ゆるゆると顔を上げた雨星のその鼻先に、光るものが突きつけられた。

 短刀だった。

 その柄を握る手を、ゆっくりとたどっていく。身にまとう濃色の衣は、乱れていた。震える腕。荒い呼吸を繰り返し、上下する肩。面布(めんぷ)をかぶった顔。そのこめかみには、尋常ではない汗の珠が浮かんでいる。

 顔を隠していても、雨星には、それが誰なのかすぐにわかった。

 震える息を吐き、弱々しくつぶやく。

霜飛(そうひ)……」

「約束しただろう」

 彼はうなるように言う。面布で隠れていても、口元が笑みの形に歪むのがわかった。ぽたりと、霜飛の足元の土の地面に、何かが滴った。血だ。こめかみの汗は、脂汗だった。

「冬至祭りの今夜は、一緒に過ごそうって」

 だめだ、と雨星は思った。

(きっともう、わたしが何を言ったところで……)

 短刀がゆっくりと、喉元に押し当てられる。木の幹を背にして逃げ場のない中、雨星は必死にのけぞった。その必死なさまを見て、ははは、と霜飛が笑う。小刻みに震える刃が、雨星の肌を裂き、赤い血の珠が浮かんだ。

(嫌だ。死にたくない)

「愛してる、雨星。一緒に死のう」

 泣いてはだめだとわかっていても、涙が滲んだ。

(嫌だ!)

 次の瞬間。

 静謐(せいひつ)な夜を裂いて、悲鳴が響き渡った。

 しかしながら、その悲鳴を上げたのは雨星───ではなく、霜飛だった。

「あああッ……!」

 彼はたまらず短刀を取り落し、両手で顔を覆うと、面布を引きちぎった。

 指の間から溢れ、滴り落ちるのは鮮血である。

 その様子を、肩で大きく息をしつつ、呆然と見上げるのは雨星だった。

 ぶるぶると震える手には、かんざしが握られている。髪をほどいた時に、帯に差しておいた、翡翠の彫りかんざしである。曇りのない青緑色をしたそれは、精緻な小鳥の意匠の、とても美しいものであった。

 ───べっとりと、血に濡れてさえいなければ。

「……!」

 短刀を突きつけられ、雨星は咄嗟に、かんざしを霜飛の顔に突き立てたのだった。

 面布の穴、つまりは彼の目に向かって。

「ちくしょう……ッ」

 霜飛はあやふやに手を振り乱し、うせい、と絶叫した。

 そしてそのまま、こちらに向かって突進してきた。

 雨星は、茂みの中に身を投げだしてそれを避け、四つん這いのまま隠れるようにして前へと進んだ。

(早く、早く。逃げるんだ)

「おまえのせいで。全部、全部、おまえのせいで!」

 どこだ、どこにいる、と喚き散らしながら、霜飛は闇雲に腕を振り回す。

 短刀を拾い上げることも忘れ、暗闇の中を走り出してはよろめいて転び、木にぶつかり、無様な姿を晒しながらも、彼は雨星を求め続けた。

「ふざけるな。おまえのせいで、おれの人生はめちゃくちゃだ!」

 それは、耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫び声だった。

「おれはこの先、家を継ぐこともできずに、一生無様に生きていかなきゃならない!目を潰されては職人にもなれず、死ぬまであの弟の世話になって───その屈辱が、おまえにわかるか!それでもおまえは、おれを拒むというのか!」

 この人でなし、と。

 雨星は茂みを這いずりながら、恐怖と罪悪感に苛まれ、ぽろぽろと涙を流した。

(やめて。もうやめて……)

「どこだあ!どこにいるう!」

 永遠とも思える長さを這いずり、ようやく茂みを抜け、道へ出た。

 震える足に力を込めて立ち上がり、雨星は、よろめきつつも走り出す。

 すると、その後ろ姿をとらえた霜飛が、猛然と突進してきた。獣のような咆哮を発しながら、すさまじい勢いでこちらに向かって走ってくる。

「……ッ!」

 雨星は走った。

 恐怖のあまり、何度も何度も振り返りたくなったが、必死にこらえた。

 髪を振り乱し、血まみれで追いかけてくる霜飛の姿を見たが最後、足がすくんで動けなくなるだろうと、わかっていたからだ。

 足がもつれる。

 息が苦しい。

(走れ)

 水路を飛び越え、石段を駆け上がり、見慣れた家へと向かって。

 そして、開け放たれた扉の向こうに、飛び込んだ。


               **


 (けい)は、十の歳で山箭(さんや)に入り、訓練を受けてきた。

 親の顔は知らない。物心ついた頃にはすでに孤児で、山箭に拾われなかったら、きっと山で野垂れ死んでいただろう。

 今が三十かそこらとして───あの頃、冬来(ふゆき)は二十代だったはずだ。

 だがすでに指導者側だった。内面を見せない実力者ゆえ、不満を持たれやすい人物ではある。維人(いひと)のように彼に心酔する者もいれば、理生(りお)のように正面から食ってかかる者もいて、中には───悪意を以て陰口を叩く者もいた。

(おれは……)

 そのどれでもない。昔から何となく、冬来とは距離を置いていた気がする。

 彼が先代の女王を裏切ったのは、現在の女王の愛人だったから───それが噂だとはわかっていても、嫌悪感を隠せなかったからかもしれない。そんな人間を信用できない、という思いがあった。そもそもが、何を考えているのかさっぱりわからない男なのである。

(……視界が悪いな)

 慶は、顔を覆う面布の位置を改めた。

 家の中へと意識を向ける。格子窓からは、緩やかな灯りが漏れていた。

 家に気配は一つだけ。足音は、成人男性のものだ。

(集中しろ)

 軽く手を振り、理生と維人に合図を送る。

 彼らが家の中へと侵入し、まず生け捕りにせよと命令が出ている、父親のほうを捕らえる手はずとなっていた。そして、冬来と慶は近くに控え、待ち伏せして標的を殺す───簡単な仕事だ。

 しかし合図に対して、維人からは返事があったが、理生からはなかった。先が思いやられる、と慶は思う。

(冬来は……)

 こちらからは姿が見えないが、同じように身を潜めているはずだ。

 目の前のことに集中せねばと思うのだが、そう思えば思うほど、余計なことを考えてしまう。

 こたびの任務で、女王から直接受命したのは、冬来だ。慶や維人、理生は、『雨星』が何者であるかこそ知らされているものの、父親を生かして捕らえる理由など詳しいことは聞かされてはいない。山箭は、女王に殺せと言われた者を殺すだけ。それは、いつものことだったのだが……。

(いや、やめよう)

 慶は思い直し、空を見上げた。月が煌々と輝く、美しい夜だった。

 腰に差した山箭刀に、そっと触れる。かすかに鍔が鳴る音。今はもう、中王国(なかおうこく)の商人風の衣を脱ぎ捨て、着慣れた装束に身を包んでいた。漆黒の上衣に、裾を絞った袴、手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)。薄着だが、寒さによる震えはない。

 ふ、と吐いた息が、白くけぶった。

 慶はそのことに気づき、苦笑した。

 寒い夜に大きく息を吐いてしまうなど、見習いがするような失態だ。鼻で細く息をしろ、雪があれば雪を口に含め、と、冬来によく言われたものだった。

 白い息で、敵に居場所がばれるから、と。

「───?」

 慶は、かすかに眉をひそめた。

 その程度の違和感だった。

(息が)

 息ができない。声が出せない。出そうとすると、代わりに、ゴボリと音を立てて熱いものがせり上がった。

「かッ……」

 喉元から───細身の刃が突き出ていた。

 わなわなと震える手で、その刀身をつかもうとするが、あえなく空を切った。大きく開けた口から、激しく泡を立てながら血潮が溢れ、滴り、黒衣を赤く染めていく。そうしているうちに、ゆっくりと、刀が引き抜かれた。

 そのわずかな勢いにすら負けて、慶は背後に倒れ込んだ。

 途端、傷口から鮮血が湧き水のように噴き出す。

 もう助からない、と直感でわかりつつも、慶はもがき、おのれの腰のあたりを手で探った。帯に下げた割符(わりふ)を使い、国へと戻り、生き残る最後の可能性に賭けるためだった。だがいくら探しても、指先に触れるものは何もなかった。

 その時、少し離れたところから、かすかな水音がした。

 それを聞き、慶は、自分の割符が奪われ、水路に投げ捨てられたのだと理解した。

「……!」

 胸をかきむしり、声にならない声で叫ぶ。肺が血で満たされていくのを感じた。溺れ死のうとしながらも、彼の目は一点を見つめて動かなかった。背後から自分を刺し貫いた、人物の顔だ。

 蒼白となった慶の、唇だけが弱々しく動く。

 どうして、と。


               **


 ふと、家中の灯火がかき消えた。

 何事かと男が立ち上がり、動き出すよりも早く、理生は彼の片腕をつかみ、ひねり上げながら床に押し倒した。

「───おまえが青晨(せいしん)だな?」

 耳元で低く問いかける。

「動くなよ」

 忠告したそばから、男───青晨は、おのれのふところを探ろうとするような動きを見せた。理生は舌打ちし、その彼の手の甲にすばやく鉄針(てっしん)を突き立て、床に縫い止める。うめくような、くぐもった悲鳴が上がった。

「動くなって言っただろ」

 維人に向かって、理生があごをしゃくる。

 その態度に不満そうにしながらも、維人は青晨のかたわらに膝をつき、彼のふところや、帯の隙間、袖の中、(くつ)の底まで、ありとあらゆる場所を探った。だが、この男が隠し持っているという話だった割符は、どこにも見当たらない。

「ないな」

 維人が眉を寄せると、

「もっとよく探せ」

 理生がえらそうに言う。

「だったらおまえが探せよ」

「そもそも、こいつを生きて捕らえる理由は何だ?とりあえず先に殺して、後からゆっくり割符でも何でも探せばいいんじゃないか?」

 そう言って短刀を抜こうとする理生に、維人はぎょっとする。

「待て。やめろ、理生。命令に逆らう気か」

「なんてな。冗談だ。いちいち本気にするなよ、クソ真面目」

「冗談だと?こんな時に!ふざけるな、この───」

「おまえたち」

 ふいに聞こえた弱々しい声が、はからずも、彼らの仲間割れを阻止した。

 声の主は、床に貼り付けにされ、ぐったりとしている青晨だった。

 この暗闇の中では、常人である彼にはこちらの姿は見えていないはずだったが、青晨は二人の正体を言い当てた。そのことからも、季潤(きじゅん)と名を変えてはいるが、彼が青晨本人であると確信する。

「山箭だな」

 二人は答えない。

 だが、青晨は確信したようにつぶやく。

「やはり、そうか。とうとう見つかったんだな、あの女に……」

「黙れ」

「待つべきじゃなかったんだ。あの子に嫌われてでも、すぐにここを発つべきだった。あの子を助けたという男が、山箭なのではないかと疑いを持った時に、すぐに逃げていれば……」

「……なに?」

 理生はつと眉をひそめた。

 維人もまた、怪訝そうな顔をしている。

(助けた男?)

 何かが引っかかる。

(何だ?)

「───維人!」

 その時だった。突如、声がした。

 家の中からではない。家の外……扉の向こうからだ。

「維人!助けてくれ!維人!」

 維人はその声に、目を見開いた。

 逆に理生は目を細める。

「……慶……?」

 それは間違いなく、慶の声だった。

 扉の向こうで、彼は必死に叫んでいる。早く来てくれ、大変なのだと、維人を呼んでいた。重大な何かがあったとしか思えなかった。常に冷静な彼が、大声で助けを求めるなど異常だ。

 ふらりと吸い寄せられるように動き出した維人を、だが理生は止めた。

「待て」

「でも、慶が……」

「何かおかしい」

 何がとは言えない。考えすぎかもしれない。しかし……。

 維人はそんな理生の手を、苛立たしげに振り払った。理生がいつものように、わざと自分につっかかっていると考えたのだろう。

「うるさい。慶が助けを求めるなんて、よほどのことだ。ぼくが様子を見に行く。おまえはそこにいろ!」

「待……」

 扉へとわずかな距離を走る維人の背中に向かって、理生は咄嗟に叫んでいた。

「行くな!これは罠だ!一人では───」

 ───彼に勝てない。

「えっ」

 間の抜けた声がした。

 扉を開けた、維人が発した声だった。

「維人!」

 覚えているかぎり、理生がまともに彼の名を呼ぶのは初めてだったろう。

 音もなく刀が振り下ろされるのと、理生が維人の首根っこをつかみ、中へと引き戻すのとは、ほぼ同時だった。

 だが一瞬の差で、刀のほうが速かったように思う。

 本来であれば、維人の上半身をそぎ切りにするはずだった斬撃は、軌道を逸れ、代わりに彼の腕を切り飛ばした。右腕だ。肘から先が、夜の向こうへと回転しながら消えていく。

 維人はたまらず絶叫した。

 理生は舌打ちし、腕を押さえてうずくまろうとする彼を、無理やり背後へと投げ飛ばした。それと同時に、もう片方の手で、腰の刀を抜く。中王国の刀よりも、細く、短い直刀───山箭刀である。

 ガン、と壁にぶつかる音を立てながら開け放たれた、扉の向こうから、するりと黒い影が中へと入り込んできた。それをかろうじて目視し、繰り出された鋭い斬撃を、紙一重で避ける。

「……ッ!」

 声を発する暇さえない。

 体さばきと同じ、隙のない斬撃が次々と理生を襲う。刀でいなしながら避けるが、浅く肩を斬られた。すぐさま(ひるがえ)った刃は、今度は逆袈裟(ぎゃくけさ)に襲いかかってくる。防御が間に合わない。理生は逆手に腰の短刀を抜き取ると、大きくのけぞりながら、襲い来る刃をそれで防いだ。

 体勢を崩しながらも跳躍(ちょうやく)し、ようやく距離を取る。

「どうして……!」

 背後から、維人の泣き叫ぶ声が聞こえた。

「どうしてこんなことを。───隊長!」

 無駄だ、と理生は思った。

 泣き落としなど通用しないし、問うたところでわけを答えはしないだろう。

(本気だ)

 黒い影───冬来が、無言のまま、山箭刀を構えるのが見えた。

(こいつは本気で、おれたちを殺すつもりだ)

 目を見ればそれがわかる。殺すつもりだから、問いに答える必要などないと思っている。おそらく慶は、すでに死んでいるだろう。先ほどの、助けを求める慶の声は、声色(こわいろ)を使った冬来の罠だ。一人ずつ、確実に殺すための。

 クソ、と、理生は呼吸を整える合間に毒づいた。刀を持つ手に力を込める。

 その時だった。

 開け放たれたままになっていた扉から、誰かが中へと駆け込んできたのだ。

 肩で大きく息をしながら、ひどく狼狽(ろうばい)した様子であらわれたその人物は、家の中の様子をひと目見て、凍りついた。え、とつぶやいたまま、そこから動けずに立ちすくむ。見開かれた目。薄赤い色をした、乱れた髪。涙と恐怖でぐしゃぐしゃになった顔。まだ十三、四の子供───間違いない。『雨星』だ。

「何が……」

「雨星!」

 そう叫んだのは青晨で、

「維人!」

 と叫んだのは、理生だった。

 その後に続いた二人の言葉は、まったく同じものだった。

「───割れ!」

 逃げろ、と。

「……!」

 維人の動きは速かった。その言葉にはっと我に返った彼は、うなり声を上げながら上半身を起こし、残された手で割符を取った。それを指と指の間に挟み、割るために力を込める。

 おそらく、そんな維人にとどめを刺すために冬来は動くだろう、と踏んで、理生は立ちすくむ雨星に向かって、一足飛びに斬りかかった。一撃で首を落とす。ただそれだけの、簡単な仕事のはずだった。どんな邪魔が入ろうが、この子供を殺しさえすればそれで終わり。後は割符を割って国に帰ればいい。そう思ったのだ。だが。

「何……」

 理生は驚愕に目を見開いた。

 かばったのだ。

 冬来が、雨星を。

 刀で受ける余裕はないと判断したのか、雨星を抱えるようにして身を投げ出し、冬来は理生の攻撃からかばった。みずからは避けきれず、背中に一太刀を受けながら。

(身を挺して、他人を守っただと?あの、冬来が?)

 そうして、理生が愕然としている合間にも、冬来はすぐさま起き上がり、維人に向かって鉄針を投げつける。

 本来ならばそれは、彼の急所を寸分違(すんぶんたが)わず貫くはずの攻撃だったが───そうなるよりも先に、割符を割った維人のほうが姿を消した。まさしく、その場からかき消えたのだ。後手に回ったため、冬来は維人を逃がした。まったくもって、らしくない判断だった。

「嘘だろ」

 思わずつぶやいてから、しまった、と理生は思った。

 動揺のあまり動きを止めてしまい、その隙をつかれたのだ。

 牽制するような大振りの切っ先、反射的にそれを避けた先を狙われた。着地と同時に、冬来の投げた鉄針が、脇腹に深々と突き刺さる。手の中に収まるほどの大きさしかないとはいえ、場所が悪ければ致命傷である。

 理生は思わず膝をついた。

「冬来、てめえ」

 うなり、彼をにらみつける。

 その冬来もまた、膝をついていた。

 雨星をかばったときに受けた傷が、思いのほか深かったようだ。足元に小さな血溜まりができていた。そんな状態であるにもかかわらず、彼はなおも、雨星を守るように理生に刀を向け続けていた。

 理生は、目にしているものが信じられなかった。

 目の前のこの男は、本当に冬来なのだろうか?

「殺してやる」

 だが、やることは変わらない。

 邪魔をするのなら、本人であれ別人であれ冬来を殺し、女王の命令を果たす。

 慶のことも、維人のことも、決して好ましいと思っていたわけではなかった。しかし、どんなにいけ好かなくとも山箭であり、仲間だったのだ。その仲間を殺した男を、見逃すわけにはいかなかった。

 理生は立ち上がった。床に血が滴るが、構わず前方へ駆ける。

 それを迎え撃つべく、冬来もまたゆっくりと立ち上がるのが見えた。

 あとは、その立ち姿へと向かって、刀を振り下ろすだけ───のはずだったのだが。

「な───」

 何かが視界を遮った。

 それは、金切り声で言葉にならない言葉を喚き立てる、一人の男だった。

 かろうじて軸足をひねり、半身を引くが、振り下ろす刀の勢いまではどうにもならなかった。背中を撫でるようにして刃を食らった男は、品性の欠片もない悲鳴を上げると、もんどり打って倒れ込んだのだった。

「ああ、雨星。雨星───」

 男はそれでもなお、必死に床を這いずった。

 血まみれの姿で、ずり、ずり、と近づいていき、雨星に向かって手を伸ばした。

 だが、その手が届く前に。

 バキン。

 固いものが砕ける音が響く。

 それとともに、雨星と、そのすぐそばにいた冬来の、二人の姿がかき消えた。

 雨星が───割符を割ったのだ。

 直前に理生の投げつけた鉄針が、何もない壁に突き立って震えた。

(クソが)

 理生は行き場を失った刀を持つ手を、だらりと下ろした。

 こいつさえ、と思いながら、男を見下ろす。懸命に手を伸ばす、その姿勢のまま、男は動かなくなっていた。若い男だった。何があったのかは知らないが、片目が潰されていた。

「───」

 そののち理生は、何かを思い出したかのように息を止め、背後を振り返った。

 そこには、すでに誰もいなかった。維人も───青晨でさえも。彼の手に突き立てたはずの鉄針は抜かれ、血の跡だけが残っていた。騒ぎに乗じて逃げられたのだ。

 浅く速い呼吸をやめて、理生は、長く息を吐いた。

 刀をゆっくりと収める。

 床の上に膝をつき、痛え、とうめいた。脇腹にはまだ、冬来が投げた鉄針が刺さっている。一思いにそれを抜くと、血がどっと溢れ、衣をどす黒く染めた。毒づきながら、簡単な止血のみを施す。これで急場はしのげるだろう。

(失敗したのか)

 逃がした。何もかもを。

 不思議と冷静だった。理由も、目的もわからないが、たしかなことは、冬来が女王を───山箭の仲間を裏切ったということだけだ。

(あの野郎)

 だがこれで、気に食わないあの男を、正々堂々と殺す理由ができたわけだ。全盛期を過ぎ、あとは衰えていくばかりの山箭でありながら、女王に寵愛されているからという理由だけでふんぞり返っている、あの男よりも、自分が強いことを証明できるのだ。

 ふと床に目をやると、血溜まりの中に、青緑色をした欠片が散らばっているのが見えた。

 翡翠の欠片だ。

 おそらく、かんざしのような形に加工されたものだったのだろう。

 道理で見つからないわけだ、と理生は思った。青晨自身が、隠し持ってなどいなかったのだから。彼が持っていた割符というのは、これだった。青晨は、雨星に隠し持たせていたのだ。最初から、雨星だけを逃がすつもりで。おそらく、雨星にとって安全な場所である、と考えられる、どこかか、誰かに───割符の『片割れ』を託して。

(だとすれば、行き先は限られる)

 戻るか、進むか?

 理生は腰に下げた割符───薄い短冊状に加工された翡翠を、指先でもてあそんだ。

 これを使えば、すぐさま国に……女王のもとに戻ることは、できる。

 理生は、しんと静まり返った家の中で一人、立ち上がったのだった。


               **


(遅い……)

 飾り格子の隙間から差し込む、祭りの光が、紅雪の白い頬を照らしている。

 身支度はとうに終わっていた。鮮やかな紅色の衣には、見事な薔薇の刺繍が施されている。この祭りのために、みずから縫い上げた衣装だった。あとは面布をつけるだけ、といった姿である。

(いくらなんでも、遅すぎるわ)

 雨星のことだった。

 身支度を整えて紅雪の家で待ち合わせ。そのように約束したはずだ。

 彼がその約束を忘れるとは思えないし、紅雪が支度を終えてこれだけ待っているのに、いまだやって来ないというのは明らかにおかしい。まさか───何かあったのではないか。考えたくはないが、脳裏にひらめくものがあった。

『冬至祭りには、行かないほうがいい。死にたくなければ』

 あの時、理生に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると回っている。彼はどんなつもりであんなことを言ったのだろう。何を知っていて、何をするつもりで?

 ───やっぱり、様子を見に行こう

 しびれを切らした紅雪がそう考え、立ち上がり、扉に手をかけた時だった。

「やめておけ」

 重ねられた手は、冷たい。

 耳にかかる吐息に、喉がおかしな音を立てた。

 すぐ後ろ、振り返れば鼻先が触れそうな近さに、誰かが立っている。

(一体どこから入って)

「行けば嫌なものを見る」

 紅雪は恐る恐る振り返り、淡い灯火のもとで目を細めた。

 そして、やはり、と思った。一つに編んだ赤毛と、孔雀石のような緑の目。

「理生……」

「そんな名前も、もう忘れろ」

 つんと鉄くささが鼻をつく。

「お友達は、ここには来ない。それだけ伝えに来た」

「待って」

 すぐさま身を翻そうとする理生の手を、紅雪は咄嗟につかんだ。

「顔に血が」

 頬に、点々と赤く散るものがあった。

「怪我をしているの?」

「大丈夫」

 だが理生はそう言って、疲れたように息をついた。

「ほとんどおれの血じゃない」

「ほとんどって……」

「心配してくれんの」

 理生はにやりと笑った。本人はふてぶてしく笑ったつもりのようだったが、紅雪には、弱々しい笑みにしか見えなかった。何かを、ひどく強がっているような。紅雪は、痛ましげに眉をひそめた。

「あなたは───……」

 理生の血のついた頬に、手を伸ばそうとして、紅雪は、バタンと音を立てて開かれた扉に驚いて飛び上がった。慌てて手を引っ込めて、振り返ると、面布をつけた三人の小さな人影が見えた。

「あれ、お姉ちゃん?」

 そのうちの一人が、ひらりと面布をめくり上げ、不思議そうに紅雪を見た。

 三人は、彼女の弟妹であった。

「どうしたの。お祭りにも行かないで、こんなところに───一人で」

「え?」

 紅雪はもう一度振り返り、つい一瞬前まで理生が立っていた場所を見た。

 だがそこには、誰もいなかった。すぐそばの灯火だけが、かすかな風を受けた様子でゆらりと揺れていた。

(どうして……)

「お姉ちゃん?大丈夫?」

 心配する弟妹に返事をすることすら忘れ、紅雪は、呆然と立ちつくしたのだった。


               **


 維人は歯を食いしばった。

 そうでもしなければ、止血し、痛み止めを噛んだだけの体では、謁見(えっけん)に耐えられそうになかったからだ。気を抜けば、すぐにでも気絶しそうだった。

(ちくしょう)

 激しい怒りが、彼の正気を保たせていた。

 五年近く、冬来のそばにいた。彼の教えを受け、維人は山箭としての力を伸ばした。今回、冬来の下で働くことを許され、飛び上がるほどに嬉しかったのだ。女王に忠実で、冷静で、誰よりも強い。そんな彼に憧れていた。彼のようになり、女王のそばに仕えることが目標だった。

(それなのに)

 膝の上で、拳を固く握りしめる。

(なんで!)

「女王がお呼びです」

 侍女二人が、どうぞ、と促しながらふすまを開く。

 だが維人は入室せず、奥座所(おくざしょ)───謁見の間の前で伏し、懸命に声を上げた。

「維人にございます。ご報告があり、まかりこしました」

 しばしの間があり、

「よい。近う」

 鈴を転がすような声が。

 維人は、は、と返答し、女王の座る、中央の平御座(ひらござ)の前に膝をついた。

 女王はゆったりと脇息(きょうそく)にもたれかかっていた。

 ここは、女王の寝所たる奥ノ院(おくのいん)と呼ばれる建物であったが、彼女のまとう衣を見るかぎり、まだ休んではいなかったようだ。小袖は薄鼠だったが、帯は漆黒。こうして近くで見ると、その上にまとう打ち掛けの、まことに豪奢(ごうしゃ)であることがよくわかった。

 毒々しいまでに濃い紫の上に、真珠のようにきらめく白糸で、全体に獅子の文様が描かれている。灯火の光に照らされて、波のようにさんざめき光るのは、紫の地に銀糸が縫い込まれているからだと思われた。

 それをまとう女もまた、美しい。

 三十路は優に超えているはずだが、つややかな肌がまるで無垢な少女のようだ。

 新賜(あらたま)の女王───(あや)は、器用にも、微笑みながら維人をねめつけてきた。

「そなただけ?他の者はどうしたの。冬来は?」

「は……」

 よりいっそう頭を下げ、維人はうめいた。

 極度の緊張と、痛みのあまり、額にはびっしりと汗が浮かんでいる。

「わ、我々は……」

「我々は?」

「青晨、雨星ともに───取り逃がしました」

 綾は、きょとんと小首を傾げた。

 そして次の瞬間、(はなは)だしく唇を歪めた。

「……はあ?」

 維人の背筋が粟立った。

 強烈な殺気を感じ取ったためだ。

 さらに深く、頭を垂れる。畳に額がつくほどに。

「申し訳もございませぬ。ですが、これにはわけが」

「わけが?」

 首筋に、ひやりとしたものが触れた。

 刃だ───山箭刀である。

(いつ動いた?)

 平御座に座っていたはずの女王が、すぐそばに立っていた。

 維人からは、美しい打ち掛けの裾だけが見える。他に人の気配はない。彼女自身が山箭刀を持って、維人の首に刃を押し当てているのだった。動く気配すら感じ取れなかった。そのことに、維人はぞっとした。

「わけが、なあに?言ってごらん?」

「は」

 維人はごくりとつばを飲み、

「冬来隊長───いえ、冬来が、我々を裏切りました。理生と慶の生死は……不明です」

 しんと、耳の痛くなるような沈黙が、奥座所の中に落ちた。

 永遠とも思えるその静寂を裂いたのは、哄笑(こうしょう)だった。狂ったような、金切り声に近い、激しい笑い声だ。維人は、首筋から刃が離れるのを感じたものの、恐怖のあまりに、顔を上げることができなかった。

 綾は笑っている。

 笑いながら、猛烈に怒っていた。

「姉さま、あなたなんでしょう!」

 彼女は何もない場所に向かって、語りかけた。

「あなたが冬来をそうさせたのね。そうなのね。だって、十年よ?十年以上も彼は、わたしのそばにいた!」

 刀が空を切る音がする。綾が山箭刀を振り回しているのだ。

「死んでまでもわたしの邪魔をするなど、どこまで醜いの!冬来はもう、わたしのもの。わたしに仕え、わたしの言うことを聞いて、わたしを愛してくれてた。それなのにずっと───ずっと陰で、わたしを裏切ってたっていうの?そんな、あはは、そんなおかしいことって、ある?」

 維人はじっとうつむいたまま、ただ嵐が過ぎ去るのを待った。この嵐の激しさは、命の危険を伴う。下手をすれば、首が飛ぶと、わかっていたからだ。

 綾はその後も笑い続けたが、ややあって、唐突に静かになった。

「許さない」

 綾は、低い声でつぶやいた。

「絶対に許さない。雨星も、冬来も、この手で斬り刻んでやる」

 そして次の瞬間には、まるで口調を変えて、

「割符をもて!」

 と侍女らに命じた。

「今一度、先見(さきみ)をせねばならぬ!早うせぬか!」

 気づかれぬよう、ゆっくりと下がっていく維人とすれ違うようにして、侍女たちがばたばたと綾のもとへと走っていく。彼女たちは、ひとまず女王の乱れた髪や衣を直そうとするが、綾は「触るな!」と叫んで近くにいた者を殴りつけた。維人のことなど、もはや目に入ってもいない。

 維人は、再度平伏したのち、血の気の失せた顔で退室したのだった。


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