第64話 埒外
どうやって断ろうかしら。今日も大雨で蒸し暑いし、面倒なことはさっさと済ませてしまいたい。本当は無視したいところだけど。こればかりはしょうがないわよね?
昼食後、東屋のベンチを不意に立ち上がった私を見て、セレナが驚いた声を上げた。
「あれ、ディルどこに行くの? 午後の授業の前に何かあるの?」
「ちょっと、手紙で呼び出しを受けてて」
西棟の方にね。そう言う私に、セレナは急に不安そうな顔をした。
「えっ、一人で行くの? ルドルフさんはいいの?」
「多分告白だと思うから。一緒に誰かを連れてったら可哀想じゃない。ルドルフには黙って行こうと思ってたの」
ルドルフに甘えないようにすると決めたばかりだもの。
相手はルドルフも関係ないし、今回ばかりは私が自分でどうにかしなくてはいけない話だ。自分が逆立ちしても出来ないことを、勇気を出して行動してくれていることを思うと、面倒でも自分でしっかり線引きはしなくちゃいけないと思う。
今まで何度か届いている手紙の相手。殿下がセレナを追い回してた頃は、その行動を逐一報告してきたり、ラブレターまがいの手紙をもらったりしたこともあった。一時の気まぐれということでもなさそうではある。心当たりはないが、皆から再三言われ続けてきた思わせぶりな態度というものの結果なのかもしれない。
告白とはそう言うものだとしても、ひと気のないところに一人で呼び出されるのは、本当は私も望むところじゃないわ。逆上されたりしたら、なんてぞっとしない。以前ならなあなあで済ましたところだけれど、ツケを後で払うことになるってのは私も学んでいるの。
「ちょっと待って、それって――」
「大丈夫よ。断るだけだから。きっとすぐに済むわ」
相変わらず離れたところに控えさせているルドルフが私の行動に気が付くより先に、さっさと離れる。告白だろうというのが分かっているなら、穏便に済ましておきたい。ルドルフに知られて不安な気持ちにさせる必要もない。正直、セレナにも言うつもりはなかった。告げてしまったことで、ルドルフは追ってくるかもしれない。手紙の相手には悪いが、もしそうなったとしたら、それで仕方ないことだ。
西棟の一階の隅の小部屋。前に殿下のことを密告してきたウサギの女子生徒に呼び出された時もここだった。告白やら秘密の話をするならここだ、と言う共通認識があるのかもしれない。
深呼吸をし、部屋に入る。と、じめじめとした湿度と夏の蒸し暑さで地獄のような息苦しさを感じた。あまりの不快指数に、汗が吹き出す。前にここにいた誰かがつけていたのか、きつい香水のようのな匂いが立ち込めているのもあり、先ほど食べた昼食が胃の中で暴れている。
見回すが、相手はまだ来ていないらしい。唯一の窓を開けようと部屋の奥に入ると、後で鍵の閉まる音がした。
「えっ⁉︎」
振り返ると、ドアの内側に、女子生徒が立っている。『僕』という一人称に、てっきり男性だとばかり思い込んでいた。同性だということに、少しだけほっとする。
犬っぽくはあるが、おそらくはネコ――ハイエナ型の獣人だ。その顔にも見覚えがある。以前、ルドルフといる時にこっちをじっと見ていた子だ。ルドルフの恋愛沙汰に巻き込まれたのかと一瞬考えるが、手紙の内容を思い出して考え直す。
何だか頭が回らない。視線を上げるのもやっとだ。吐き気がする。
しかし、それでもこんな部屋に呼び出した理由は相手が分かったことで理解出来た。以前、セレナと噂になった時に、女子生徒からの熱烈なラブコールを受けたこともあった。きっとそういうことなのだろう。
それにしても、鍵をかける必要はないでしょうに。
「呼び出したのは貴女? ごめんなさいね。ちょっと体調が悪いみたいで……」
こめかみに手を当てながら、最大限の努力で相手の顔を見ようとする。その女子生徒はそんな私を見て、手を合わせてにっこりと笑った。
「嬉しいです! やっぱり反応してくれるんですね!」
「何を……?」
具合が悪すぎて、相手が何を言っているのか、理解ができない。くらり、と視界が揺れ、私は以前にもこんな経験をしていたのを思い出す。セレナの結婚式の日。ダンスの熱気に包まれているうち、みるみるうちに具合が悪くなった。
『匂いに酔われた、のですね』
チカチカする視界の中、頭の中に家政婦長の言葉がよぎった。次いで、いつかのルドルフのアドバイスが浮かぶ。
『うわっと思ったら、さっさと撤退したほうがいいよ』
まずい。
逃げようとするが、行手を塞がれる。その女子生徒に近づいたことで、強い香水のような匂いが強まった。胃の中がひっくり返りそうなほどに、気分が悪い。その場に座り込んだ私の頭を女子生徒が抱えるように腕を回してくる。イランイランの香水の匂い。私の黒髪を撫でながら、夢見るような目でその女子生徒は言った。
「貴女は、ハイエナの粗野な女たちとは違う。ずっとお慕いしておりました」
私はその言葉に、違和感を感じる。私は自分の血の気が引いていく感覚がした。
「僕の女王様」
自分のことを『僕』と呼ぶ、目の前の少女――としか思えない相手は、自分と同じくらいの身長で、愛らしい顔やほっそりとした手や首をしている。白いフリルのシャツやキュロットが細身の体によく似合っている。しかし、今ほど耳にした言葉に、頭の中の警報が鳴り止まない。
「貴女、貴方、その――」
強張る舌で確認しようとするが、うまく口が回らない。そんな私に、目の前の相手はなんてことないように、朗らかに言った。
「ああ、僕は男ですよ。僕の型は、男女の差があまりなくて。しかも、伝統的に家は女が継ぐんです。だから、僕は長男だろうと家を出されますし、女が一番偉いんです。おかしいと思いませんか?」
絶句し固まった私を見て、そのハイエナの獣人は私に笑いかける。
「ああ、安心してください。貴女も家を継ぐかもしれませんが、貴女は違います。それに、僕は妻には尽くすと決めているんです。僕には、貴女のことがよく分かるんです。僕が夫になったら、貴女の愛を至上の喜びとする、誠実な奴隷になりますよ」
……女王様、ってそう言うことね。
息も絶え絶えに、そう思う。この申し出がずっと以前の私に対してだったなら、一考の余地はあっただろう。今世になってから好みが変わったのか、中性的なタイプは嫌いじゃない。しかし、私はもう決めている。私はちりちりと傷むうなじをネックコルセット越しに抑えながら、受け入れられないことを謝った。
「ご、ごめんなさい。貴女の気持ちには答えられないわ。私は自分の『運命の番』を見つけてしまっているの」
「ああ、あのオオカミですか。でも、理由になりますか? だってあのオオカミは、使用人でしょう?」
「それは――」
以前の私が言いそうなことをハイエナはさらりと答え、私は返答に詰まった。本気で不思議そうに思っているようなハイエナの表情に、私は自分を見出してしまう。
そう。私もそう思っていた。それで、ルドルフの好意をずっと拒絶していたの。だって、周りの貴族にそう思われるのは分かっていたから。後で自分が傷つくのが知っていたから。それに、それが私以上にルドルフを傷つけるのも分かっていた。どれだけ名声を高めようとも、私にはそれを防ぐ方法なんてない。
もちろん、他にもルドルフを受け入れられなかった理由はたくさんあった。それでもディライア・サーペンタインは、ルドルフの言う通り本当に見栄っ張りで、その上臆病者で。今この状況でルドルフに向き合うのが怖いのは、そんな自分にも向き合わなくてはいけないからなのよ。
一番嫌な部分を目の前でほじくり返される。目がまわるような吐き気の中、私は心まで挫けて、泣き出しそうになった。
「だから、貴女は王太子殿下と婚約していたわけで。王太子殿下とバルコニーにいたのを、ダンスをしたと言うのを聞きました。キールスの王女殿下に離宮へ呼び出されているのも知っております。王女殿下との後、王太子殿下は貴女を側妃にするつもりでしょう? 貴女が後宮に入られるなんて、嫌です」
「そ、それは違うわ。私は側妃になんてならないもの」
震える声で否定するが、ハイエナには私の声など聞こえていないようだ。
「ああ、本当に、煩わしい。僕と貴女を隔てるものは、何であっても許せません」
話が、通じない。
きっと匂いに酔ったことで、私の匂いも異常に出ているのかもしれない。それとも、この獣人の元々の性分か。名前も知らない相手の性格なんて、知りようがない。
陶酔したような瞳で、ハイエナは私が必死に押さえているネックコルセットのリボンに手をかけて口に咥える。その鋭い牙は、いとも簡単に、断ち切ってみせた。
「さあ、貴女のうなじを」
私の抵抗も虚しく、ネックコルセット自体も剥ぎ取られた。針を刺すような悪寒と、吐き気に似たぞわぞわとした嫌悪感が首筋を駆け抜ける。私がうめくと、ハイエナは嬉しそうに笑った。
「赤くなって、綺麗ですね」
滑るように指が首筋を渡り、髪が持ち上げられる。と、ハイエナはそこで手を止めた。髪が引っ張られ、私は苦悶の声をあげた。
「これは王太子殿下が?」
うなじを横切るように、ハイエナの指が動く。それはちくちくとした不快感を伴うもので、私は顔を顰めた。理由が分からない行動と現象に、私は混乱する。
「何、を……?」
ハイエナが私の首に鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。あまりに動物的な仕草に、私は生理的な嫌悪を抱いた。私が不思議な顔をしているのに、ハイエナは信じられないと大袈裟に驚いて見せた。
「知らずに、牙痕をつけられてなんて。なんてひどい。可哀想に。でも、つけられたのを覚えていないほどで、傷は薄い。正式な番ではないんですね。それに、僕の匂いでこれだけ乱れるんですから」
「牙痕? 何を言って……」
そこまで言って、私はルドルフが一度、私の首筋に傷をつけたことを思い出す。しかし、あの傷は数日後には消えていたはずだった。自分では見えない位置だと言うこともあり、ネックコルセットが出来てからはずっと首筋は隠したままだった。しかもあの傷がついてから、殿下に首だって見られている。その時に殿下は何も言わなかった。
私、ルドルフとすでに番になっているってこと? このちりちりとした針を刺すような感覚なら、アスピスに迫られた時にも感じたけど。あの爪で引っ掻いたような傷のせいなの?
混乱に陥った私を見て、ハイエナは気を撮り直したように笑った。
「ふふ。本当に、貴女は何も知らない『ご令嬢』なんですね。今の反応を見て、安心しました。唾つけされていようとも、正式な番の痕じゃない。これじゃ、僕の前に番っていたなんて、司祭も認めようがない。良かった。貴女を僕のものにする方法はまだあるんです。順番は前後しても、結果が同じなら、構いませんよね?」
嫌な笑みを浮かべるハイエナを床から見上げる。ハイエナは私の腰から胸元に手を滑らせる。
「後宮に入るなら、純潔でなくてはいけませんから」
ハイエナは胸衣をピンごと剥がした。胴のコルセットがずれて胸元が開く。
「!」
私は咄嗟に足を伸ばし、足首を組んで、太ももをぐっと閉じた。こう言うことが悪役令嬢に起こるっていうことを、全く予想していなかったとは言わない。だからこそ、両親に無理を言って剣術とか体術なんかも習わせてもらったのだ。
でも、いくらなんでも匂いに酔って、抵抗できないなんて想定はしてなかったわよ。私が努力してきたものは、これで、水の泡なの?
「ああ、ヘビ型の肌というのは、このようにひんやりと吸い付くようなものなのですね……」
二の腕の内側にぺたりと頬を寄せ、ハイエナが嬉しそうにそう言った。
「貴女のような方を妻にできるなんて、最高です」
「……貴方、こんな形で私と結婚したり番になっても、私から一生恨まれて生きることになるのよ? それでいいの?」
私を好きだと言うその好意の善性に一縷の望みをかけて、尋ねる。ハイエナは私に顔を寄せ、せせら笑った。
「大丈夫ですよ。貴女は結局諦めて、僕を受け入れてくれる方ですから」
私はその言葉に、目の前が絶望で暗くなる。
ああ、こいつは。
婚約者だったライオネルは、私たちが『運命の番』同士じゃなかったから、諦めていた。私の『運命』のルドルフは、私が何も考えず好意を踏み躙りながら呑気に生きていた私の横でずっと耐えた上、一生でも待つと言った。
ふたりとも、私に似合わないほど、紳士だったわね。
この獣人の言うことは、間違っていない。きっと、私は自分の意にそぐわない誰と番になろうとも、抵抗しつつも最後は諦めてしまうだろう。
本当に。こういうことで私は気が付かされるタイプなのね。本当に自分でも、馬鹿だと思うわ。ルドルフ。お前が良い。お前が、良かった。あの雪が降る真っ白な街路で、お前をすでに選んでいたと、あの夜ちゃんと伝えていたら。
未だ抵抗はするが、思うほど力が入らず、無力な手はいなされる。私はこれから起こるだろうことを頭から締め出して、どうにかして逃げる方法だけを考える。ドアからは逃げられそうにない。
ああ、前世の最期を思い出すわ。絶望の中、自分がだんだん死んでいく感覚。誰も私を助けてくれない。だから、私はこの世界では――
ラッピングでも剥くかのように、ハイエナは私の重ねたスカートの何枚かを破く。ついに床に押し倒され、私は頭を打った。
「…………!」
恐怖と嫌悪に歪んだ視界の中、唯一の光源である窓、その外。目を見開く。
降りしきる雨の中、ルドルフが引き抜かれた鉄柵を掲げているのが見えた。




