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ねずみ録  作者: mozno
第五章 花火のように

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悼む


 レジを受け持っていた田中さんが、ふいに「ちょっとごめんなさい」と言って後ろに引っ込んでしまった。今日は客も少ないし、サボりたくなる気持ちも分かる、などと思っていると、彼女の頬が濡れているのに気が付いた。

 後を追いかけて裏口に出ると、勝手口でうずくまっていた。

「……根津さん」

「……」

 種族が違うと言えど、泣いている女性にかける言葉など私は持ち合わせていない。相手が男だったら、「男が泣くな」と言って一発殴れば解決するから単純なのに。

 かといってここで店内に引き返すのもおかしな話なので、なんとなく田中さんの横に行き、何も言わずに私もしゃがんだ。

「すみません、急に泣き出したりして……」

「いや、……」

「ちょっと聞いてもらってもよいですか?」

「いい、よ」

 いいけど、と言いかけて、ぶっきらぼうかなと思い返して、後付けでよをくっつけたら妙な感じになってしまった。

「今朝、起きたら、メリーが動かなくなってて。体調悪いのかなと思ったんですけど。脈が、なくって」

 メリーというのは彼女が度々私に写真を見せてくれた、田中家の飼い猫である。

「ショックだったんですけど、結構年をとっていたのでと納得した、つもり、だったんですけど」

 そう言うと彼女は顔を両手で覆ってしまった。啜り泣きだけが路地裏に響いている。仕事中にふとメリーが子猫だった時のことを思い出して耐えられなくなってしまったのだそうだ。

 普段の私ならこの世からメス猫という邪悪が去ったと小躍りして喜ぶところだが、こうも目の前で悲しまれてしまうとその気も失せると言うものだ。それに幼少期より田中さんの心の友であったというなら、猫にあるまじき忠義の士ではないか。どうして仇を討とうと決意を固めてからこっち、らしくない猫にばかり出会うのか。

 敵愾心、軽蔑、そういったものが邪魔をして一匹一匹の猫を理解せず、猫全体を敵としていた。身体的特徴だけを捉えて猫化けは免許皆伝? 自惚れも良いところだ。

 猫にはそれぞれの過去がある。関わった他の猫や人間がいる。それは他のあらゆる動物が、いや、動物に限るまい、あらゆるものに過去がある。その重みが眉間のシワであり、顔や木目のシミであり、白みを帯びた毛の生え際なのだ。だから、先生はあれほどまでに細部に拘るのである。そこに魂が宿ると知っているから。

 ここに至って私はようやっと遅ればせながらその事を理解した。そして大工であった父がそれと同じ事を言っていたことを思い出した。もし私がきちんと大工修行を受けていたら、あるいは先生から化けの教授を受けたのが、ロクマルだったなら、きっともっと早くに気付けたに違いないのである。

 何もそんな事を考えていたら、私の気分まで落ち込んできた。

「供養はしてやったの?」

「まだ家にいます」

「してあげた方がいい。でないと迷ってしまうって、先生から聞いたことがあるから」

「でもやり方が分からなくて……」

 そんなものは私も知らない。だが、又七郎を討てた時のために知っておいた方がよいかも知れぬ。敵しかいないような身の上だし。ふふ、猫の皮算用をする者など私か三味線屋くらいのものだ。

 奴の事を思い出したお陰でかつての話の内容も思い出した。

「両国に、回向院ってお寺がある。そこに猫塚、猫たちの墓がある。そこなら、なんだ、お葬式の仕方も分かるかも、しれない」

 確証はないので、へどもどしながら言ったのだったが、田中さんにはそれで十分だったらしい。

「そっか。今ってペットのお葬式もやってくれるんでしたね」

 そう言って、すっくと立ち上がったので、私が彼女を見上げる形になった。

「私、参っちゃってたみたいです。メリーのためにしてあげられること、まだあるんですね」

 張らした顔で、家に帰ったら色々調べてみますと彼女はちょっと無理をして微笑んだ。

「ああ。その前に今日の仕事を片付けないと。サボりがバレると店長に怒られる。回り回って店長が姐、社長にどやされる」

 私はいつも通りの軽口でにやっと笑った。

「前から思ってたんですけど、根津さんってあの美人の社長とどういう関係なんですか?」

「ビジネスパートナー、の弟子?」

「ますます分かんないです」

 私自身もよくわからないままに答えると、ようやく彼女が笑った。泣いている少女を笑わせられるのだ、私の話術も捨てたものではなかろうて。


 ***


 数日後、アルバイトの帰り道で、塀の上で黄昏るトラキチを見つけた。

「……どうしたね。元気ないじゃないか」

 不審者を見る目をしていたが、少しして私だと気付いたらしい、冷笑した。

「ヒトの時も猫の時も間抜け面なのは変わらねえんだな」

 なんだとこの野郎。ひとが心配して声をかけてやったというのに。私は以前も使っていた野良猫の姿に化けて、彼の隣に腰かけた。

「最近、猫どもの様子がおかしいからアンタも気が触れたかと思ったが、変わりなさそうだな」

「ああ、俺はほとんど飲んでねえからな」

「……? 何の話だ?」

 私が首を傾げると、トラキチはハッと馬鹿にしたように笑った。

「しらばっくれるなよ。ネズミが運んできた例のブツさ。あれを多く飲んだ奴ほどおかしくなっている。暴れまわって急に心臓が止まっちまう。お前も知っているあの図体のデカイ奴もこないだ逝っちまった」

 この間、金だらいで気絶させた今戸の門番のことだろう。あの尋常ならざる様子は、例のスネークバイトなる飲み物によって産み出されたらしい。

「俺が知っていたとでも?」

「違うのか?」

「俺があの取引のことをネズミ社会に言い触らしたら事だから、俺を殺せとアンタらに依頼が来たんだよ」

 ほとんどのネズミは浅草寺が猫と取引をしていることさえ知らなかったはずだ。ネズミの中には大勢家族を猫によって失った者がいる。その猫に物資を融通して生き永らえさせてもらうなど、ネズミの誇りが如何にちっぽけとは言え、許しがたい行為である。だからこそ、浅草寺の一部のネズミはそのことを隠し、「浅草寺の近くだと猫に襲われない」という噂だけを流したのだ。

 疑問に思った者もいただろうが、ほとんどの者が何も考えずに漫然と利益だけを受け取ったつもりでいたはずだ。理不尽は、自分がその暴力を振るわれる側でなければ、だれもそれを正そうとしない。

「それだけ舐められたことをされているのに、浅草寺に攻め行ってやろうとはならないのかい? 前はもっと血の気が多かった気がしたけど」

「そんな気分じゃねえ」

 その茫然自失に近い状態は見覚えがあった。私自身がついこの間までそうだった。

「……俺も今回の件で家族を亡くした。もう一人の親のように思っていたひとだ」

「……そうか」

「……あの白い猫かい?」

「ああ」

 トラキチはゆっくりと顔を俯かせた。

「俺は飲まなかった。あいつが欲しがっていたから。毎週持っていったんだ。……ネズミじゃない。俺だよ、俺があいつを殺したんだ」

 唸るような懺悔と共に、彼の爪が塀の表面をがりりと削り取った。

「……どんなひとだった?」

「はあ?」

 私が隣で黙っていると、そんなことを聞いてきた。意味が分からず聞き返す。

「そのもう一人の親ってひとさ。……てめえが敬意を払う相手なんてもんが想像出来なくてな。興味が湧いた」

 一体こいつは私のことをなんだと思っているのか。だが、私だって同じようにこの男がそこまで惚れ込む相手がいるなどと思いもよらなかった。外見も話し方も知っている。性格だってそこそこ分かっているつもりだ。だが、どうやらそれは何も知らないのとほとんど変わりないらしい。

「そのひとは、俺の親父の妹だった。叔母さんだな。俺の名付け親だ。だけど子供みたいに笑うひとだった。ガキの頃からよく遊んでくれた。俺が食いっぱぐれることが多かったから面倒を見てくれていたんだと思う」

 私に書道を教えたのだって、大工は兄たちが継ぐから、他の食い扶持の候補が有ってもいいと考えたからに違いない。

「昔はネズミで一番の器量良しだなんて言われてたらしい。ホントかどうか知らねえけどな。まあ、神使の嫁さんに選ばれるくらいだからそうだったのかもしれない」

 選ばれていなければ、叔母は幸福に生きられただろうか。あるいは父の妹でなければ。考えても詮のないもしもが浮かんでは弾ける。

「そんなひとが自分の名付け親だということが俺は誇らしかった、が、恥ずかしくもあった。だからいつもふざけたみたいに『叔母上』なんて呼んでいた。……本当は生きているうちに、母さんと呼んでみたかった」

 棺の中の遺体に呼び掛けて何になるというのだ。

「……」

 今度はトラキチが黙ってしまった。

「あんたの方はどうなんだよ、どんなひとだった?」

 気恥ずかしくなって私が矛先を向けると、トラキチはぴょんと塀から飛び降りた。

「また今度、話してやるよ」

「おい、俺に話させといてそりゃねえだろ」

「俺もそのくらいきっちりまとめて来ようと思ってな」

 馬鹿にしているかとも思ったが、表情を見るにどうやら本気で言っているようだ。先程よりは多少生気の戻った顔で口に端を上げると、私に背を向けて去っていった。


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