第三十一話「この世界にないもの」
【一】
鍛冶屋は街の南端にあった。
煙突から煙が上がっていた。金属を叩く音が遠くから聞こえていた。
クロウドが扉を開けると、大柄な熊系獣人の職人が振り返った。
「ギルドマスターから聞いてるよ。何を作りたいんだ?」
クロウドは紙を取り出した。
いくつかの形が描かれていた。小さな四角い金属のブロックに、数字や文字が浮き彫りになっているものだった。
「鉄製の数字と文字のハンコです。これを一セット作ってほしいんですが」
職人は紙を見た。
「……ハンコか。珍しい形だな」
「一つ一つ独立したハンコです。それを枠に並べて、まとめて押せるようにしたい」
「なるほど」職人は顎を撫でた。「それなら作れるが——何のためだ?」
「銀行の通帳に、金額や記録を印字するためです」
職人はしばらくクロウドを見ていた。
「……やってみよう」
【二】
最初の試作品が上がってきた。
小さな鉄のブロックに、数字と文字が刻まれていた。それを木枠に並べて、インクをつけて紙に押す。
試してみた。
綺麗に印字できた。
(いける)
そう思った。
でも——やってみると、問題が出てきた。
一つ一つのハンコを枠にセッティングする手間が、思ったより大きかった。金額が違うたびに並べ替えて、確認して、また押す。手間のわりに時間がかかった。
それに——ハンコが小さかった。無くしたら大変だった。一つでも欠けたら、その数字が使えなくなる。
(これじゃ、まだ足りない)
クロウドは考えた。
前世の記憶が流れ込んできた。
オフィスの机。カタカタという音。ボタンを叩くたびに文字が打たれる機械——
(タイプライターだ)
そうだ。
ボタンを押せば、対応する文字のハンコが紙に当たる仕組みだ。一つ一つ並べる必要はない。ボタンを押すだけでいい。
この世界には、そんなものは存在していなかった。
でも——作れるかもしれなかった。
【三】
なぜそこまでするのか。
理由は明確だった。
ギルドでも、どこでも——全てが手書きだった。字の癖がある者の文字は読みにくかった。急いで書いた数字は、見間違えることがあった。
そして何より——手書きであれば、不正ができる。
銀行通帳に手書きで金額を記入できれば、数字を書き換えることができる。一を七に変える。三を八に変える。小さな改ざんが、大きな損失につながる。
(信用銀行と名乗るなら、信用できる仕組みが必要だ)
そう考えていた。
鍛冶屋に戻って、タイプライターの仕組みを説明した。
職人は最初、首を傾けた。
「ボタンを押したら、文字が紙に当たる……?そんな仕組み、見たことも聞いたこともないぞ」
「そうだと思います」クロウドは図を描いた。「でも、原理は単純です。バネと、レバーと、文字のハンコの組み合わせです」
職人は図を見た。しばらく黙っていた。
「……難しいな。時間もかかる。材料費も相当かかるぞ」
「いくらですか」
職人が金額を言った。
クロウドは少し考えた。
「わかりました。お願いします」
職人の目が変わった。
即決だった。値切りもなかった。
(ゼニ払いのいい客だ)
職人はやる気に満ちていた。
「……任せろ。面白いものを作ってやる」
【四】
猫草亭に帰ると、クレインが夕飯を作っていた。
「遅かったな」
「鍛冶屋と打ち合わせしてました」
「剣でも作るのか」
「違います」
「では何だ」
クロウドは少し考えた。説明するのが難しかった。
「文字を打つ機械です」
クレインは手を止めた。
「……文字を打つ、機械?」
「ボタンを押したら、文字が紙に当たる仕組みです。手書きより正確で、速い」
クレインはしばらく黙っていた。
「……そんなものが作れるのか」
「作れるかどうか、鍛冶屋と一緒に試してみます」
「お前はどこでそういうことを思いつく」
「あったらいいなを形にしただけですよ。そういえばクレイン、字汚いでしょ」
クレインは少し間を置いた。
「……なんの話だ」
「手書きって、人によって癖があるじゃないですか。読みにくい字、見間違える数字——銀行の記録がそれじゃ困るんですよ。だから機械で印字できればと思って」
クレインはしばらく黙っていた。
「……俺の字のせいか」
「一つの例として」
クレインは鍋をかき混ぜながら、何も言わなかった。
でも、その背中が——可笑しいような、憎たらしいような、それでいてどこか頼もしいような、そんな雰囲気を漂わせていた。
しばらくして、ぼそりと言った。
「……飯にするか」
「はい」
クロウドは笑いをこらえながら、椅子に座った。
「はい」
椅子に座った。
窓の外に、秋の夜空が広がっていた。
(少しずつ、この世界が変わっていく)
大げさかもしれなかった。でも、クロウドにはそう感じた。
銀行ができれば、庶民の生活が少し楽になる。タイプライターができれば、書類が正確になる。一つ一つは小さなことだった。
でも、中村正義はずっとそうやってきた。
小さな一件を積み上げて、少しずつ世界を動かしてきた。
ここでも、同じだった。




