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第9話 「カウンターの記憶」

三月最後の月曜日。年度末の慌ただしさも一段落したのか、街は静かな夜を迎えていた。『Bar 灯火』の扉が、ゆっくりと、少し躊躇うように開いた。そこに立っていたのは、古風なソフト帽を目深にかぶった、七十代くらいに見える男性だった。杖こそついていないが、その足取りはゆっくりと慎重だ。




「いらっしゃいませ」 蓮が声をかけると、男性は店内に一歩足を踏み入れ、懐かしむようにぐるりと店内を見回した。磨き込まれたカウンター、壁にかけられた控えめな絵画、ボトル棚の並び…。その目は、現在の光景と、自身の記憶の中にある過去の光景とを重ね合わせているかのようだ。 「こんばんは。…ここは、まだ『灯火』さんで、お間違いないかな?」 少し掠れた、穏やかな声だった。 「はい、左様でございます」 蓮が答えると、男性は「そうか、そうか…」と安堵したように頷き、カウンターの一番端の席にゆっくりと腰を下ろした。


「何年ぶりになるかなあ、ここに来るのは。…前のマスター、月島のご主人は、お元気かな?」 男性は、蓮の顔をじっと見つめながら尋ねた。 「…祖父は、数年前に他界いたしました。今は、私が後を継いでおります」 蓮がそう告げると、男性は驚いたように目を見開き、そして深い溜息をついた。 「おお、そうだったか…。それは、残念なことだ。頑固だったが、良い男だった…。そうか、君が、あの方のお孫さんか。言われてみれば、どことなく面影があるような気がするな」 彼は蓮の顔をしげしげと眺め、そして納得したように頷いた。




「じゃあ、お爺さんが好きだったスコッチでも貰おうかな。ロックで」 「かしこまりました」 蓮は、祖父が晩年好んで飲んでいたというシングルモルトのボトルを取り出し、丸い氷を入れたロックグラスに丁寧に注いだ。祖父が使っていたものと同じ、少し厚手のグラスだ。




「どうぞ」 差し出されたグラスを、男性は感慨深そうに受け取った。 「ありがとう。…ああ、この香りだ。お爺さんも、よくカウンターの内側で、これをちびりちびりとやっていたもんじゃ」 彼は目を細め、グラスをゆっくりと傾けた。そして、昔を懐かしむように語り始めた。 「お爺さんは、本当に無口な人でな。だが、不思議と客の心を読むのが上手かった。何も言わなくても、その日の気分にぴったりの酒を出してくれたり、黙って隣で話を聞いてくれたり。このカウンターで、わしも何度、慰められたことか…」


男性は、蓮の知らない祖父の姿や、昔の『灯火』の様子を、ぽつりぽつりと語った。バーテンダーとしての哲学、得意だったカクテル、常連客との逸話、このバーで起こったささやかな出来事…。それは、蓮が祖父から直接は聞けなかった、貴重な記憶の断片だった。 「昔は、この辺りももっと活気があった。色んな人間が、この扉を叩いたもんじゃよ。笑いも、涙も、怒りも…このカウンターは、全部見てきたんだろうな」




蓮は、ただ黙って耳を傾けていた。目の前のカウンターが、自分が毎日磨いているこの場所が、急に長い歴史を持つ、特別なもののように感じられた。祖父から受け継いだのは、店だけではない。そこに積み重なった時間や、人々の想いも含まれているのだと、改めて気づかされた。


「君も、静かに客の話を聞くところは、お爺さん譲りかもしれんな」 男性は、蓮の顔を見て言った。 「派手さはないが、誠実な仕事をしているのが伝わってくるよ。このスコッチの味も、氷の溶け具合も、お爺さんの頃と変わらん。…安心した」 その言葉は、蓮にとって何よりの賛辞に聞こえた。




やがて、男性はグラスを空け、満足そうに息をついた。 「…うん。店主は変わっても、この『灯火』の空気は、変わらんな。お爺さんの心が、まだここにちゃんと息づいている証拠だ」 彼はゆっくりと立ち上がり、帽子を手に取った。 「良い店を継いだね。これからも、大切にしなさい」 その言葉は、まるで先代からのメッセージのように、蓮の心に深く響いた。


「今日は、懐かしい話ができて良かった。ありがとう、若いの」 「こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました」 蓮は深く頭を下げて、男性を見送った。




客が去った後も、蓮はしばらくカウンターの内側で佇んでいた。祖父が立っていた同じ場所に立ち、祖父が見ていたかもしれない景色を見る。ここには、確かに時間が堆積している。そして自分は、その続きを生きている。 カウンターに残るスコッチの芳醇な香りが、まるで過去からの励ましのようにも感じられた。蓮は、祖父への敬意と、自らの役割への新たな決意を胸に、そっとカウンターを磨き始めた。

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