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第10話 「紳士と密かな熱狂」

四月に入って最初の水曜日。夜九時半を回り、『Bar 灯火』には静かな時間が流れていた。カウンターには、蓮が「高橋さん」と認識している常連客が一人、いつもの席に座っていた。




高橋さんは、おそらく五十代前半。いつも隙のない上等なスーツを着こなし、高価そうな腕時計をつけ、表情は常に厳しく、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。週に二、三度、仕事帰りに立ち寄り、決まって「ジンで、ベリードライ。レモンツイストでシェイクして」と、寸分違わぬオーダーでマティーニを一杯だけ飲むと、三十分ほどで店を出ていく。会話も、天気の話か、当たり障りのない経済の話題がほとんどだった。




その夜も、蓮はいつものように、寸分の狂いなくドライマティーニを作り、高橋さんの前に差し出した。 「どうぞ」 「ありがとう」 短い返事と共に、高橋さんはグラスを受け取り、鋭い目でカクテルの透明度を確かめるようにしてから、ゆっくりと口をつけた。そして、いつものようにスマートフォンを取り出し、仕事のメールでもチェックし始めるかと思われた、その時だった。


彼の視線が、カウンターの隅に置かれた小さなオブジェに留まった。それは、蓮が古道具市で見つけて、なんとなく気に入って飾っている、帆船の形をした真鍮製の小さなブックエンドだった。 「…その船、…面白いですね」 高橋さんが、珍しく個人的なものに言及した。その声のトーンも、いつもよりわずかに柔らかい。 「ああ、これですか。ちょっとした飾りです」 蓮が答えると、高橋さんは少し躊躇うように視線をさまよわせ、そして意を決したように言った。 「…いや、実は、最近…その、木製の帆船模型を作り始めまして。非常に、細かいやつです」 言いながら、彼は少し照れたように俯いた。いつもの厳しい表情からは想像もつかない、少年のような一面が垣間見える。




蓮が驚きつつも静かに次の言葉を待っていると、高橋さんは堰を切ったように語り始めた。 「これが、また、大変なんですよ。図面通りに寸分違わず木材を切り出して、組み上げていく。特にロープを張る作業、いわゆるリギングというんですが、これがもう、気が遠くなるほど細かい。ピンセットで、結び目を一つ一つ…」 彼の目が、生き生きと輝き始めた。声にも熱がこもる。 「でもね、それがいいんです。仕事のことを完全に忘れられる。ただひたすら、目の前の作業に没頭する。…一種の瞑想ですよ。完成した時の達成感も、格別ですしね」 彼はマティーニを飲むのも忘れ、夢中で語り続ける。 「この間なんか、ネットオークションで、ずっと探していた70年代のイタリア製のキットを見つけましてね!もう、宝くじに当たったような気分でしたよ!」 興奮気味にそう言うと、彼はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。しかし、メールをチェックするためではない。 「これ、見てくださいよ。今作ってるやつですが…」 画面には、製作途中の精巧な帆船模型の写真が表示されていた。細部まで作り込まれた甲板、美しく湾曲した船体。彼の熱意が伝わってくるような写真だった。




「…それは、素晴らしいですね。大変、根気のいる作業なのでしょうね」 蓮が感嘆の声を漏らすと、高橋さんは満足そうに頷いた。 「ええ、まあ。でも、時間を忘れますよ」


そこまで話して、彼ははっと我に返ったようだった。蓮の少し驚いたような表情を見て、急にいつもの厳しい顔に戻り、咳払いをした。 「あ…失礼。つい、夢中になってしまいました。くだらない話を長々と…」 彼は慌ててマティーニグラスを手に取った。耳が少し赤くなっている。 「いえ、とんでもございません」 蓮は穏やかに言った。 「夢中になれるものがあるというのは、素敵なことだと思います」


その言葉に、高橋さんは少しだけ表情を和らげた。そして、残りのマティーニを静かに味わった。いつもの彼に戻ったようだが、纏う空気は先ほどまでの厳しさとは少し違い、どこか人間的な温かみが感じられた。




「…ご馳走さま」 グラスを空けると、彼はいつもより少しだけゆっくりと席を立った。 「お付き合いいただき、感謝します」 そう言って、彼は会計を済ませ、軽く会釈をして店を出ていった。




蓮は、高橋さんが見つめていた帆船のブックエンドに目をやった。いつもそこにあるただの飾りが、今夜は少し違って見えた。あの厳格な紳士の心の中に隠された、密やかな熱狂の世界。人は誰しも、見えている姿だけが全てではない。 高橋さんが去ったカウンターで、蓮はマティーニグラスに残ったレモンピールの香りを確かめながら、静かに微笑んだ。

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