第72話 駐屯命令
帝都ザウアーシュトフが騒然としたのは、教皇領占拠の報が届いた翌朝だった。
宮廷の廊下では、小声の相談が絶えない。各貴族家の使者が右往左往していた。教皇領の占拠。前代未聞、空前絶後の戦果だった。
アントワネットはクラウディアの執務室を訪れた。今度は侍女も下がらせなかった。それだけ急いでいた。
「妃殿下、お聞き及びでしょう」
クラウディアは書類を机に置いた。
「聞いた」
「このままセシリアを凱旋させれば、どうなるか」
アントワネットは立ったまま言った。
「セシリアが、教皇領を占拠した皇女が、帝都に戻ってくる。となれば、民はどちらを見るかは火を見るよりも明らか。即位したばかりの陛下ではなく、戦場で勝ち続けた皇女を見ることでしょう」
クラウディアは何も言わなかった。
「凱旋させてはなりません」
アントワネットは言った。
「教皇領に駐屯させるべき。支配を確立するという名目で、そのまま留め置く。帝都に戻れなくなる理由を与え、ほとぼりが冷めるまでは遠くの地に留め置くべき」
クラウディアはしばらく考えた。
「クリプトン帝政への攻撃は?いまならば余勢をかって更なる領土拡大も出来るし、また、そうした意見も強くあるが」
「禁じます。これ以上の手柄は不要です。駐屯して、領地を守るだけでよいと命じるべきです。地味な任務ですが、必要なことでしょう。帝国も戦争続きで占領地に送る兵が足りないのは事実。言い訳なら十分にできるはず」
クラウディアは窓の外を見た。
「……命令を出す」
アントワネットは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
―――
ハートフィールド侯爵の屋敷での集まりは、いつもより空気が重かった。
集まった貴族たちは、それぞれ複雑な顔をしていた。セシリアの戦果は、侯爵派にとって都合が悪かった。前線で手柄を立てるどころか、帝都で教会の資産を漁っていた自分たちとの対比が、あまりにも鮮明だった。
その中で、一人の貴族がエドワードとヘンリーに近づいた。
「ラザフォード殿」
にこやかな顔だった。しかし、目が笑っていなかった。
「優秀な弟君をお持ちですな。フェルゼンブルクの火計、教皇領での活躍、噂は帝都にも届いていますよ」
エドワードは無表情のまま頷いた。
「ご兄弟ですから、お二人とも戦場でご活躍できるのでは?ラザフォード家の血筋なのですから」
ヘンリーの目が動いた。しかし、何も言わなかった。
「いやあ、出来損ないなどとは言えませんなあ。ご活躍されているのですから」
貴族は笑みを深めた。
「ご兄弟でのご活躍を、期待しております」
そう言い残して、その貴族は離れていった。
エドワードは視線を前に向けたまま、低く言った。
「……帰るぞ」
とても、その場に居られるような雰囲気ではなかった。
―――
屋敷に戻ったエドワードは、玄関で上着を脱ぎながらヘンリーに言った。
「グレアム殿に相談してくる」
「こんな夜中にですか」
「ああ。そもそも、教会の資産を我がものとするのはグレアム殿の策。その策を講じた結果、批判が集中するのであれば、グレアム殿にも責任はある」
エドワードは振り返らずに外に出た。
残されたヘンリーは、廊下に立っていた。
屋敷の中は静かだった。使用人たちは奥に下がっている。
ヘンリーは拳を握った。
脳裏に、先ほどの貴族の笑顔がよみがえった。
「優秀な弟君」
「ご兄弟でご活躍を」
強く奥歯をかみしめ、恥だ、とヘンリーは思った。あの庶子のせいで、自分たちが笑われている。輸送部隊の少尉でしかない、半分は卑しい平民の血が入った弟が活躍するたびに、自分たちへの嫌味が増す。
廊下の向こうから、足音がした。
メイドだった。若い娘だった。夜の巡回をしていた。
そんな彼女はヘンリーの姿を見て、軽く頭を下げた。
「ご帰宅なさいましたか。何かお持ちしましょうか」
ヘンリーは答えなかった。
拳が動いた。
拳はメイドの鼻を直撃。
メイドがぎゃっと短い悲鳴をあげながら倒れた。壁に掛けられた燭台の炎が揺れた。
ヘンリーは止まらなかった。
倒れたメイドに馬乗りになる。
先ほどまで味わっていた屈辱が、拳に込める力を増幅させる。
「ジョセフが!ジョセフごときが!」
殴られるメイドとは別の、弟の名前を叫ぶ。
しばらくして、ヘンリーは手の震えに気づいた。
床に、メイドが横たわっていた。動かなかった。
冷静になると、自分の拳が濡れていることに気づく。そして、鼻をつく鉄の臭い。
炎の光でも、赤い色が見えた。
ヘンリーは廊下に立ち尽くした。
騒ぎを聞きつけて、他の使用人たちがやってくる。
「片づけておけ」
ヘンリーは苛立ちまぎれにそう言って、自分の部屋へと行ってしまう。
使用人たちは、顔を見合わせて困惑した。
―――
教皇庁の一室は、午後の光が差し込んで穏やかだった。
テーブルには茶の用意がされていた。茶器は教皇庁にあったものだ。質がいい。カリナが丁寧に並べた。
その部屋は新しい主を迎えていた。セシリアだ。
セシリアが上座に座っていた。向かいにジョセフ。その隣にマルチ。
名目は、禁書庫の書物の解読だった。
部屋の外に控える将校たちへの説明として、そう伝えてある。実際、テーブルの脇には古い書物が数冊積んである。一応、体裁は整えていた。
カリナは茶を注ぎながら、内心で思った。
(マルチ殿まで呼ぶとは――)
セシリアがマルチを呼んだのは、昨日のことだった。理由は特に言わなかった。しかし、カリナには見当がついた。二人きりにならないための措置だ。
(意地なし)
カリナは表情を変えずに茶を注ぎ続けた。
マルチは茶を両手で持って、おとなしく座っていた。呼ばれた理由がわかっているのかいないのか、はたまた、このような場での作法を知らないことからの焦りか、落ち着かないようではあった。
ジョセフは書物を一冊手に取って、ぱらぱらとめくっていた。
「これ、ラドン教の設立初期の記録ですね」
「そうか。何か有用なことが書いてあるか」
「もう少し読んでみます」
穏やかな午後だった。
扉をノックする音がした。
「入れ」
カリナが扉を開けた。外の将校が命令書を差し出す。帝都からの使者が届けたものだった。
カリナはそれを封を切ると、セシリアに渡した。
セシリアは命令書を取り出すと一読した。
しばらくの沈黙――
ジョセフは書物から目を上げた。セシリアの表情を見た。いつもの無表情だった。しかし、目の奥に何かがあった。
「教皇領への駐屯命令だ」
セシリアは命令書を机に置いた。
「クリプトン帝政への攻撃は禁じる、と。帝都への帰還は当面なし、と。帝国の状況を鑑み、占領が可能なのはここまで。これ以上は兵員不足で領地を切り取ったところで、占領は出来ないとの判断だ」
ジョセフは何も言わなかった。
マルチも黙っていた。
カリナは扉の前で、静かに立っていた。
「随分と嫌われたものだな。これ以上手柄を立てさせない。それと、手柄を立てた私は凱旋させない。露骨ではあるが、反論しにくい理由もある」
セシリアは呟いた。
そして、ジョセフの顔を見る。
「さて、ラザフォード少尉。貴官を参謀として迎えようと思っていたが、帰国出来ないなら野戦任官しかないか」
「小官としては、この地でゆっくりできるなら、それで構いませんよ」
窓から、午後の光が差し込んでいた。




