第三章 盗賊領主はハンコウする編 「幻の最中で取り戻したもの」後編
目映く、柔らかな光に充たされた原風景の中で佇むひとりのゴブリン……。
幼き日より過ごしてきた森を見下ろしながら、何処かでそれがもう失われている事を認識し、目を細めて自嘲してしまう。
いずれ全てが風化してゆく……そう受け容れた筈の哀しみに浸っていると、不意に足音が近付いて来るのが聴こえた。
「やっぱりここに居だか……。」
「………。」
「どう?あなだが教えてくれだ人間の言葉、上手く喋れでいるでしょ。」
声に対し振り返ると、そこには自身と瓜二つのゴブリンが明るい笑顔で立っていた。
……だが直前に紡がれた『人間の言葉』という響きに気づき、複雑な感情が渦巻くのを認めつつ、片割れは息を吐く。
「……長老だちは故郷の放棄を決めだのか。」
「まだ思い入れも浅いじの……ぞれに同胞の血が流れ過ぎだ、私だちではごの土地は守れないわ。」
「………。」
「一番目の息子の事はあなだのせいじゃない。」
静かに……ただ静かに……流れる風が両者の髪を撫でてゆく。
「姉様……それでも私には割切れねぇのよ。」
そう唇を噛み、目を伏せた彼女とは対照的に、姉と呼ばれたゴブリンは真っ直ぐな面持ちで見据えたまま、揺れる髪をすく……。
「ね……ぇ……てる?」
にわかに風鳴りが強まり、言葉を掻き消してしまう。
「………!?」
それでも……姉は言葉を紡ぐのを止めない、その唇を見つめる、目を離す事等出来なかったのだろう。
「子供の頃にふたりで付けたヒミツの名前……ふたりでひとつの合言葉……。」
「……わ、わた……しは……わ、儂は……。」
「ーー思い出しで!!」
その瞬間、原風景は色を失い暗転した……。
ーー月明かりの薄まった森林内にて、
「手こずらされたが、これで終わりだババァ。」
茫然自失のまま棒立ちに陥っている婆の眼前で、ソニアは嗜虐者の笑みでナイフを振り上げる。
絶対的勝利の予感、全身を駆け巡る快感物質……抗えぬ圧倒的余韻、後ろ髪を引かれながらも、一息に、ソニアはナイフを振り下ろす!!
しかしその刹那、喜びに打ち震えるソニアの相貌が歪む。
「ーーーッ!?」
と同時に、突き抜ける衝撃と共に宙空へと吹き飛ぶソニアの身体。
一体何が起きたのか?驚きつつ宙で身体を翻し、両足で着地すると遅れる形で痛みが走り、血の滴る顎を拭って彼女は顔を上げる。
「ーーーッ!!!?」
余りに苦々しく、声にならぬ絶唱を上げたソニアの視線の先……尚も自失状態である婆の側に立っていたのはマイケルであった。
……至福の時を邪魔され、瞬間的に明らかな害意を彼に向けるソニアであったが、直ぐに愉悦へと表情を戻す。
「さっきの……生きていたか、けど辛そうだな、折れてるんじゃないか?その顎。」
「………。」
けらけらと戯けて見せるソニアに対し鼻息を鳴らして拳を構えるマイケルだが、ソニアの指摘通り、閉じる事の出来なくなった口元から涎混じりの血が滴り落ちていた。
(息がヤバい……血の匂いしかしねぇ、だが今は俺がこいつを何とかするしかねぇよなぁ。)
断続的に遠のく意識をソニアに悟られぬ様に必死で繋ぎ、マイケルは腹部へ力を込めて一足で跳ぶ!!
距離を詰めてから、ランダムで挙動を変えて敵の周囲を幾度も跳び回り、徐々に交戦範囲へ迫る。
「五月蝿ぇハエだな……。」
高速での撹乱をしつつ、必殺の機会を狙っているのだろう……だがそれは愚策、悪手とソニアは心中で嘲る。
まだ幻術に堕ちてこそいないが、心は読めているのだチャンスは永遠に訪れない、寧ろ消極的にマイケルが手をこまねいている内に幻術に嵌る危険性が高まってゆく、これ程都合の良い展開が在るだろうか?
嘲笑を称え、微動だにせずに眼でマイケルの動きを追うソニア……否、それはブラフ、ポーズでしかない。
「ーーーッ!!」
虚を突き繰り出される狙い澄ました攻撃は……悲しいかな、ソニアの想定内に収まるものであった。
この時点で彼女の思考から『反撃』の文字は無くなった、ただひたすら防御に徹し続ければ、あとは勝手に羽虫が蜘蛛の巣に絡まって自滅してくれるのだ。
いやもっと酷く、ソニアの眼にマイケルは灯蛾が如く映っていただろう。
確かに状況は圧倒的にマイケルの不利を指し示す、力においての格付けは済んで覆らない。
(………。)
しかし……しかし、それはあくまで両者の間での差であり、有利ではあるが決め手たり得ないのだ。
敵との力量の差然り、策謀、環境、時運に左右され生死を決する天秤は少なくともまだ目まぐるしく揺れ続けている。
そういった観点で言えば、ソニアの認識は僅かずつズレを生じさせていたのかもしれない。
……そして、ついに天秤の傾きを大きく決する瞬間が訪れる。
ここまでおよそ、数十〜百にも及ぶ攻防の中でソニアが捌き切れなかった打撃をガードした場面が数度在った。
ーーっみしり、と軋む腕に鈍いイラつきを覚え、思わず彼女は振り払い様に拳をマイケルへ打ち込んでいた。
条件反射に近い右ストレートが鼻柱に炸裂した直後、ピタリと動きを止めるマイケル……。
やがてよろける様に後退りし、べりっと肉が引き剥がれる音がするとひしゃげた鼻から紫色の血が噴出した。
そのまま膝から崩れかけたマイケルであるが、咄嗟に踏ん張り不格好な姿を晒しながらも何とか後方へ跳ぶ。
「………。」
「………。」
再び距離を空け、沈黙のまま見合う両者……。
微かに息の乱れたマイケルを憐れみの眼差しで観つつ、内心でソニアは勝利の確信に打ち震えていた。
安心感と言っても差し支えない……だがそれだけに次の瞬間、マイケルが取った行動に戸惑ったであろう。
構えを解き、脱力のまま棒立ちとなったのだ。
一見すると婆と同様の姿にも見える……『観念したか』ともソニアは結論づけようともしたが一瞬でその思考を振り払った。
(この顔は諦めた奴のモノじゃない……!?)
事ここに至り名状し難い寒気に襲われ、喉の奥から込み上げる酸っぱい味を認識し、初めて自身が取り返しのつかない失態を犯したのでは?と気付く。
そんなソニアの疑念に応える様に……惚けた様に佇むマイケルの背後、遠くで同時に三体のグールが血肉を撒き散らしながら宙空へ舞った。
その直後!!マイケルが動かす事もままならない口角を上げて笑った気がした……そして。
「ーーーッ!?」
突如としてマイケルの脇を黒い風が掠める様に吹き抜け、吹き飛ばされるソニア。
木々を薙ぎ倒して飛ばされながらも身体中に広がる鈍痛に理解が追いつかない。
が、まだ終わらない、吹き飛びつつ認識外の空白から幾重もの衝撃がソニアを襲い、その身体は何度も方向と軌道を変えて飛ばされ続ける。
「ーーく、っそがぁぁアアーー!!!」
激高を以て己を震わせ、大木の幹を蹴った反動で正体不明の虚空へ拳を振るう!!……が、届く筈が無い。
しかし直後、肩口に凄まじい熱痛を感じた事でその正体が露見する。
突然、身体に組み付かれて純白の法衣の上から肩を咀嚼、容赦無く噛み千切られ更に地上へとソニアは叩き落とされた。
激突の衝撃で一度、身体をバウンドさせて声に成らぬ呻きを垂れ血を吐くソニア……数拍の後、地べたを這う彼女は顔を上げ、目の前へ降り立ったその姿に絶句せざるを得なかった。
「ーーー。」
そこには小柄なゴブリンの老婆が立っていた……居たのだが、その様子が異質過ぎた。
獰猛な牙で尚も布地ごと血肉を咀嚼し続け、その偶蹄目の瞳からはあらゆる感情が失われている、否、純粋無垢なる本能が感情を塗り潰していると表した方が正しいだろうか。
ソニアは今一度、速攻を以て幻術による掌握を試みる、が効力を発揮しない、それ所か幻術は最初から解けて等いなかったのだ。
まさしく彼女にとって婆は説明のつかぬ理外の存在であっただろう。
更に追い打ちを掛ける事実は続く。
(ば、馬鹿な……心が読めない……だと!?)
信じ難かった……心の声も読めず、幻術も解けてはいない、その上で敵は一貫して自分を狙ったのだ。
結びつかぬ相反する筈の事実の数々、ソニアが混乱に陥るまで然程時間は掛からなかった。
何とか上半身を起こし恐怖の声音を洩らしながら後ろへとズリ動く、そんなソニアの姿をただ見つめる偶蹄目の瞳……。
次の瞬間、ソニアの身体は今一度、蹴り上げられ吹き飛ばされかける……が、逃がさない。
蹴りの衝撃が抜ける前に右足首を掴まれて、抑え込まれたまま右脹脛を咀嚼される。
紅い血飛沫が散華を飾る最中、対極の立場に起つ二人の絶叫が木霊した。
(殺される……!?)
久しく忘れていた絶対的恐怖の渦に呑み込まれつつ……停滞した刹那の最中でソニアは自身の拳に視線が合う。
ーーそれは不意に訪れた気付きだった。
(あのヤロウ……まさかっ!?)
拳に付着した紫色の血液……駆け巡る思考は全ての答えをやっと導き出した。
そう、マイケルの目的は最初から『殺す』事ではなく、自身の血液をソニアに付ける、おそらくはマーキングにあったのだろう。
そこに辿り着き、相反したみっつの事実が一点で結ばれる。
あり得ない、夢想とも揶揄出来る真実……あの時、マイケルは婆を一目見てその状態を看破し、賭けたのだろう。
婆の発現、覚醒、『家族』の血臭で目覚める強き本能。
信じられない、信じられる訳がない、幻術によって完全に閉じられ、掌握された五感に勝り、且つ縛られぬ……『第六感』という最も闘争本能に根付いた感覚。
如何に信じ難くとも、現実に自分を蹂躙する婆の姿が全てを肯定していた。
「ーーー!!」
ならば実行しうる打開策はひとつしかない、ソニアは身体から散布される幻覚物質を閉じ、即決で幻術を自ら解く……と、ほんの数秒で婆の動きが止まる。
その流れに便乗して態勢を立て直し、後方へ、婆から距離を取る様に跳んだ。
「………。」
「………。」
身体を強張らせ、ソニアが注視する最中……だらりと俯いていた婆はほんの数拍の後、意識の籠もった呻きを洩らす。
ソニアは動けない、少し考えれば無防備な今こそが最大の機会である筈だが、恐怖に後ろ髪を引かれ、躊躇いという致命的な停滞に侵されて行動を先延ばす。
……やがて、顔を上げた婆の瞳には理性的な光が戻っていた。
「現実か……少し見ない内に随分とくたびれたのぅ。」
地を這う様な冷酷な声音に、固まっていたソニアの身体は一斉に震えだす。
「お、お前は一体何者なんだ!?ただのゴブリンじゃないのかッ!!?」
「………。」
……問いかけが風に呑まれ、残響さえ失われた後、静かに婆の低い笑い声が洩れる。
「……ならば儂の心を読んでみよ。」
「ーーー!!?」
蔑み、憐れむ様に拡がり蝕む沈黙……。
「……やはりな、お前は表面的な心を読めても、その裏に流れる膨大な思考までは読めない。」
指摘と前後し、ソニアへと一歩を踏み出す婆……。
その重圧に……耐えきれず、絶叫に喘ぎながら上空の枝へ跳ぶソニア。
「ただのゴブリンじゃよ、ナーサ・リー・ポピン(二人のひみつ)という名のな……。」
「ーー羽虫共っ!?オレを救え!!」
婆の最後の答えを掻き消し、絞り出す様に喚き散らすソニア、ーーその直後、突如として枝葉の下へと降下してきた三体の統率者によってソニアはボロボロの身体を鷲掴みにされ逃亡を謀る。
一瞬で枝葉の笠を抜け、僅かな安堵に悦んで視認していたナーサへ下衆な笑みを向ける。
「テメェのツラは覚えたぞババァ!!!」
生き残りを確信していたのだろう捨て台詞を吐いたその瞬きに……またしてもソニアは恐怖で固まった。
大木の幹を駆け上がり、上空へと迫るナーサの姿。
だが凄まじい跳躍を見せたその勢いはみるみる衰えて落ち始める。
高度が足りない、逃げ果せる!!再び安堵を手繰り寄せ、罵倒の勝どきを上げようとした刹那であった。
「ーーー!?」
ナーサに遅れる形でマイケルが跳躍し、軸足を上へ振り出す……そしてーー
ーー二人の軸足が一点で衝突させた反動でナーサの身体が更に押し上げられた。
まだ十分な高度を得られていなかっただろうソニアの視界が、月明かりを妖しく反射させた鋭き爪で埋め尽くされる。
それは……月下で瞬いた、儚げで美しい一閃であったという。
ソニアを始め、三体のグールの身体を分断せしめ彼岸花の様に散らしゆく雫たち……彼らは自身の絶命に果たして気付けただろうか?
事を終え、ナーサは自由落下に身を任せて、ただ月を眺めていた。
『ーーあんだは(わだしの)希望なんだ、わだしは(あんだの)帰る場所になっがら。』
つづく




