第三章 盗賊領主はハンコウする編 「幻の最中で……」前編
……少しずつ夜は更け、朧月に照らされた森の一点が凄まじい地響きと共に窪んでゆく。
巨木がへし折れて数体のグールが潰され足掻くのを尻目に、薄汚れた自身の法衣を叩くソニア。
「……っこのババァ、本当にゴブリンか?」
そう宣いながらソニアが視線を正面へ正すと、不規則に立ち並ぶ木々のシルエットの奥から小さな人影が近づいて来ているのが見え、微かに彼女の表情が歪む。
「………。」
やがて眼前へ姿を現しながらも、一切の感情も気配も感じさせずまるで幽鬼が如く佇む小柄な老婆……。
(次の初撃は前蹴りか……厄介な、事前に読まなきゃ対応出来ねぇ速度なんだワ。)
次の瞬間、あたかも転移したと見紛う程、唐突に距離を詰めソニアの眼前に姿を現す婆。
ゾクッ……と背筋へ冷たいものを感じながらも両腕での防御態勢を取るソニア。
激突の刹那……婆が迅雷の如き速度で撃ち放った蹴りは吸い込まれるかの様にソニアのガードによって阻まれる。
が、その凄まじく重く、鋭い衝撃を受け切れなかったのかソニアの身体はくの字で後方へと飛ばされ、またもや大木に激突しかけてしまう。
(………。)
既の所で身体を翻し、右足踵を大木へ添える様に着けて衝撃を殺す……がまだ終わりではない。
間髪入れずにソニアは唇を窄め、追撃を狙うべく飛び込んで来た婆へ短く息を推し吹く。
しかし対する婆も嫌な気配を察したかの様に即座に頭をのけ反らせ、息吹を避けつつ続けて二〜三歩分下がる。
「………。」
やがて両者の間に再び沈黙が流れる、臨界まで張り詰めていた筈の空気は仕切り直しと言わんばかりに落ち着いている……あくまで表面上での話だが。
敵を見据えながら、視界の端に映る木の幹に意識を向ける婆。
そこには月明かりを僅かに反射させた無数の針が刺さっているのが視えていた。
(毒か、それにおそらくは……。)
「へー、もう気づいたのかぁ、うん今テメェが『考えた』通りだゼ。」
意表を突くように、突然、意気揚々と言葉を紡ぐソニア、その表情は悪戯を仕掛けて悦に入っている様に歪む。
(なるほどの……暗器や幻術だけじゃなく、他者の心の声も覗くか、悪趣味じゃな。)
「はは、心中でしか強がれねぇか?さっきからオレの幻術を警戒してるが、もう無意味なんだよ。」
「………?」
『無意味』……そう告げた直後、ソニアは右手を婆へ差し向け、中指と親指を弾き鳴らす。
その刹那、婆の見ている景色が微かに変わった……気がした。
実際の景観との違いはは判らない、だが肌感覚で捉える空気が違うと、婆の本能が告げている。
しかしそんな違和感を探る時間をソニアが許す訳もなく、間を置かず土塊を突き破って無数の手が……やがて姿を現した夥しいグールを見据えた途端、婆は自身の変化に気付いた。
「………!?」
動悸、四肢の震え、過呼吸、悪寒、身体の過敏なる反応に疑念を抱く余裕も無く、それ以前に眼にしたグール群から逃げ出したい感情に思考が支配されかける。
戦いの最中においてこれ程に致命的な事態が存在するだろうか?
ソニアの言葉通り、既に婆は彼女の幻術、その術中に嵌められていたのだ。
元来、幻術……幻惑とも言われる状態異常の付与とは、その方法と作用におおよその段階がある。
原始的なものでは毒物や薬物による五感や感情を狂わせる手法で、長期となれば対象の脳に壊滅的な損害を与えてしまう。
またそれらに比べ、魔法や呪術大系での幻惑とは直接精神に作用する方法であり思考の操作さえ容易とする高等魔術に分類される、前者は肉体作用、後者は精神作用と呼べるだろう。
一度幻術を破った婆ではあったが、それ自体は意図したものではなかったが為に、その契機や手法を看破出来ずにいた。
故に一撃必殺&離脱による短期決戦を挑み、極力接触を避けようとした、無論、瞳術(呪術)の類いを疑ってもいたのだが、果たして彼女は同じ轍を踏んでしまったのだろうか?
事実を述べれば『同じ轍をーー』とは少々異なる。
まず、あからさまなブラフもあると踏まえていた瞳術の警戒だが、これは当たっていた……つまり、視線を合わせなければ幻惑効果は皆無である。
しかし、もうひとつの手法には辿り着けていなかった。
寧ろソニアにとっては瞳術こそブラフであり、その手法を隠す為の陽動であったのだ。
それは彼女の身体から分泌される体液、特に揮発し易い特性を備えた汗に秘密がある。
ソニアから分泌された汗は空気中に散布、混ざる事で強力な幻覚作用を齎し、これを呪術的触媒として対象へ数倍の効果を与えられる。
気付く所か相対した時点で五感を掌握されていてもおかしくない初見殺しと言えるだろう。
実際、婆は知らぬ間に術中に嵌められていた。
「………。」
今、ソニアは厭らしい笑みを浮かべて婆を見やる……現実では婆は放心状態での棒立ちを余儀なくされている。
後は赤子の手を捻る様に手を下せば終わりである、ゆっくりと、ゆっくりと余韻に浸りながら歩を進めてソニアは法衣の袖に仕込んだナイフを取り出した。
「………。」
ーー幻覚世界において、今や婆は死者の大群を前に怯え、動けずに居た。
グールだけではない、過去に相対した敵や看取ってきた仲間達……それらが折り重なるかの様に押し寄せ、一様に怨嗟の言葉を婆に浴びせ掛けてくる。
抗えない、抗い様のない痛烈な後悔によってその精神は更に蝕まれてゆく。
そして気付く、眼を奪われてしまう……死者の群れの一画、もう逢えない、どれだけ渇望しても届かない者からの叫びに。
(……姉様……姉様さえ儂を貶めるのが!?)
ーー姉妹でありながら、何故お前だけが何時も何時も自由だった!!
ーー何故ワシだけが囚われ続けなければならんがっだ!!!
ーー死す時は共にと言っておっだのに……何故にお前だけがのうのうと生きでいるっ!!!?
ゆっくりと言葉は婆へと迫り、伸ばされた死者達の手が、愛しき姉の血涙で歪んだ顔が躙り寄る……。
(儂は、儂らは……間違っておっだ。)
急速に萎えてゆく感情の末に、死にたい、死ねばきっと許されるという思考が心を占め……婆は贖罪を求めて闇へと堕ちてゆく。




