境界宙域の影
第9話
「境界宙域の影」
惑星アステリアの朝は、リングの光から始まる。
空にかかる巨大な輪が、薄い金色に輝き、街の屋根や観測塔をゆっくり照らしていく。
だが、その美しい朝の下で、アレン・レイフォードの家は相変わらず騒がしかった。
「兄ちゃん、パン焦げてるで」
「焦げてへん。これは香ばしさや」
「黒いやん」
「黒も香ばしさの一部や」
妹のリリィが冷静に言った。
「それ、前のカレーと同じ言い訳やで」
母エレナが台所から振り向く。
「アレン。あんた、また火加減見てへんかったやろ」
「母さん、俺は観測士や。星は見れる」
「トースターも見なさい」
父ダニエルが新聞型端末を見ながら笑った。
「星よりパンのほうが近いのにな」
「父さんまで!」
アレンは黒くなったパンを見つめた。
「……これは、境界宙域の影を表現した芸術作品や」
リリィが即答する。
「食卓に戦争持ち込まんといて」
いつもの朝だった。
大阪弁が飛び交い、母がツッコミ、妹が追撃し、父が余計な一言を足す。
だが、テーブルの上に流れているニュースだけは、いつもと違っていた。
『ノクティア共和国艦隊、境界宙域での訓練を継続。共和国側は、航路安全条約への違反はないと主張しています』
エレナの表情が少し曇った。
「またこの話か」
ダニエルも端末を閉じる。
「採掘権やら利権やら、上の連中は好き勝手言うとるけどな。そこに住んどる人間のこと、どれだけ見えてるんやろな」
リリィがパンを皿に置いた。
「学校でも先生が言うてた。境界宙域の通商船、遅れが出始めてるって」
アレンは黙っていた。
観測局にも、すでに異常データは届いている。
通常訓練にしては艦艇の動きが不自然すぎる。
資源採掘衛星付近に、必要以上の無人警戒機。
通信ノイズ。
航路変更。
それはまだ戦争ではない。
けれど、戦争の前に漂う、嫌な匂いだった。
アレンは、ふとルミナスから届いた映像を思い出した。
三つの月。
洗濯槽みたいな海。
博多弁で笑う三姉妹。
そしてミラの声。
『あなたの星のことも、教えてください』
アレンは小さく笑った。
「採掘権か利権かなんか知らんけど……」
リリィが顔を上げる。
「何?」
アレンは黒焦げパンを掲げた。
「うちらのボケツッコミが世界を救うかもしれへんで」
エレナが即座に言った。
「まず朝ごはんを救いなさい」
ダニエルが吹き出した。
「そっちはもう手遅れや」
リリィも笑った。
「兄ちゃんのパン、停戦交渉に出したらええねん。敵も味方も黙るで」
「兵器扱いすな!」
笑い声が食卓に広がった。
ニュースの重さは消えない。
けれど、笑いがあるから、沈みきらずに済んだ。
その頃、惑星ルミナス。
星野家のリビングでは、ミラがアステリア方面のニュースを追っていた。
ヒカリは横で腕を組む。
「ノクティア、通常訓練って言い張っとるんやろ?」
ユウが不安そうに言う。
「でも、訓練にしては近すぎるって外交官さん言ってたね」
父・航平が低くうなずく。
「航路に圧かける時の動きたい。貨物船乗りならわかる。あれは、ただの訓練やなか」
母・美咲も険しい顔をしていた。
「緊張が高まると、最初に苦しむのは現地の普通の人たちよ。病院、学校、物流、食卓。全部に影響が出る」
ミラは端末を握る。
「アレンさんたち、普通に朝ごはん食べられとるかな」
ヒカリは少し笑わせるように言った。
「アレンさんのことやけん、パン焦がしとるかもしれん」
ユウがくすっと笑う。
「ありそう」
ミラも少しだけ笑った。
「ありそうやね」
でも、その笑いの奥に、不安は残った。
その日の午後。
ルミナス星系外交局では、セリナ・香月外交官が連邦代表部との通信会議に臨んでいた。
「ノクティア共和国に対し、艦艇の即時後退と、境界宙域での無人警戒機運用停止を求めます」
相手側の連邦高官が応じる。
『ノクティアは通常訓練の範囲内と主張しています』
「通常訓練なら、民間航路へ圧力をかける必要はありません。星間航路安全条約第十二条に抵触する恐れがあります」
『強い表現ですね』
「弱い表現で止まる相手なら、ここまで来ていません」
セリナの声は静かだった。
だが、そこには強い意志があった。
「戦火が起きてからでは遅いのです。私たちは、起きる前に止めるために動いています」
その言葉は、外交局内部の記録として残された。
しかし、ノクティア側からの返答は冷淡だった。
『我が国の艦隊行動は主権に基づく通常訓練であり、外部からの干渉は受け入れない』
緊張は、緩むどころか、さらに濃くなっていった。
一方、アステリア観測局。
アレンは観測室で、境界宙域のデータを見つめていた。
先輩観測士のマルコが、低い声で言う。
「またノイズが増えた」
「自然現象ちゃいますよね」
「違うな。これは人工的な妨害に近い」
アレンは画面に表示された航路データを見た。
通商船のルートが、少しずつ遠回りになっている。
観測衛星の一部は、データ遅延を起こしている。
まるで、誰かが境界宙域に薄い影を落としているようだった。
「……リングの空は、今日もきれいなんですけどね」
マルコが横を見る。
「急に詩人か?」
「いや、遠い星の人に教えたいなと思って」
「例の博多弁の子か」
アレンはむせた。
「な、なんで知ってるんですか」
「観測局中が知ってる。カレー焦がした通信の件で」
「それ広がってるんですか!」
「ついでにお好み焼き失敗映像もな」
アレンは机に突っ伏した。
「俺の料理事故、百光年規模で拡散してるやん……」
マルコは笑った。
「ええやないか。こんな時代や。誰かを笑わせられるなら、それも才能や」
アレンは顔を上げた。
その言葉が、少し胸に残った。
夜。
アレンは自宅のベランダに出た。
リングの空が、銀色に輝いている。
遠くでは、防空訓練の警報音が短く鳴り、すぐに止まった。
まだ日常はある。
でも、その日常の端に、見えない影が触れ始めている。
アレンは古い深宇宙ラジオ端末を起動した。
録音ボタンを押す。
「こちら、惑星アステリア。アレン・レイフォードです」
少し間を置いた。
「ミラさん。そっちの星は、今日も月が三つ見えてますか。こっちはリングがきれいです。ニュースはちょっと物騒やけど、うちはまだ大丈夫です」
彼は笑おうとした。
「ちなみに今朝はパン焦がしました。カレー、お好み焼きに続く第三の事故です。母さんには『トースターも見なさい』言われました」
少しだけ、声が静かになる。
「でもな、こうやってしょうもない話ができるうちは、まだ大丈夫やと思いたいんです」
アレンは空を見上げた。
「採掘権とか利権とか、正直ようわからん。でも、こっちには家族がいて、台所があって、観測局があって、しょうもないボケにツッコんでくれる人がおる」
そして、少しだけ照れたように言った。
「だから、そっちも笑っててください。俺も、できるだけ笑います」
録音終了。
送信。
その声は、すぐには届かない。
届く頃には、今の状況がどうなっているかもわからない。
それでもアレンは送った。
ラジオの向こう側に、聞いてくれる人がいると信じて。
ルミナスの夜。
まだ届かないその声を、ミラは知らない。
けれど、彼女も同じ空の下で祈っていた。
三つの月と、リングの空。
違う星。
違う方言。
違う時間。
それでも、同じ不安と、同じ願いがあった。
戦争の影が近づいてくる。
だが、その影の中で、笑い声だけはまだ消えていなかった。
次回予告
アステリアから送られたアレンの新たな通信。
しかしそれがルミナスに届くには、まだ長い時間が必要だった。
その間にも、境界宙域ではノクティア共和国の艦隊が動き続ける。
ルミナス外交局は連邦議会で強い警告を発するが、ノクティア側は反発。
一方、ヒカリは「笑いで緊張をほどく特別放送」を企画する。
次回、
第10話
「笑いは停戦信号」
冗談のような声が、時に一番まじめな祈りになる。




