1.春、到来
2026年秋の企画「旅」です。
今回はみずみずしくてエモい(と思う)描写に挑戦してみようと思います。
個人的な実験作としての側面も強く改行を増やしたり、行間やセリフのスペースを多めに取っています。
≪春≫
急峻な坂道を自転車を押して上る。
振り返るとようやく海が見えてきた。私は自転車のハンドルを握る力を少しだけ弱める。手を離してしまうと、勢いよく逆走しそうなほどの道だ。比較的平坦な道路脇のガードレールの一メートル手前でスタンドを荒っぽく立てて、改めて広がる外界を見る。
「てっ! 神戸の山からってこんなに海が綺麗に見えるじゃんねぇ」
後ろからゆっくりと坂道をのぼり小野先輩が追ってくる。
「甲斐、あんた元気やなあ」
「いやあ、綺麗な景色早く見たかったんでぇ」
花曇りの太陽に照らされ、穏やかにきらめく海を私は指さす。遠くに揺らめく波間は無限の光を反射している。ロングスカートで自転車に乗ったのは久しぶりだったが、小野先輩の実家で借りた自転車がシティサイクルでよかった。
「でも、高いところから見る海はええですねぇ」
「ああ、あんた海無し県やったもんな。でも、あんた住んどる大阪でも海はあるで」
小野先輩もマウンテンバイクのスタンドを蹴り私の隣に立つ。腕を組みながら海を見下ろす先輩の黒髪を海風が撫でる。
「大阪にも海はあるけんど、画はやっぱり神戸の方が様になりますよ」
「まあ、確かに高い位置で近い海ってのは関西やったら神戸か」
白い長そでシャツに濃紺のジーンズですらりとした長身はまるで男性のモデルさんみたいだ。女にしておくのが惜しいくらいの体型だ。
「おお! 潮の香りもする!」
「潮の香り? こんな遠くで分かるん?」
「昔から鼻はいいんですよぉ。下のほうより、上のほうがよくわかりますよぉ」
子供の頃から鼻と視力しか取り柄のない私は香る海をずっと見ていられるようだった。船が動いているか動いていないか分からないくらい遠くに見える。
「で、写真は撮らんでええの?」
「あ、そうだった! 写真撮りにきたじゃんね」
いそいそと赤と緑のチェック柄のカメラバッグからお下がりの古びたフィルムカメラを取り出す。
「んー? あ、ここか!」
慣れない一眼レフを私はのっそりと構える。電池も新品を入れておいたし、ばっちりなはずだ。
手に持つカメラは私の両手にピタッとおさまる。ファインダーを覗く。世界は全くもって暗闇だ。
「あれ? 真っ暗? なんで?」
「甲斐、慌てすぎや」
小野先輩が笑いながらレンズに付けられたままだったカバーを外してくれる。
ファインダーから光が一気に入り込み、眼前が真っ白に広がる。徐々に青い海と薄暗い雲が目に入り、私の世界は色を手に入れていく。
「でも、甲斐も物好きやなあ。今どきフィルムカメラ使うなんてよっぽどやで」
私はファインダーに目玉を押し当てたまま、神戸の海を見ていた。
「これ、死んだおじいちゃんが使ってたカメラなんです」
黒くて少し小さめの古びたカメラはニコンということだけしか私はわからない。実家にあった二本のレンズも父曰く奇跡的にカビやほこりもなく使えると聞き、私は祖父のカメラを譲り受けたのだ。
「ウチやったら肩凝るし、スマホ一択やわ」
「あははは。確かにそうかもしれませんねぇ。けんど、最近はスマホとかで撮ってすぐわかっちゃうじゃんね。これは現像するまでわからんだから、それがなんだかおもしろくて」
「そんなもんかねえ。まあ、神戸やったら海はいくらでも撮れるし、ええ写真撮ってや」
少しだけ顔を持ち上げ、小野先輩を見る。ガードレールに手をかけ、照り返す海に目を細めていた。
「はい!」
慎重にフレームの中に世界を収める。あずき色した可愛らしい電車まで走っていく。どう撮ればいいんだろうか?
シャッターを切る。
カシャリとその瞬間を切り取っていく。現像するまでこの世界はどうなっているかは分からない。でも、そのときが楽しみで仕方ない。私のような下手の横好きでもこんな感じになるんだからもっと上手な人は美しい景色をこの四角い世界に閉じ込めてしまうのだろう。
祖父もそんな気持ちだったのかもしれない。
「小野先輩、桜咲いてるトコないですかねぇ?」
私が写真を撮り続けていた間、先輩はガードレールに腰を預けてずっと私の方を見ていた。
「桜? そうやなぁ……」
目線を左上にずらし、小野先輩は難しい顔で私の問いを考えるが、それもすぐにひらめく。
「異人館か北野天満神社の方に咲いてたと思うけど。そこまで行ってみる?」
「お、異人館けぇ。そりゃあ、観光ついでにいいですねぇ!」
「ちょっと時間かかるけどね。でもさっきまでと同じで道が狭いし、危ないからそこまでも自転車は押して行くしかないで」
自転車を押して二人、狭い路地を歩く。建物の陰に海が現れたり、消えたりする。同じ海なのに場所が変わると、驚くほどに表情が違う。光の差し方、風の流れ方一つで子どものように喜怒哀楽が巡っている。地元のアルプスを思い出す。
異人館近くの駐輪場に自転車を停めて、目的の北野天魔神社を目指す。
さすが休日の観光名所。
ごった返す人、ヒト、ひとだ。異人館もたくさん観光客で賑わっていたが、複数の館があるから分散されていた。しかし北野天満神社はここだけだから、まあなんと人の多いことか。
「やっぱりいっぱい人がいますねぇ」
「まあ春やしね。みんな冬眠から覚めたんやろ」
「ええ? 関西人って冬眠するんですかぁ?」
「真に受けな。ジョークよ、ジョーク」
そんな他愛のないやりとりをしながら、英語や中国語の聞こえてくる階段をのぼりきり、振り返った。
「おおー……小野先輩、あれさっきまでいた三ノ宮のほうですか?」
「そう、あの赤い先っぽあるやろ? 朝方におったポートタワーやで。自転車こいだり、押したりして、ようここまで来たわ。疲れる」
いくらか通り過ぎてきていた五分咲きの淡い桜が目の前に咲き、都市ならではのビル群がレゴブロックのように並び、更に遠くには光を反射する海が少しだけ見える。
「でも……久しぶりに来たけど、やっぱり悪くはないねえ」
小野先輩がスマホを取り出して何枚か写真を撮る。私も首にかけていたフィルムカメラで一枚その世界を拝借する。今日、使ったはフィルムは九枚で残りは二十七枚。
「小野先輩、今日はありがとうございます。また、色んな場所行きましょう」
「せやな。今度はアンタの地元やな」
「山梨には富士山がありますから、そこで決まりですね」
「富士山かあ……行ってみたいけど登山は苦手やなあ」
小野先輩は石の柵に身体を預けながら、シャツの袖をまくる。私も歩いて少し汗ばんでいた。
これからもっともっとこのカメラで世界をのぞきたい。
そんな春の午後、私は小野先輩との出会いを思い出していた。
「春、到来」いかがだったでしょうか。
今回は春夏秋冬のいろいろな名所を巡っていく物語です。
季節の切れ目ごとに更に短い幕間のような形のお話を挟んで行く予定です。
全8話、毎日更新いたします。




