前時間軸 言えなかった言葉
ヴィクトル・グレイヴは、自分が口下手であることを知っていた。
知ってはいたが、これまでそれで大きく困ったことはなかった。
北方辺境伯として必要なのは、上っ面の甘い修飾語ではない。
砦の修復を命じること。魔獣の動きを読むこと。雪が深くなる前に村の備蓄を確認すること。騎士たちを死なせないこと。
言葉は短くていい。
正確であればいい。
そう思っていた。
三月の初め、エレナ・ラングレーと結婚するまでは。
結婚式の日、彼女は白い花嫁衣装をまとっていた。
王都育ちの伯爵令嬢。魔力は多くないが、魔法理論に優れている。落ち着いた気質。礼儀正しい。
事前に受け取った釣書に、そう書かれていた。
だが実際のエレナは、紙に書かれた人物より、ずっと静かで強く美しい女性だった。艶やかな暗めのブロンド、柔らかそうな白い肌、頬が少し上気しているのは緊張しているからかもしれない。
一目で、自分でも知らずに心を奪われていた。
だが、これは政略結婚だ。
恋愛感情は持たない。
互いに干渉しすぎない。
夫婦としての義務を求めない、白い結婚として始める。
ヴィクトルはそれが当然だと思っていた。
結婚式の前、二人で控えている時にヴィクトルが切り出すと、
「承知いたしました。互いに負担の少ない形にいたしましょう」
彼女はそう言った。あまりにも落ち着いた声で。
ヴィクトルは、少しだけ胸が沈んだ。自分で提案したことなのに。
彼女が簡単に頷いたことが、少しだけ面白くなかった。
もちろん、それを口にはしなかった。その頃のヴィクトルは、自分の感情をほとんど言葉にしていなかった。
北方の古い礼拝堂は寒かった。
暦の上で春とはいえ、まだ床石から冷気が上がってくる。
それでも彼女は震えを隠し、まっすぐ前を向いていた。
誓いの言葉を交わす時、ヴィクトルは彼女の手を取った。
指先が冷えて少し震えている。
そう気づいた。
手袋を用意させるべきだった。
式の間じゅう、ヴィクトルはなぜかそればかり考えていた。
春の間、二人の距離は遠かった。
朝食で顔を合わせる。
必要な説明をする。
屋敷の者に紹介する。
領主夫人として最低限の仕事を伝える。
それだけだった。
エレナは文句を言わなかった。ただ、よく見ていた。
使用人の動き。
屋敷の古い結界。
北方の食事。
窓枠に張られた護符。
ヴィクトルの言葉の少なさ。
特に最後については、よく見ていた。
ある朝、エレナが言った。
「ヴィクトル様は、必要なことだけをおっしゃる方なのですね」
「そうだな」
「では、必要だと思わなければ、何もおっしゃらないのですか」
「……そうかもしれない」
「少し不便ですね」
ヴィクトルは返事に詰まった。
不快ではなかった。
むしろ、その率直さに驚いた。
北方に嫁いできたばかりの令嬢は、もっと遠慮するものだと思っていた。
ところがエレナは、必要なところでは引かない。
そのことを、ヴィクトルは少しずつ知っていった。
そんな彼女だが、幾度か自分に何か話そうとしていたのを、ヴィクトルは覚えている。
そして、そのたびにヴィクトルに仕事が入った。
砦からの報告。雪解け後の道の崩落。魔獣の痕跡。
ヴィクトルは話を聞けずに席を立ち、エレナは何も言わずに見送った。
彼女が何を言おうとしていたのか、ヴィクトルは深く考えなかった。
彼女は必要なら改めて話すだろうと思ったから。
思えば、そこが分かれ道だった。
夏になる頃には、エレナは屋敷に馴染み始めていた。
彼女は使用人の名前を覚え、
厨房長の癖も覚え、
マルタが無理をしている時の顔まで覚えていた。
ある日、ヴィクトルが中庭を通りかかると、エレナが侍女たちと一緒に薬草を仕分けていた。袖をまくり、真剣に葉を見比べている。
「その葉は乾燥させすぎると効き目が落ちるのですね」
「はい、奥様」
「では、冬至祭の前に使う分と、冬の終わりまで残す分を分けて乾燥を調節しましょう」
マルタが感心したように頷く。
エレナは帳面に丁寧な字で書き込んだ。
その横顔を見て、ヴィクトルは立ち止まった。
彼女はただ美しいだけではない。彼女は、知ろうとしている。
北方の暮らしを。屋敷の人々を。ここで冬を越す意味を。
胸の奥に、知らない感情が生まれた。
誇らしい、に近い。
だが、妻に対して浮かんだその言葉の扱い方を、ヴィクトルは分からなかった。
結局、ヴィクトルはこう言った。
「よく働いているな」
その言葉にエレナは顔を上げた。
「あら、お褒めいただきました?」
「ああ」
「ふふっ、ありがとうございます」
彼女は少し笑った。
その笑顔で、ヴィクトルは言葉を失った。
危険だと思った。
笑顔が響いて、心臓に悪い。
だが、ヴィクトルがそんなことを言える訳もない。
ただ、内に感情の波が打ち寄せるのを堪えるのみだった。
秋に入る頃、エレナは領民にも知られるようになっていた。
西の村へ視察に行った日、老婆がエレナに言った。
「奥様は王都の方なのに、よく話を聞いてくださる」
エレナは少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「私はまだ知らないことばかりです。聞かないと、何も分かりませんから」
ヴィクトルはその言葉を聞いていた。
自分には足りないものだと思った。
聞くこと。
言葉にすること。
相手が理解できるように伝えること。
エレナは、それを自然にしていた。
その日の帰り、馬車の中で彼女は言った。
「北方の冬至祭は、領主と領民が一緒に冬を越すための約束なのですね」
「ああ」
「白い外套を着る意味が、少し分かりました」
「寒いからな」
「そこですか?」
エレナは呆れたように笑った。
「祭礼の意味の話です」
「君が冷える」
「ヴィクトル様」
「何だ」
「私たち、会話の中心がいつも少しずれます」
ヴィクトルは黙った。
エレナは肩を震わせて笑った。
笑われたのに、不快ではなかった。
むしろ、その笑い声をもっと聞きたいと思った。
その頃、白い結婚は少しずつ形を失っていた。
始めは、一緒に食卓につく時間が増えた。
次に、エレナが読んだ本の話をするようになった。ヴィクトルは魔術理論の細かな部分は得意ではなかったが、北方の防御術についてなら話せた。
エレナは目を輝かせて聞いた。
「今の結界、熱を足すのではなく、冷気の流入だけを遮断しているのですね」
「ああ」
「面白いわ。術式の層が薄いのに、よく保ちますね」
「北方では魔力を節約する必要がある」
「合理的!もっと教えてください」
もっと教えてください。
そう言われるたび、ヴィクトルは胸の奥がくすぐったくなった。
自分の知っているものを、彼女が知りたいと言う。
それだけで、なぜこんなに嬉しいのか分からなかった。
秋になって、ヴィクトルは初めてエレナに紅茶を淹れてもらった。
エレナは普段から読書をしながら自分でお茶を淹れて飲んでいた。読書室で同席した時、ヴィクトルにも淹れてくれることになったのだ。
彼女は真剣に淹れていた。
真剣すぎて、少し濃かった。
「どうでしょう」
「悪くない」
そう答えると、エレナは眉を寄せた。
「悪くない、は褒め言葉ですか?」
「そのつもりだ」
「では、次からはもう少し分かりやすく褒めてほしいです」
ヴィクトルは返事に困った。
美味い、と言えばよかったのだ。それだけのことが、なぜかできなかった。
次の日、エレナはまた紅茶を淹れた。
今度は昨日より少し薄い。
ヴィクトルの好みに近かった。
「昨日より美味い」
言った瞬間、エレナが目を丸くした。
それから、ほんの少し得意げに笑った。
「では、今日の濃さを覚えておきますね」
その笑顔を見て、ヴィクトルは悟った。
自分はもう、彼女をただの政略結婚の相手とは思っていない。
妻だ。
そう思った。
大切な妻。
そして、白い結婚は終わった。
その夜のことは、記憶も朧げだ。
ただ、エレナが自分から俺の手を取ったことだけは覚えている。
「ヴィクトル様、私は、あなたのことを少しずつ知りました。無口で、不器用で、説明が足りなくて、心配の方向が少し変です」
「すまない」
「でも、領地を守るあなたを尊敬しています。私を大切にしてくれるあなたを信頼しています」
エレナは、頬を赤くしながら言った。
「だから、この結婚を、本当のものにしたいです」
ヴィクトルは、その瞬間の自分の呼吸を覚えていない。
ただ、世界が一度止まったような気がした。
ヴィクトルはようやく言った。
「俺もだ」
「……!」
「……君が好きだ」
エレナは息を呑んだ。
そして、困ったように笑った。
「そうおっしゃってくれて、嬉しい」
その時ヴィクトルは少し後悔していた。もっと早く言えばよかった。
言えばよかったのだ。
そしてこの冬の始め、ヴィクトルは幸せだった。
自分が幸せだと気づくのが怖いほどに。
朝、エレナが食卓にいる。
昼、彼女が領地の帳面を覗き込む。
夕方、暖炉のそばで並んで座り、本を読む。
夜、隣で眠る。
それだけで、冬の屋敷が以前とは違って見えた。
エレナは冬至祭を楽しみにしていた。
「領主夫人として、初めて正式に領民の前に立つ日ですもの」
彼女はそう言って、白い外套の仕立て直しを確認していた。
「緊張するか」
「ええ」
「なら、無理に出なくても」
「出ます!」
即答だった。
「私は北方に嫁いできたんです。ただのお客じゃありません。あなたの妻で、領主夫人なんですから」
その言葉を聞いた時、ヴィクトルは胸が熱くなった。
エレナは、本のこともその頃ヴィクトルに話した。
「冬至祭が終わったら、お渡ししたいものがあります」
「何だ」
「父から預かった本です。最初に渡すべきだったのですが……その、あなたにどう話してよいか分からなくて」
彼女は少し気まずそうに笑った。
「それに、ただ父から預かったものとして渡すより、私自身も北方のことを知ってから、あなたと一緒に確認したいと思うようになりました」
「重要なものなのか」
「おそらく。ただ、父は遠回しな人なので、はっきりとは。私もまだサッと目を通しただけで」
「わかった。一緒に見よう」
「冬至祭が終わったら、魔術書庫から持ってきます」
「ああ」
それが、最後の約束になるとは思わなかった。
冬至祭の日、エレナは白い外套をまとっていた。
雪のような白。
大広間の火に照らされ、彼女は領民へ護符を配った。
子どもが緊張して手を差し出すと、エレナは膝を折って目線を合わせた。
「これを持っていても、一人で森へ行かないこと」
「はい!」
領民たちは笑った。
ヴィクトルは少し離れた場所で来客の相手をしながら、それを見ていた。
胸が満ちていた。
エレナは北方に受け入れられている。
彼女がここにいる。
自分の隣に。
そのことが、ただ嬉しかった。
儀式が終わりに近づいた頃、エレナがそっと近づいてきた。
「ヴィクトル様、ちょっと魔術書庫へ行ってきます。例の本を取ってきますね」
「今でなくても」
「今がいいんです」
エレナは微笑んだ。
「今日、私は領主夫人として初めて冬至祭に立ちました。だから今日、あなたに渡したいんです」
その言葉が、あまりに彼女らしくて。
ヴィクトルは止めなかった。
「一人で行くのか」
「すぐ戻ります。屋敷の中ですからご心配なく」
「……ああ」
すぐ戻る。
彼女はそう言った。
ヴィクトルは頷いた。
それが、彼の人生で一番愚かな頷きだった。
エレナは白い外套を翻し、大広間を出ていった。
ヴィクトルは来客に呼ばれた。
王都から来た商人。
冬至祭の挨拶。
砦への支援の話。
どうでもいい。
今となっては、そのすべてがどうでもよかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
短かったのかもしれない。
長かったのかもしれない。
最初に違和感を覚えたのは、結界だった。
北棟の結界が、一瞬だけ歪んだ。
屋敷の奥で、何かが壊された。
ヴィクトルは話の途中で顔を上げた。
次の瞬間、走っていた。
誰かが呼ぶ声がした。
騎士が後を追う音がした。
だが、ヴィクトルには何も聞こえなかった。
魔術書庫。
扉が開いている。
中は暗い。
小さな窓から雪明かりが差し込んでいた。
床に、白が見えた。
白い外套。
そこに、赤が広がっていた。
「エレナ」
声が出た。
自分の声ではないようだった。
彼女は床に倒れていた。
手は何かを抱えるように胸元へ寄せられている。
けれど、そこに本はなかった。
ヴィクトルは膝をついた。
彼女を抱き上げる。
まだ温もりは残っている。
だが、命が遠ざかっているのが分かった。
「エレナ」
何度呼んでも、返事はなかった。
喉に傷。
胸元に魔術の焦げ跡。
魔術の残り香。
そして床には、薄い魔術痕があった。
エレナのものだ。
彼女は最後の力で、何かを残そうとしていた。
ヴィクトルはそれを読もうとした。
魔術痕からは、断片だけが流れ込んできた。
知らない男の声。
――それを渡せ。
本を抱えるエレナ。
エレナの感情が伝わる。
恐怖。怒り。決意。
ヴィクトル様に渡さなければ。
その思いだけが、焼きつくように残っていた。
だが、相手の顔は見えない。
奪われた本の中身も分からない。
魔術痕から分かったことは、エレナが本を守ろうとして殺されたことだけだった。
「なぜ」
ヴィクトルは呟いた。
「なぜ、私を呼ばなかった」
答えはない。
あるはずがない。
彼女は、もう息をしていない。
「ああああ!!」
ヴィクトルは吠えた。あらん限りの声で。
エレナの閉じられた瞼に、雫が降り注ぐ。
だが、彼女のまつ毛が揺れることも、その瞳が開かれることもなかった。
そこから先の記憶は、途切れ途切れだった。
騎士たちが駆け込んできた。
使用人たちの悲鳴が聞こえた。
かすかに聞こえていた大広間の音楽が止まった。
冬至祭の火だけが、燃えていた。
ヴィクトルはエレナを抱いたまま、動けなかった。
赤く染まった白い外套。
あれほど似合っていた白が。
彼女が領主夫人として誇らしげにまとっていた白が。
その夜から、ヴィクトルの世界は止まり、時間だけが進んだ。
彼は犯人を探した。
北棟に入った者。
冬至祭で屋敷に出入りした者。
王都から来た商人。
魔術灯の調整師。
旅人。
使用人に紛れた者。
全て調べた。
手がかりはあった。
おそらく王都式の魔術。
わずかな魔力痕。
だが足りなかった。
本がない。
エレナが守ろうとした本が、消えていた。
彼女の父に問い合わせても、返事は遅れた。
慎重な文面。
遠回しな説明。
自分と同じ悲しみにいる彼女の父に、それ以上踏み込めなかった。
ヴィクトルは何もわからないままだった。
ヴィクトルは王都の弟に調べさせた。
妹にも噂を集めさせた。
騎士を動かし、魔術師を捕らえ、怪しい者を洗った。
だが、確信には届かない。
犯人も、黒幕も、奪われたものの全容も分からない。
ただ、エレナが死んだ。
それだけが事実だった。
一月。
屋敷の菫が枯れていた。
ヴィクトルはそれを見て、彼女が菫を好きだったことを思い出した。
もっと早く、温室に移せばよかった。
二月。
読書室に、エレナの帳面が残っていた。
領地の保存食。
薬草の乾燥時期。
冬至祭の護符の数。
紅茶の濃さについての小さな覚書。
――ヴィクトル様は薄めがお好きらしい。本人はそうとはおっしゃらないけど。
その一文を見た瞬間、ヴィクトルは膝をついた。
言えばよかった。
ただ、美味いと。
君の紅茶が好きだと。
君が得意げに笑うのが好きだと。
三月。
結婚から一年が経とうとしていた。
寝室は広すぎた。
エレナのいない寝台。
使われない書見台。
冷めた紅茶。
ヴィクトルは眠れなくなっていた。
眠れずに、魔術書庫の床へ彷徨い、そっと彼女の残した残留魔術に触れる。
白い外套。赤い血。温もりが消えつつある手。
彼女が死んだ時の記憶が、頭から離れない。
俺は間に合わなかった。
その言葉が、内側から彼を削っていく。
辺境伯家には、禁術がある。領主のみ使うことを許される、時間干渉術。
ただし、その代償は分からない。
命を失った領主もいた。
声を失った者もいた。
魔力を失った者もいた。
記憶や感情を失った者もいた。
禁じられるだけの理由がある術だった。
寝室で、ヴィクトルは、その術式を開いた。
「戻せ」
声は掠れていた。
「戻してくれ」
もう涙は出なかった。
術式は静かに光った。まるで、俺の願いを聞いているようだ。
ヴィクトルは笑った。
笑ったつもりだった。
だが、喉から出たのは壊れた息だけだった。
「代償は何でもいい」
命でもいい。
声でもいい。
魔力でもいい。
記憶でもいい。
この身に残っているものなど、もう大した価値はない。
エレナがいない世界に生き残っていることは、自分への罰でしかない。
「俺を戻せ」
彼は床に膝をつき、術式へ手を置いた。
「エレナを守れる場所へ、もう一度」
魔術が起動する。
時間が軋む。
体の中の血が逆流するような痛みが走った。
視界が割れる。
冬至祭の火。
白い外套。
菫の花。
紅茶の湯気。
エレナの笑顔。
エレナの声。
――そうおっしゃってくれて、嬉しい
そうだ。
言えばよかった。
愛していると。
美しいと。
賢いと。
君の紅茶が好きだと。
君が北方を知ろうとしてくれることが嬉しいと。
君が笑うと、心臓に悪いほど幸せだと。
言えばよかった。
言えるうちに。
時間が砕けた。
ヴィクトルの精神に、記憶が焼きついた。
魔術書庫の冷たさ。
エレナの血。
間に合わなかった足音。
犯人を見つけられなかった三か月。
禁術を使った夜。
それら全てが、消えない傷として刻まれる。
そして、彼は目を開けた。
寝室だった。
まだ、エレナのいない寝室。
窓の外の雪の量が違う。
空気が違う。
机の上の日付を見て、ヴィクトルは息を止めた。
三月。
結婚前日。
戻った。
エレナがまだ生きている日へ。
ヴィクトルはしゃがみ込んだ状態で、しばらく動けなかった。
ひとまず生きている。なぜこの場所にいるのかわかっている。体も魔力も欠けたところは無さそうだ。
彼は立ち上がった。
足が震える。
だが、止まれない。
使用人を呼んだ。
「明日の準備を全て見直す」
声が掠れていた。
「寝室を一つにする。暖房を強めろ。護符を増やす。読書室に書見台を置け。菫を用意しろ。朝食に酸味のある果実を用意する」
使用人たちは驚いていた。
当然だ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「奥様を迎える準備だ」
奥様。
まだ結婚していない。
まだエレナは何も知らない。
ヴィクトルだけが知っている。
彼女が笑うことも。
怒ることも。
紅茶を淹れる時に少し得意げになることも。
冬至祭の白い外套が似合うことも。
その白が血に染まることも。
全部、知っている。
だから今度は、間に合わせる。
触れたいと思った。
抱きしめたいと思った。
だが、それが彼女の死を早めるかもしれないと思うと、近づけなかった。
近づかず、守る。
矛盾した願いの果てに、ヴィクトルは同じ寝室を用意させ、中央に厚いカーテンを吊るすことにした。
愚かな形だと分かっていた。
それでも、その時の彼にはそれしか選べなかった。
明日、エレナが嫁いでくる。
何も知らない彼女が、初めて会う自分を見上げる。
その時、俺は平静でいられるだろうか。
ヴィクトルには分からなかった。
ただ一つだけ、決めていた。
今度は、死なせない。
冬至の夜を越えさせる。
エレナを生かす。
それが、ヴィクトルが禁術に差し出した全てだった。
ただし彼はまだ知らなかった。
その代償が、眠るたびに心の底をこぼすことになるとは。
言えなかった言葉も。
言い足りなかった愛も。
後悔も、恐怖も、祈りも。
すべて寝言になって、彼女へ落ちていくことになるとは。
三月の夜明け前。
ヴィクトルは一人、寝室の中央に吊られたカーテンを見上げていた。
その向こうに、まだいない妻を思いながら。
「エレナ」
彼は初めて、戻った時間でその名を呼んだ。
声は震えていた。
「今度は、必ず」
その言葉は、寝言ではなかった。




