ルームツアーの成果
空腹だとたくさん文字が書けてしまう。多原の弱点の話です。
「作戦その二です。多原様を、私の部屋にご案内してください」
部屋に入ってきた橿屋が、真顔になる。
「本気ですか、お嬢様?」
「ええ、私は本気です」
林檎は頷いた。その胸には、確固たる信念が宿っている。
目の前の少年に、自分の悪印象を植え付けて解放する。
作戦その一は失敗に終わった。いくら侮蔑の言葉を投げかけようとも、芝ヶ崎で揉まれた多原には届かない。それも、なぜか人の家で“無”になる練習をしていた多原には、届くはずがないのだ。
林檎は優雅な笑みを浮かべる。しかし、心の中では拳を握り込む。
ーー要は、多原様が私に失望すれば良い。私の人格に失望しないのなら、行為に失望してもらう。
この時の林檎は気付いていなかった。橿屋が、「本気ですか」と言った意味を。
果たして、目の前の、“無”になる練習をしていた少年は。
「えっ、あ、その……っ」
思いっきり動揺していた。林檎は考察した。おそらく、“無”になる練習の反動だろう。あらゆる感情を抑え込む“無”には、代償が伴うのではないだろうか。
多原が、林檎から目を逸らして、「え、ええと」と小さく、小さく言う。
「きょ、今日のところはお暇しても」
「駄目です。私は今日、多原様を私の部屋にご案内したいのです」
「お嬢様ぁ」
なぜか、橿屋まで情けない声を出す。男性二人がなぜそのような反応をするか、林檎には理解できない。
「お嬢様の意図はわかりますけど、色々すっ飛ばしすぎですって……」
林檎はムッとした。
「すっ飛ばしすぎではありません。私は、確固たる信念をもって、そうしようとしているのです」
「確固たる信念をもって、年頃の男の子を自分の部屋に連れ込もうとしてるんですか?」
「……」
沈、黙。
その時、林檎の思考回路はショートした。
「……」
じわじわと、頬が熱くなってくる。次に、林檎の目には涙が滲んでいた。多原に嫌われたいあまりに、なんて、はしたないことを口走ってしまったのだろう。
がばっと顔を上げる。多原もまた、林檎が気付いてしまったとわかったらしく、気まずそうな顔をしていた。
「ちちち、違うのですッ、私は他の方々とちがって! 純粋な気持ちでですね……!」
「そそそ、そうですよねっ、俺をこの世にいられなくする拷問器具とか、そういうのを見せたいんですよねッ!」
多原が林檎の言葉を肯定してくるが、そうじゃない。大体、拷問器具を置くなら自室ではないだろうに。多原は、腕組みしながら、うんうんと頷いた。
「今のは“お客様を地下にご案内しろ”的な話ですよね? 遺書書いて良いですか」
さっ、とスマホを取り出す多原。林檎は頭が痛くなった。貶められ慣れすぎていて、手際が良い。
「遺書を書く必要はありません。多原様には、私のことを知ってほしいだけなのです」
「だからお嬢様、その言い方もアウトなんですってば」
「仕方ないじゃないですか」
林檎は開き直った。
だってまだ、林檎は、多原のことが好きで好きでたまらないのだから。あの子じゃないとしても、林檎は、多原貴陽を愛しているのだから。
ーーでも、私は、恋心になんか負けない!
林檎は確固たる意志で、多原の手を取る。多原は、わかりやすく動揺していた。
「貴方に、私の全てを知ってほしい」
「これが、文化祭の時の多原様で、こっちが、運動会の時の多原様です」
本人に、大判に引き伸ばした本人の写真を見せる林檎さん。橿屋さんに肩を掴まれて逃げられない多原は、「へ、へえ」と言う返事をするしかなかった。
女の子の部屋には、初めて入る。嘘だ、レイ姉ちゃんと遊んでいた頃はしょっちゅう入っていた。
だが、高校生になってから、それはなかった。
多原はドキドキしていたが、入った瞬間、違う意味でドキドキした。なにせ、自分の写真がたくさん、部屋の壁に飾ってあったからだ。
「すまない、多原君……っ」
多原の肩を掴んでいる橿屋さんが謝ってくるのに「大丈夫です」と返事をして、多原は、何が大丈夫なんだろうと思ってしまった。
「なんか、アイドルになった気分です」
マイルドな感想を言うと、林檎さんは、冷静に頷いた。怖い。
「それは近しいですね。多原様は、私にとってのアイドルです。ほら、ここの出走直前の多原様、なんて凛々しい……」
「お腹すいたなって思ってるところですね」
「本人の解説付きで鑑賞できるなんて……!」
幻滅させるはずが、林檎さんが口元に手をやり、目を潤ませる。多原は、いたたまれなくなった。この場から消えてしまいたい。拷問器具があった方がよっぽどマシ、いや今のはナシ。拷問器具がなくて良かった。けれど、これは拷問器具と同じくらい、多原を苛んでいる。
……そう。
芝ヶ崎の悪意に慣れてしまった多原には、林檎さんの好意は、まさに劇薬だったのである。
ましてや、つい先ほどまで嫌いと言われ拷問器具が出てくるところまで想定していたのに、蓋を開けたら、林檎さんがとろける笑みで多原のことを見てきて、嬉々として写真の解説を頼んでくる。
父親がモンペとはいえ、それだけの多原は、女の子からここまでの好意を寄せられたことがない。
足が竦み、動けない多原を、橿屋さんは、可哀想なものを見るような目で見る。ぼそっと、多原にしか聞こえない声で言う。
「でも、この状況はマシな方だぜ」
「まし」
「あー、えっと、拷問器具よりマシってことだよ。良かったな、多原君」
明らかに含みがある言い方。多原は、なぜか、夕暮れの校舎で白川さんから隠れた時のことを思い出した。
林檎さんが不満そうに振り向く。
「なにをコソコソ話してるんですか、橿屋?」
「なんでもありませんよお嬢様。ほら、多原君が食べたガムの包み紙も紹介しなきゃ」
「そ、そんなものまであるんですか……」
恐慌する多原。もはや、好意を通り過ぎて悪意である。
「ていうかそのガム、島崎がくれたやつ……」
「ええ、本物は手に入りませんでしたが。多原様の指紋がついています」
本物って何だろうと多原は思ったが、考えないことにした。同時に島崎を恨んだ。島崎め、やはりカーストに勝てないではないか。
「多原様、誤解しないでくださいね。島崎様は、貴方を私から守るために、こういったものを譲渡していたのです」
「俺を、林檎さんから守るために……」
「そうでなければ、私がいつ、多原様に手を出すかわかったものではありませんから」
林檎さんが怪しい笑みで、多原の制服のシャツを人差し指でなぞる。
「それくらい、私は、貴方のことを愛しているのです」
濃厚すぎる好意。多原は、口を開いては閉じて、結局何も言えなかった。
「ふふ、幻滅するでしょう?」
でも、その言葉にだけは首を横に振った。舐めないでほしい。ちょっと写真撮られてるからって、関連グッズを集められているからって、
「それでも、俺は林檎さんのことが好きですよ。林檎さんがいなきゃ、俺は巳嗣さんのことでなんにもできなかったし」
多原が、林檎さんのことを嫌いになることは無いのである。逆はあるにしても、だ。
「手強いですね」
林檎さんは、爽やかな笑みを浮かべた。
「正直に言って、私は今、とても興奮しています。そうですね、御神体に、神が降臨したような、そんな気分です。わかりますか? 本物が、降臨したのですよ」
それはよくわからなかった。が、林檎さんが嬉しそうなので、多原はまあいいかと思った。
林檎さんは、ぐるぐると混沌を湛えた目で、多原に迫る。
「幻滅してくれませんか? そうしたら、私は貴方にひどいことをしなければいけなくなります」
「ひ、ひどいことって」
「口にはできないひどいことです」
多原はさすがに逃げ道を探すが、橿屋さんに肩を掴まれてるのでその動きは丸わかり。「すまない、すまない……」と申し訳なさそうに言う橿屋さんに胸が痛みつつ、根本のことを聞いてなかったと多原は思った。
「そ、そもそも、どうして、俺のことをそんなに、す、好きなんですか? あっ、好きっていうのは思い上がりかもしれないですけど!」
一拍。
林檎さんは、混沌とした瞳に、正気を宿らせた。長いまつ毛を伏せて、切なそうに言う。
「貴方は、私が愛していた人に似ているんです。ですから私は……貴方のことを、その人の代わりとして、見ているんですよ」
切なそうに笑った林檎さん。一方多原の心の中は、
ーーせ、セーーフ!!
何に対してのセーフなのか自分でもわからないが、勝利宣言をしていた。よかった、林檎さんは正気だったんだ!!




