雲をつかむような話
「いったい、どういう風の吹き回しで?」
単身、屋敷にやってきた彼女に、草壁は皮肉げに見えるように笑った。
彼女に会うのは、これが初めてではない。はじめて会ったのは“たかはる君”を探している時で、その時の彼女の態度は、まさに冷淡。芝ヶ崎の本家らしい、何物をも見下す姿だった。
そんな第一印象の良くない彼女が来たとあらば、草壁とて、歓迎するわけにはいかないのだ。
「芝ヶ崎の本家ご令嬢が、こんなヤクザ者のところにいらっしゃるなんて。明日の天気は槍かな」
一応は部屋に通したが、返答次第では叩き出すつもりだ。
草壁の敵意を感じているのだろうが、相変わらずの冷気を纏い、芝ヶ崎令はそこらにいる人間のように、引こうとはしなかった。
「貴方にとっても、益のあるお話をしに来ました。貴方の孫娘殿は今、芝ヶ崎におられます」
「ほう? それで?」
「取引をしませんか。貴方の孫娘殿を貴方にお返しする代わりに。貴陽から手を引いていただきたい」
「多原君、から?」
草壁は、目を見張った。まさか、本家のご令嬢が、芝ヶ崎の末端に属する少年のことを口にするとは、思っていなかったからだ。しかも、いきなり名前呼び。
それはあちらも同じらしく、
「多原君ですか。随分仲が良いのですね」
と、明らかに声のトーンが下がっている。小さく、小さく息を吐く。伏し目がちな表情は、憂いを帯びていた。
「……貴陽など、なんの取り柄もない平凡な男でしょう。手を引いたところで、何の損もないはずです」
「では、私どもが多原君から手を引いたとして。そちらには、益があるので?」
草壁が問えば、芝ヶ崎令はくすりと笑う。少女の微笑み、あるいは。
「ええ、ありますよ。およそ千人もの芝ヶ崎の人間を救うことができます」
「随分、壮大な話ですね」
多原君を評価している草壁としても、にわかに信じがたい話だった。
「もっとも、救う価値のない有象無象ばかりですが」
付け足された言葉は、とても、芝ヶ崎の本家のものとは思えなかった。いや、ある意味そうなのだろうか。人を率いるという自覚を持たず、人を踏み倒して進むのが芝ヶ崎であるから。だからこうして、“足手まとい”を連れて来ず、一人で草壁と向き合っている。
……千人もの人間は、副産物にすぎない。
なのになぜ、その副産物を持ち出したかといえばーー簡単だ。
「多原君から手を引くことはできません。私と孫娘、両方が気にいる存在なんてなかなかいませんからね」
「では、孫娘殿が死んでも良いと?」
「ヤクザ者が寝床で死ねるとは思っていませんよ」
「そうですか」
交渉は決裂。すわ全面戦争かと思いきや、
「ならば良いでしょう。貴陽から手を引いていただかなくても、私は貴方に協力します」
一転。芝ヶ崎令は、冷たい氷の表情を溶かしていた。
「先ほどの言葉は忘れてください。貴方のその、不退転の決意を知りたかったのです。ご無礼をお許しください」
「随分、簡単に意見を翻すのですね。芝ヶ崎の人間はどうするのですか?」
「あのような有象無象は、放っておけばよいのです」
雲をつかむような話だった。
結局、どうして芝ヶ崎令が多原君から手をひけと言ったのかもわからないし、多原君から手を引いたら芝ヶ崎の人間を救うことができるのかもわからない。
わからない内に、芝ヶ崎令には、協力を申し出られてしまった。
せっかく掴みかけた糸を、草壁は見失い……
「私が救うに値すると思っているのは、私についてきてくれる者。ですが、彼らとて、私の期待を裏切りかねない。ですから、私が救いたいのは、ただ一人なんです」
……かろうじて、糸の先を掴む。
今度は、毒婦ではなく少女の微笑みだった。いや、毒婦とて少女の枠にある。
「私の期待を裏切らず、私についてきてくれるのは、キョウしかいない」
ーーその呼び方は。
『みんなには、キョウって呼ばれてます』
嬉しそうに言った彼の、言葉が蘇る。そうか、そういうことだったのか。
「わかりました。ご協力、感謝いたします。芝ヶ崎令殿」
「ええ、よろしくお願いします」
令が草壁に提示した言葉は、惑わすような言葉に思わせているだけで、全て本当のことだった。
多原は要石だ。
多原が芝ヶ崎の屋敷に来ることで千人を救うことができる。
草壁には手を引いてもらいたかった。
あの孫娘は、奔放なくせに目敏い。芝ヶ崎のいちばん奥深くまで手を伸ばし、日の下にさらそうとしている。
ーーそんなことは、許されない。
だが、一番許されないことは。
ーーキョウが、そのことを知ってしまうこと。
だから令は、普段はひた隠しにしている独占欲、ないしは恋心を草壁に見せるしかなかった。協力をするのは、令の方ではなく、草壁の方なのだ。
携帯を開く。
『キョウ君が芝ヶ崎のお屋敷に入っていっちゃったよ〜急いで(><)』
「あの、女……!」
ぎり、と令は、歯を軋ませた。
「聞いたか、御霊。草壁の孫娘が、芝ヶ崎に囚われているらしい!」
「ええ、聞き及んでおります」
興奮する巳嗣に、御霊は穏やかに答えた。巳嗣としては、その態度はもどかしい。
なぜなら。
「それから、あの多原貴陽が、芝ヶ崎の屋敷に訪問したとか」
「まあ」
驚いたように、口に手を当てる御霊に、巳嗣はようやく満足感を覚えた。
「いったいなぜ、草壁の孫娘が囚われているのかはわからないが、これは機会だ。あの男を蹴落とすためのな」
「巳嗣様には、案があるのですね?」
「ああそうだ。うまくいけば、私を虚仮にした草壁の孫娘も道連れだ」
……巳嗣が話してくれたことには、芝ヶ崎の使用人には、鳶崎の息がかかった人間がいるらしい。
その人間から、ここ三日間のあらましを聞いた巳嗣は、とあるアイデアを思いついた。
それは、多原を芝ヶ崎から追い出し、令に二度と近づけさせないようにできる計画である。
「まず、あの愚民に協力し、草壁の孫娘を助けさせる。助けた後に、芝ヶ崎の本家にそれを言う。すると、どうなると思う?」
「貴陽様の立場は、危うくなりますね。ですが、それは、使用人の彼も同じこと、なのでは? これでは、巳嗣様の身も危うくなります」
「そのために、本家に話を通させておいた。わざと芝ヶ崎に愚民を招いて糾弾し、愚民がこれ以上愚かなことをしないよう、徹底的に教え込む。これを、本家も了承している。使用人は、そのために貸し出されたことになっている」
「さすがは巳嗣様ですわ」
御霊は巳嗣を誉めた。
さすがは、私のお人形だ。何もかも、私の思い通りに動いてくれる。
ーーさて、貴陽様は、私の思い通りに動いてくれるでしょうか。
御霊は、青白い頬を持ち上げて嗤った。




