芝ヶ崎の弱点
「不覚でした、まさか多原様が、あのように映画を楽しみにしておられたとは……!」
橿屋は、主人である葉山林檎がこの世の終わりのような表情を浮かべるのを、黙って見ていた。正確には、死んだ魚のような目で見ていた。
「私の吐いた嘘が、多原様を傷つけてしまったのです。ですが、映画は実現した。信頼できる筋によれば、配給会社は、あの、白川財閥の傘下にある会社ということではありませんか」
穏やかな瞳に炎を灯して、林檎は嘆いた。
「林檎、早く食べなさい」
今は朝食の時間である。葉山家当主もまた、橿屋と同じ目をしているが、彼は少しだけ娘寄りだ。オムレツを切り分けつつ、言う。
「……映画で落胆させても、お前には、多原君を喜ばせる手段があるだろう」
「……草壁の孫娘、ですか」
これも、信頼できる筋からの情報である。芝ヶ崎の、特に鳶崎家とゆかりのある組長、その孫娘が、行方を絶った。
演劇のような嘆きから一転、すん、と真顔になった林檎は、葉山家のご令嬢の顔になる。
「確かに、私ならば、彼女を助け出すことは可能です。しかし。まだ早いでしょう? これを機に、芝ヶ崎の疑惑を晴らしてみるのも良いでしょう」
「あの疑惑、か。もしもそうであったならーー」
「ええ、芝ヶ崎を、どうにかできるかもしれませんね」
「あの疑惑、とは何なのか、聞いても良いでしょうか?」
朝食後。橿屋は、林檎の背中に向かって問いかけた。林檎は少し考えて、「貴方の口の堅さを信用して」と、声をひそめて、橿屋を自らの部屋へ招いた。
「うわぁ」
「素敵でしょう?」
橿屋の「うわぁ」を感嘆符として受け取った林檎が微笑みかけてくる。
橿屋は、別の場所を提案しておけば良かったと後悔した。数こそ少ないが、林檎の部屋の壁には、額に入った多原の写真が飾られていた……すべて、高校生の、多原の写真である。
「小学校や幼稚園、中学校の時の多原様を飾れないのは残念ですが……これからは学校行事のたびに、また違う多原様を見ることができるのです。信頼できる筋に、感謝してもしきれません」
林檎は、恍惚として写真に見入っている。何の変哲もない学生生活を送っている少年は、まさか自分の写真が大判に引き伸ばされて飾られているなんて思ってもいないだろう。
まあ、林檎お嬢様が楽しければそれでよし。
何事もそつなくこなし、笑顔といえば他所行きのものだけしか浮かべられなかったお嬢様が、こんなにも生き生きとしているのだから。
橿屋の温かい視線に気付いた林檎が、やはり昔では考えられなかった照れた様子で、こほんと咳払い。ベッドに座り、恐れ多くも、橿屋に自分の椅子をすすめてきた。
「と。多原様に見惚れている場合ではありませんね。芝ヶ崎の、疑惑を話さなければーー簡単に言えば。芝ヶ崎の現当主は、人並みの秀才であり、千人をも超える芝ヶ崎の人間を率いていくには、少しばかり力が足りない、ということです」
「あの、芝ヶ崎が、ですか。それが、疑惑なのですか?」
「いいえ? 疑惑は別のところにあります。当主が人並みの秀才であるにも拘らず、未だに芝ヶ崎の牙城は崩れない。それが、疑惑なのです」
林檎が足をぱたぱたと動かす。その可愛らしい動きとは真逆に、声はどこまでも冷徹だった。
「それならば、やはり彼は秀才ではなく天才だったということになるのでは?」
「それも、いいえです。現当主が当主になった時から、芝ヶ崎は衰退をはじめていたのですから。それこそ、御三家の座が危ぶまれるくらいに。けれど、持ち直した。いいえ、最初は、衰退が平行になり、平行が成長になったのです。不自然なくらいに」
「当主の才能が突然花開いた、とかは?」
橿屋の疑問に、またしても首を横に振る林檎。
「残念ながら、それはありません。天才と言われるご子息が亡くなってから、痛みを力に変えたことをお父様も考えたようですが、彼の言葉や行動は、全くと言っていいほど変わっていなかったようです」
「と、いうことは……」
橿屋は、机の上の写真立てを見た。幼い頃の林檎と、多原によく似た男の子が写っている。
「現在の芝ヶ崎を作ったのは、現当主ではなく、別の人間……と、いうことですか?」
「はい、その通りです」
ここで初めて、林檎は橿屋に是を与えた。
「ですから、その疑惑が本物になれば……芝ヶ崎を潰せるかもしれない、ということです」
『だから私は貴方達を脅しにきたんです。芝ヶ崎の秘密と引き換えに、きよう君と結婚させてくださいって!』
ツインテールが、生き物のようにぴょこぴょこ跳ねるのは、少女の動作の一つ一つが大きいからである。
多原がビビり散らかす芝ヶ崎本家。元気いっぱいな少女に比べ、静を貫く三人。令の兄が、扇子を広げて言う。
『わざわざ私たちを脅さなくても、鳶崎が仲介をしてくれるのでは?』
『やだなぁ、わかってるくせに。鳶崎の仲介を蹴って、縁談を結び直すっていうことは、そういうことでしょ?』
『草壁は、鳶崎を切った?』
『ごめいとーです! 他の御三家ならともかく、おんなじ芝ヶ崎内での鞍替えなら、他のお家の人も言うことありませんよね?』
ぱちぱちと拍手をする少女。ますます深まっていく溝。
『それで。他の家でも良いものを、わざわざ、私たちに仲介を頼んでくるのは?』
『それはもちろん、きよう君のお父さん対策です。あの人会ったことないけど、噂だけ聞くとすごい怖いから、対策しておこうと思って。きよう君のことを大切にしてるお父さんが、芝ヶ崎に息子を寄越すのは、寄越さざるを得ないのは、芝ヶ崎に対して負い目があるからなんでしょ?』
『……その程度か』
ふん、と鼻を鳴らしたのは、芝ヶ崎の当主である。
『そんなもの、秘密でも何でもない。小僧も知っていることだ』
『私は対策を話しただけですよ?』
ことりと小首をかしげる少女。猫のように目をまんまるくして、表情を消す。
『秘密っていうのは、そうやって先走って結論を急いじゃう、まるで先のことを見ていない秀才の凡人である貴方が、どうやってのし上がってきたかってことなんですけど』
『私は、私の力で成り上がってきた』
『着任早々、芝ヶ崎を傾けた人が? 冗談はよしてくださいよぉ。嘘ついたら指だけじゃ済まないですよ? あ、そうそう。この前、きよう君の寝言聞いちゃったんですけどぉ。なんて言ってたと思います? そうです! “あの蔵には室外機がついてるよ”です!』
少女の言葉は、部屋の空気を張り詰めさせた。少女は、そんな空気を感じ取り、にんまりと笑う。
『たしかに、蔵に使われている漆喰は、調湿機能に優れていますね。昔の住居にも使われていましたが、ですが、そんなのは昔の話です。物を保存するには十分ですが、人を保存するとなると、夏の間とかは確実に、蒸し焼きになりそうですよね?』
『君は、何が言いたいんだい?』
令の兄が、扇子を閉じた。少女は嫌な笑みを絶やさない。
『貴方と妹さんの令さんは、このことを知っているんですか? あの蔵に、人が閉じ込められていることを?』
当主が指を鳴らす。襖を開けて、今の今まで待機していた男達が入ってくる。
少女はそれに身を任せた。
大丈夫、花は置いてきたから。
「だから、助けにきてねきよう君。えへへ」
暗闇の中、少女は笑った。今が秋でよかった。夏だったら、それこそ少女は蒸し焼きになっていただろうから。
ああでも、芝ヶ崎が自分を殺すことはないか。それを込みで、少女は勝負を仕掛けたのだから。
「それにしても、あの蔵にいるのは誰なのかな」
使用人によって、母家に案内されている途中、少女はそれを振り切って、“蔵”を見に行った。多原が寝言で言っていた蔵は、人目につかないところを探せばすぐに見つかった。
あの蔵にいるのはきっと、芝ヶ崎の弱点だ。それを暴けば、芝ヶ崎は凋落する……そうすれば。
「きよう君を取り囲むしがらみがなくなって、結婚のハードルがぐんと低くなる。きよう君のお父さんだって、私の功績を知れば、結婚を認めないなんてこと、ないもんね?」
我ながら良いアイデアだ。
やはり、芝ヶ崎の当主は凡人でしかない。これから凋落する家の者に仲介を頼むはずがないのに。
「さあ、きよう君。きよう君の手で、芝ヶ崎を終わらせてね……それで、二人で、幸せになろ?」




