32話 意地悪な義姉
ふと廊下から常ならない足音がした。騒がしい。おそらく使用人の少女だろう。落ち着きがなく、いまだレディと称するには早い少女。不運なことに彼女が来客対応をしたのだろう。
そして使用人にも周知されている本日の客人が誰かは、考えるまでもなかった。
男爵令嬢というなけなしの矜持を守るための保湿クリームを塗る手を止める。
アドニス殿下。
直接会ったのは数えられるほどだ。
初めての舞踏会で姿を見た。一目でその凛々しさを気に入った。あの人に妻になりたいと。けれど一度も踊る機会は得られず、我が家の侵略者と彼が、楽しそうに踊っているのを見た。
2回目はシンデレラの結婚式。この世の美しさと喜びを集めたように、華やかで、煌びやかだった。あの人は、幸せそうに笑っていた。つま先を切った私は、痛みと熱に苦しみながら、彼らを見ていた。どうして自分じゃなかったのか。どうして選ばれたのは忌々しいあの子だったのか。父も死に、想い人と共にはなれず、靴先を血に染める私に、いったい何が残されているのだろう。
王妃の義姉。それはきっと箔が付く。だがそんなことよりも、それよりも、私はこの憎しみを捨てられなかった。恨み、憎み、嫉んだ。利用すると開き直ることも、あっさりと切り替えて自分のために生きようと思うこともできなかった。
ただただ憎かった。
きっとそのバチが当たったんだ。
この世の喜びを閉じ込めたような風景を、憎悪に塗れながら眺めた。その光景が、私が見た最後のものだった。
目を庇う間もなく襲い来る鳥。
私たちを守ろうとするものは誰もなく、私たち三人は目を潰された。痛みに、熱に、突如として訪れた闇に、悲鳴を上げた。逃げる気配、叫び声。
「お義姉様っ!」
ふと、思い出した。
再び生まれてから、何度も思い返していたのに気が付かなかった。
「あぁ、あの声は」
何も見えない。けれど私たちの傍にいてくれる人は誰もいないことはわかっていた。
それでも、どこからか走ってきて、私を呼ぶ声がする。
何度も怒鳴りつけた。
やる必要のない仕事を言いつけた。
同じテーブルに着くことも許さず。
ドレスの1枚だってくれてやることはなかった。
自由に発言することを許さず、私たちの苛立ちを受け止めるように強要した。
頬を張り、突き飛ばし、食事も与えず倉庫に閉じこめることもあった。
それでも
「それでもあの子は、私を義姉と呼んだのね」
誰に気遣われることもない闇の中、シンデレラだけが私のことを心から心配した。
どれほど虐げられても、逃げることも怒ることもなかった。
どれほど蔑まれても、決して生きることも諦めなかった。
どれほど一人の人間として生きることを許されずとも、あの子の心は高潔だ。
「あの子は誰よりも、美しかったのね」
煌びやかに飾り立てずとも、気位高く澄ましてなくとも、あの子は誰より美しかった。
ただ美を求め続けた、私なんかよりも。
幸福が迎えに来ている。
私が出ていく必要はない。
家長たる母ロベリアと当人であるシンデレラ。その二人だけでいいだろう。光の道が拓けるときに、意地悪な義姉はいらない。
確かカトレアがシンデレラのことを迎えに来ると言っていた。魔法のことはよくわからないが、あの子は失せもの探しをする魔法が得意らしい。そのため人探しで必ず呼ばれると。あの子ももう光の中だ。そこには喜びと輝きしかない。
私はきっとそこへはいけない。
エルムルスが褒めてくれても、私と本当の美はかけ離れている。明るい中で生きていくには、私の性根は腐りすぎていた。
けれど今はもうそれでいい。これからの私にどんな暮らしができるかわからない。行き先がわからなくとも、これからの未来を知らなくても、私は生きていかなければならない。生きていきたい。
あと幾何かすれば、階下からはきっと喜びの声が上がるだろう。
だが待てど暮らせど歓声は聞こえず、扉の向こうから聞こえるのは悲鳴にも似た母の声とあわただしい使用人たちの足音だった。
さすがに何か様子がおかしい、と私室から出て玄関へと向かう。開け放たれた扉、泣いている使用人の少女、憔悴したような母が右往左往していた。
「お母さま? どうかされましたか。それにシンデレラは……、」
「パトリシア……! シンデレラが、あの子が、」
「シンデレラがどうか……?」
ロベリアが1枚の紙を持っていた。紙を取ると手紙のようで、そこには王家の紋章が押印されていた。
「……これ、偽物じゃないかしら?」
印はおそらく本物だ。
だが手袋を外して直に触れると紙の目は粗く、手触りも良くない。それに記された文字にしても下手ではないが、公文書にはいささか品位に欠けるように見えた。以前送られてきた招待状と比べればその差は一目瞭然だ。
「そうですっ……何者かがそれをもってきて、シンデレラはそのまま……!」
「……はい!?」
混乱している母や泣いている少女の話をまとめると、偽の遣いが来て文書を使用人の少女に渡し、そのままシンデレラを素直に連れてきてしまったらしい。シンデレラは一人で玄関へ、使用人はロベリアを私室へ呼びに行っていた。
そしてロベリアと使用人が玄関に来たとき、シンデレラの姿はなかった。
「……おそらくカトレアは本来の仕事としてシンデレラを迎えに屋敷へ来るでしょう。あの子なら魔法でシンデレラの場所を見つけ出せるはず」
「え、ええでも……そうよ! とにかく憲兵に一度連絡をしましょう。それから、」
「お母さま、ひとまず私がシンデレラを探します」
「探すって、パトリシアいったいどうやって。どこに攫われたかなんて皆目見当……」
開けっ放しの玄関から通りへ出て、あたりを見渡すと近くで庭木の選定をしている庭師の姿が見えた。
「ちょっとあなた! 聞きたいことがあるわ! つい数分前、私の妹がここの前を通らなかった?」
「いきなりなんだい? あんたの妹なんて知らないよ」
不機嫌そうな帽子をかぶった庭師はぶっきらぼうにそう言った。だがここでしばらく作業していたなら何かを見ているはずなのだ。
「シンデレラ! 私の妹はシンデレラ! プラチナブロンドの髪、青い目をした女の子よ!」
「……ああ、あの子か!」
私は、近所で働く使用人にあいさつなんてしたことはない。平民の顔見知りなんて、店の店員とエルムルスくらいだ。
「あの子ならついさっき馬に乗ってここを通って行ったよ。この通りをまっすぐ、森の方さ」
「誰か一緒に乗ってなかった?」
「茶髪の若い男の子だったが、恋人か誰かとデートじゃないか? それにしても、お前さんがあの子の姉か……」
老いた庭師は不躾に私を眺めまわす。
「なにか?」
「いやはや、似ていないな」
「……ええ、本当に」
余計な一言に文句の一つや二つでも言いたくなるが、今は時間がない。老人の無駄口に真剣に付き合う必要はないし、それはそれほど重要なことでもない。
「教えてくれてありがとう」
「はいどういたしまして姉妹で仲良くな」
庭師に見送られ小走りで屋敷へと戻る。
「パトリシア、あなたいったい何を……」
「シンデレラは馬に乗った男に連れていかれたようです。森の方に向かったと近所の庭師が言っていました。私も着替え次第馬で追います」
ロベリアが目を見開き狼狽するが、それに構うことなく私室へと向かう。言いたいことはたくさんあるだろう。けれどその説明の優先順位は今限りなく低い。
「あ、あなた馬なんて乗れるの!? 緊急時に慣れない馬に乗るなんて、」
「乗れます。お父様がいるときに私もカトレアも習っていたではありませんか」
「いったいいつの話……いえ、そもそも追ってどうするんです! 相手は男、それもシンデレラをあっという間に抱えて連れて行くような者ですよ!? どうやって太刀打ちするつもりですかっ今は憲兵に事情を話して、すぐ王宮のカトレアに連絡して私たちは大人しく待つべき、」
「森の猟師に銃を借ります。銃を持って、追います」
ドレスを脱ぎ捨て乗馬用のパンツやベルトに着替える。めまいを起こすように崩れ落ちるロベリアを抱き起こす時間も惜しい。けれど使用人たちは開けっ放しの扉からこちらを覗いてはおろおろとするばかり。
「お母さまのおっしゃることは正しいです。人数がいればそれだけ探し出すのは早まりますし、万が一仲間がいても大人数なら太刀打ちできます。それに何より、シンデレラは王太子妃候補。きっと王宮は協力を惜しみません」
「ならっ」
「ですが、できることがあるのにしないことを私は許しません」
ベルトを締め、ドレッサーに置いてあった適当な髪紐を掴み一つに結い上げる。
「私は馬に乗れます。習ったころから乗馬は得意でした。今でもよく勝手に乗っています。私は銃が扱えます。習ったころから射撃は得意でした。最近は狩人に教えを乞うています」
「そんなことを……」
「私はできます。ただ待つだけのお嬢様じゃありません。わがままを言うだけの、道楽に興するだけの令嬢じゃありません。私は、私は選ばれるのを待つでもなく、誰かに寄り掛かるでもなく、強く、生きていきたいのです」
何度か森へ通ううちに、人気の少ない抜け道を見つけた。男が大通りを馬で走らせていたなら、途中でエルムルスのところへ向かっても十分肉薄できるはずだ。
「どうして、どうしてあなたまで……」
「お母さま、」
「カトレアは変わったわ。宮廷の魔法使いにまでなった。私たちにはわからない強い力を持っています。それでも、あの子は先日悪い魔法使いに襲われ、意識を失っていた……。シンデレラも、本来ならこうはならなかった。あの子はただ待っていただけ。変わって、二人ともひどい目に遭ってるわ。どうしてパトリシア。せめてあなたの無事を信じられるというの。私の知らないうちに変わり、今一人で行こうとするのです……! わたくしは止めます、あなたのことを。男爵代理として、一人の母として、パトリシア・デルフィニウムが外出することを許可しません」
涙の膜越しの目は力強く私のことを射抜いていた。
いつも澄ましていて、取り乱したことなどシンデレラが家に来た時以外ないロベリアが、今必死の形相で私のことを睨み上げていた。決して許さないと。必ず私のことを止めると。
ロベリアは一度私たちを亡くしている。
カトレアが死に、私が死んだ。ロベリアは自身も熱と痛み、闇に苛まれながら、私たちを見送った。2度目の人生であることをお互いに共有してから知っていた。ロベリアはただ、私たち2人の幸福を願っていた。生きて幸せになることを願っていた。
「お母さま。お母さまも変わったではありませんか」
「わたくしが……?」
覚えがないように呟くが、いつからかロベリアは変わった。
2度目の人生は私と同じように、シンデレラに怯え、一刻も早く厄介払いしたがっていた。けれど今、実の娘を並べてシンデレラを語った。ロベリアにとってシンデレラはもう3人目の子供なのだ。
「親不孝でごめんなさい、お母さま。でも私は行ってきます。」
「パトリシア……!」
声を落とし、ロベリアの隣にしゃがみこんだ。
「あの子は、決して私を恨みませんでした。どれだけひどいことをしても、罵声を浴びせても、あの子は憎みませんでした。……あの子は最期まで、私のことを義姉と呼んでくれました。……あの時のあの子と、今のあの子は違います。それでもあの子が私を義姉と呼ぶなら、あの子が私を家族だと思うなら、私はあの子に返すべき義理が、通すべき筋があります」
耐えきれず、絨毯に落ちた涙を一粒見送り、私は馬小屋へと走った。




