三十一話 29歳に、なった日。
泣けない理由。そんなものを携えたまま、いつの間にか告別式も出棺も済み、慌しく集まってくれた親戚や知人たちも帰って行った。俺も二日後には職場復帰だ。
年の瀬なんだし、このまま実家で過ごしたら? と、姉は奨めたけれど、予備校の繁忙期は世間の基準から逸脱しているのだと説明したところ、すんなりと聞き分けてくれた。
そんなふうに、他愛無い笑いを挟みながら遺品整理などの後始末をした。
至って和やかな姉弟の時間だった。
間違いなく息をついていた。落ち着いていた。
そうなればこそ、俺は独りでひっそりと混乱した。
時間にも気持ちにも余裕がある、実感だって沸いている。それなのに尚も、泣くことができない。
後始末の途中、度々姪がぐずるので、姉は時折席を外した。
姪はもうすぐ二歳になる。どちらかというと義兄似の、少々人見知りするおとなしい子だ。特に俺なんか、滅多に実家に顔を出さないし、帰省したとしても当日退散するので、あまり彼女に懐かれていない。おそらく身内だとも認識されていないのだろう。
そういや、前回の帰省したときも、父に一瞬顔を見せて退散したんだよな。
ぐずる姪の声が、父との最後の対面を、思い出させた。
誕生日の前日だった。
この日も、姉からの一報で電車に飛び乗った。
今回と異なり、病室で迎えてくれた父には、ちゃんと意識があったのだけれど。
「久しいな。」
母の葬儀ぶりに会う父は、痩せ細っていた。
「大して久しくないだろ。」
たかだか一年程度の月日を俺は笑った。父も静かに口角を上げる。
身体を動かすどころか、表情の変化にさえも制限を感じさせる鈍さに、胸がざわついた。
元気にしてたか?
仕事はどうだ?
父は静かに、当たり障りないことを聞く。
どうにもか細いその姿に、幼いころ畏怖さえ覚えた彼の面影なんて微塵もなくて、ざわつきが止まらない。俺は平静を装いつつ、まあそれなりに、なんて、同じく当たり障りない返答しかできなかった。
「そうか。頑張れよ。」
他にもいくつか言葉を交わしたはずなのに、それ以外の声を思い出せない。きっと、思い出すほどの会話をしなかったんだと思う。例によって多忙なふりをして、姉にお決まりの挨拶と謝罪を残し、その日は逃げた。
逃げて、独りで酒を呑んだ。ばかみたいに年甲斐もない呑み方をした。
なんだよ、あれ。
病室に入った瞬間の父の姿が、脳裏に焼きついて離れなかった。
肩は、あんなに薄かっただろうか。
背中は、あんなに丸まっていただろうか。
手首なんてまるで枝じゃないか。
頭もすっかり禿げやがって。
年老いた父の合間に、時折、過去の彼もちらつく。
広い背中、大きな手のひら、厳格な面構え。交互に現れる二人の父に締め付けられる心臓を、ひたすらアルコールで洗い流した。
ふざけんなよ。
元気かとか仕事だとか、もっと言うことあるだろうが。
案の定、帰りの道中は酒気に妨害された。頭は働かないし、足取りは覚束ない。
微かに残る理性を振り絞り、なんとか最寄り駅まで来たところで、安堵感からか糸がぷっつり切れた。ホームのベンチで暫し休み、次のベンチまで歩く。そしてまた休む。改札までなかなか辿りつかない。
ついには、ベンチでもなんでもない自販機を背もたれに座り込んでしまった。
ああ、やっちまった。大人げねえな、俺。
かろうじて動く頭で、ふと時計に目を配った。
ちょうど日付が変わっている。……まじかよ。やっちまったな、ああ、かっこわりい。
誕生日、迎えちまったじゃねえか。こんなところで。こんな姿で。
昼間見た父親よりかっこわりいな 俺
二十代最後の 誕生日だってのに …………―――――
「死にますよ、おじさん、」
―――――……そうだ、この日だった。
「あー、へーきへーき。」
あいつと出逢ったのは。最初に口をきいたのは。
「平気じゃないでしょう。さっきから危なっかしいんですよ。」
冷ややかに言い放しつつ、肩を貸してくれたんだ。
「なあんだよー、おにーさん、送ってくれちゃうの? やっさしー、」
「目の前で死なれたら堪りませんから。おじさんの轢死体なんて、トラウマもいいところですよ、」
「おじさんじゃねーから。今日で二十九、まだ二十代よ、俺ぇ。」
「はいはい。お誕生日おめでとうございます。」
可愛げの無い祝福も、あったような気がする。
父さん、
元気かとか仕事だとか、言うことなんて、もっとあっただろ
ぜんぶ持ってかれちまったよ 可愛げ、無かったけどさ




