三十二話 家族ごっこ。
「それにしても、ぴったりだったわね。」
遺品整理の途中で姉は手を止めた。掲げるように父の礼服を広げ、眺めている。
葬儀の際、私物を取りに帰る時間も無くて、やむをえず俺が着た物だ。姉は礼服を俺にあてがいながらもう一度、本当にぴったり、なんて笑いを溢した。
「でもあんたは、父さんに似ようとしないわね。」
ついでに、ぽつりと呟いた。
一瞬どきりとしたけれど、笑い飛ばしてやった。
「息子ってのは、嫌でも父親に似んのにな。」
捻くれた言葉も返したが、姉は笑みを浮かべたまま首を振る。
「そうじゃなくて、似てるのよ、ちゃんと。あんたの場合は、似ようとしないだけ。」
自分の基準で話すなよ。あんたと違って俺は、あまり察しが良くないんだ。
反論を喉もとで飲み込んで、適当に肩をすくめた。上辺だけの和やかな時間は、静かに続いた。
父の物があらかた片付いたころ、外はもう真っ暗だった。まだ夕方だというのに冬の陽は短い。
そのせいもあってか、来客を報せるインターホンに、俺も姉も惑わされた。てっきり義兄の帰宅とばかり思っていたのだ。
玄関の方から姉の、年甲斐にもなくはしゃいだ歓声が、きゃあきゃあと届く。
「久しぶりね。まあ大人になっちゃって! さあ、上がって上がって。」
姉の声と共に、彼女は襖から姿を現した。
「おじゃまします。」
久しく耳にする甘ったるい声。以前と変わらぬ愛らしい笑顔。月乃だった。
「おじちゃんのこと、聞いたの。」
訪問の目的を短く、やわらかく告げる。
俺は、いろんな理由で言葉を失った。
姉に「わざわざありがとね」と、先を越されたのもあるし、彼女と最後に顔を合わせてから、ずいぶん月日を挟んでしまった、というのもある。
最後の別れが、あの気まずい流れだったというのも、ある。
しかし一番の理由は、そのどれもじゃなかった。
月乃は、彼女に似つかわしくない革のジャケットを着ていた。
それどころか、下は黒のパンツスタイル、レザーグローブを嵌めた手には、存在感たっぷりの、フルフェイスのヘルメット。
身に着けているすべてのものが、ふわふわな月乃とはアンバランスで、妙に目を惹いた。
「お茶、淹れるわね。」
姉のもてなしに月乃は、すぐに帰らないとだから、と遠慮したが、姉は強引にまあまあと流し、台所へ向かう。
部屋で二人きりになってすぐ、目を合わせて同時に噴き出した。
「おねえちゃんは相変わらずだね。」
談笑もそこそこに、月乃は父へ向けて手を合わせた。瞼も閉じて、しんと停止する。
やがてゆっくりと瞼を開き、もの寂しげに呟いた。
「おじちゃんは、わたしにとっても、お父さんみたいだったから、」
少し間をあけて、「……なんて、勝手にごめんね。」と顔を向ける。
「いいや、ありがとな。」
俺も、やっと礼が言えた。
おねえちゃん、ごめん、今日はほんとに帰らないとなんだあ。台所にいる姉に向けて、月乃は廊下から声をかける。もっとゆっくりしていけばいいのに。姉は残念そうに出てきたが、持ち前の察しの良さからか、それ以上引きとめようとしなかった。その代わり、俺に駅まで送るよう命じた。
「まさかおまえが大型とるなんてな。」
「えへへ。十八になったら絶対とるって、決めてたの。」
「起こせんの?」
「コツ掴めば意外とできるよ。これでもセンスあるって、褒められたんだから。」
「つーかうちの前、停めればよかったのに。」
「それはちょっとなー。」
郊外の薄暗い夜道を二人で歩いた。月乃とはもう何百回と並んで歩いたはずなのに、すごく新鮮な気がした。
月乃はあの日の件には一切触れず、以前同様、日常のなんてことない話や、近況報告程度の軽い話題ばかり振ってきた。お陰で、俺もすんなり会話を繋げることができた。
「そうそう。就職するの、わたし。」
「どんな仕事するんだ?」
「うーん……秘書? っていうか、マネージャー的な?」
「なんだそれ。」
「まあ、事務みたいな感じ。女の子が多い所だからね、女子校みたいで楽しいよ。」
「うわ。絶対無理。」
「ひどーい。なんでー。」
月乃は抗議しつつも笑顔を絶やさずに、俺の二の腕あたりをぺしぺし叩く。じゃれ合う子どもみたく、二人で歩いた。
そういや、昔からこんな感じだったな。
一人娘で、大事に大事に育てられたこいつ相手に、俺は遠慮なくがさつに接して、あまり女の子として扱わなくて、それが何故かこいつにはうけて。そんなことが十年以上も続いて、でもそれが楽で。
懐かしい彼女との時間が、嬉しかった。
変わらない俺たちに、安心できた。
そんな嬉しさと安心感に、油断してしまったのかもしれない。
「……あやせ、」
一瞬の隙を狙うように月乃は背後からしがみついてきた。
「……わたしね、
史世との、ふつうの毎日が、嬉しかったの。」
彼女の腕からはか弱い力を、背中には彼女の体温を感じる。
「おじちゃんが、本当のお父さんみたいで、おねえちゃんが、本当のお姉ちゃんみたいで……」
声が振動となって身体に響く。
「だからね、史世は、おにいちゃんだったんだよ。
本当に、おにいちゃんで、よかったの。……それが、わたしの、ふつう、だったの。」
返す言葉がみつからない。
硬直も束の間、絡みつく両腕と体温があっさりと俺を解放した。
覗き込んできた月乃が悪戯に「びっくりした?」なんて問う。その姿は間違いなく、いつもの彼女だった。
「ねえ、史世。いつまであの子と居るつもり?」
だから寒気がした。いつもの月乃なのに、月乃じゃない。
「驚いちゃった。まだ十五歳なんだってね、あの子。
……あ、りさちゃんから聞いたんじゃないよ? 偶然、耳に入れる機会があっただけなの。」
月乃は無邪気なしぐさで、次々と核心を衝いてくる。しだいに、甘ったるい声は影をおとしていった。
「あの子は、あなたを不幸にしかしないよ。」
怖いくらい無垢な宣言だった。
とたんに、恐怖に似た違和感が、内側から崩れる。
きれいに壊れてくれたそこから脱出するみたいに、俺は吹っ切れた。
「そりゃあんなこと言われりゃ、そうも思うよな、」
普段の俺がいつものように、月乃へ笑う。へらっと、だらしないしぐさで。
「だけどあれから結構経ってるだろ? 馴れれば可愛いもんなんだよ、あいつも。今じゃ俺と居るのは、おまえの知らないあいつだ。」
「違うよ。わたしだからわかるの。」
俺が普段の俺に近づくほど、月乃はいつもの月乃から遠退いた。長い付き合いのなか、彼女が食い気味に声を被せることも、真っ向から否定することもなかったのに。無邪気な笑顔も愛らしいしぐさも、いつの間にか消えている。
「家族ごっこは、わたしだけでよかったのに。」
身震いするほど気丈に月乃は言い捨てた。
向かい合ったまま、俺たちは視線を逸らして口を噤んだ。
待ってるんだ。互いの出方を。可笑しな光景だ。つい先ほどまで、昔なじみの心地よさに浸っていたはずなのに。変わらない俺たちに、笑い合っていたはずなのに。……いいや。結局それも、表面だけの俺たちだったんだ。
俺は今、生まれて初めて月乃と向かい合っている。
いっそそれなら。腹を括った。
「……お好み焼きと、ラーメンと、焼き鳥、」
さすがにこんな出方は想定してなかったのだろう。突然出てきた脈絡のない食い物の名前に、月乃は困惑して眉間に皺を寄せた。
「あいつさ、全部食ったことなかったんだってよ。信じられねえだろ?」
外食なんてしない家庭だったんだろうな。この場にいないあいつを茶化すように、俺はまただらしなく笑った。月乃にではなく佐喜彦へ笑った。
家族ごっこ……大いに結構じゃねえか。
「ガキが無い物欲しがって、何が悪いんだよ。」
次はちゃんと月乃に向けて笑った。
からかうように、挑発するように、対等に。本物の俺を向けた。同じく月乃も挑発的に、呆れるように笑った。きっと本物の彼女だ。ふふっと息を漏らしてすぐ、月乃は一人、歩き始めた。
「悪くないよ、子どもは、」
すれ違い様、甘ったるい声が耳に沁みこむ。艶を帯びて浸透する。
「欲しがればすぐに、与えちゃう大人が悪いの。」
振り向くのはやめた。
月乃の気配が遠退くころ、身体に纏わり残る彼女の体温を振り切るように、がむしゃらに走った。
『あと一時間半くらいで帰る』
電車を待っている間にメールを入れておいたが、出発してから二十分経っても返信は来ない。
一昨日入れた、『明後日には帰る』といった内容にも未だ反応が無い。このままマンションまで音沙汰無いと推測するのが妥当だろう。
まだへそ曲げてんのかな。走る景色を眺めながら、俺は帰宅してからの対処法を思案した。
伊織に手を回して、一言でも佐喜彦にメールを入れてもらおうか。それか、武本りさに緩和剤となってもらって、三人で食事にでも行こうか。短絡的だが、土産を買って帰って機嫌をとろうか……
我ながら浅はかな策しか浮かばねえなと落胆していると、コートのなかで携帯が震えた。
新着メール一件 『プリンが食べたいです』
エスパーかよこいつ。
周りの乗客に怪しまれないよう、窓側に顔を隠して堪えた。つーかこれが一週間ぶりの反応かよ。一瞬にして、それなりに背負っていた懸念が吹き飛ぶ。
変な意味じゃなく、無性に佐喜彦に触りたくなった。
両頬を抓って変な顔にしてやろうか、犬みたいに頭を掻き撫でてやろうか。きっとあいつは生意気な反撃と抗議をしてくる。それを、また俺は笑うのだろう。
乗り換えの駅でデパ地下に降り、以前と同じ店で抹茶味のプリンを二つ買った。
俺が一番、満足していた。
与える大人が悪い。
俺には月乃からの忠告のような、助言のような、もしくは恨み節かもしれない不透明な言葉を、認めるわけにはいかなかった。 すべてを否定してしまうから。
俺と月乃が築きあげた年月も、
俺と佐喜彦だけの関係のかたちも、
たった一度きりの、父との思い出さえも、
否定したくなかった。
気紛れだったかもしれない。忘れていたけれど、忘れようとしていたけれど、やっぱり嬉しかったんだ。生まれて初めて、ねだってみて良かったって思えるくらい。
父さんから貰ったマグカップが、嬉しかったんだ。
正体不明の高揚を胸に、帰路につく。
扉を前に、ちいさく誓った。いつもの俺として再会を果たそう。
あいつが呆れるくらい軽く、ばかみたいに、ただいまを言ってやろう、と。
「ただいーーーー」
久方ぶりの帰宅。
玄関を開けた先で、
「ーーーー……っ……、」
その、たった一度の思い出は、
粉々に砕けていた。
「…………。」
佐喜彦は床に座り込んで、破片と化したマグカップと向かい合うように俯いていた。
俺の帰宅の音に一瞬視線を走らせたけれど、またすぐに破片へ戻す。
拾い集めようとしたのだろう、手には真っ赤な血の色が目立っていた。
「切っちゃったのか。」
俺は痛々しい赤に染まる佐喜彦の手をとって、とりあえずおろしたての濡れ布巾をあてがった。
出血が多いのは切り所の問題らしく傷は浅い。安心できたので、消毒液とガーゼもちゃんと用意して、のんびりと手当てを始めた。
「……怒らないんですか、」
俯いて黙ったままだった佐喜彦がようやく口を開いた。
「……お父さんの……、プレゼント、」
きまり悪いような、拗ねているような、小さな声で聞いてくる。
「こんなん見たら怒れねーだろ、普通。」
俺は暢気な口ぶりで返す。
「いいんだよ。どうせ、忘れてたんだし。」
ちょっとだけ、真面目に付け足した。
「薄情息子。」
佐喜彦は間を置かず、刺々しく言い返してきた。
「違いねえな。」
俺は眉を八の字にして笑った。
消毒液を湿らせたガーゼと乾いたガーゼの順に傷口をおさえると、出血はすぐに止まった。もう一枚新しいガーゼをテープで止め、更に上から包帯を巻く。素人手当てだがこんなもんだろ。歪な出来上がりにそう言い訳した。
「………ぼくも、忘れるかもしれないですよ、」
不恰好な包帯を摩りながら、佐喜彦はゆっくりと喋りだした。
「史世さんがこうやって、手当てしてくれたこと、とか……ラーメン作ってくれたこととか……銭湯行ったこととか、髪、拭いてくれたこととか……くだらないことで言い争ったこと、とか…………」
「じゃあおまえも薄情息子だな。」
所々声を詰まらせ、慎重に言葉を選ぶ佐喜彦を、あっけらかんとからかった。
顔を上げた佐喜彦が、むっと唇を尖らせる。
「ぼくはそんなじゃないです、」
生意気な声を投げつけて、俺の服をぎゅっと握った。
「史世さんが死んだら、ちゃんと泣きます。」
佐喜彦に、触りたくなった。
電車で企んでいた、両頬を抓るとか犬みたいに撫でるとか、そんなふうじゃなくて。俺は衝動的に佐喜彦を正面から抱きしめた。
力加減がわからなくて腕が震える。
「…………泣いてます?」
「泣いてねー。」
本当に泣いていなかった。
「泣かないんです?」
「なんだろうな、泣けねえ。」
本当に泣けなかった。
ばかみたいな笑顔から表情が解き放たれない。だらしなく締まらない顔と不釣合いに、腕は力強く、大きな子どもを捕らえ続けた。
「史世さんは、いつ、泣くんです?」
佐喜彦が聞く。
「いつだろうな、」
想像もつかねえや。
一年前の母の葬儀。老いていった父の姿。そして迎えた父の死。
粉々に砕けた、たったひとつの思い出。
瞬時に記憶を巡らせたが、どの場面でも泣いている俺は見つからなかった。
泣く暇も無いから、実感が沸かないから。どちらかが理由になってくれればと願ったけれど、叶いそうにない。泣けなかった。
最後まで、血を分けた家族に泣けなかった。
佐喜彦の身体はほんのり熱い。子どもの体温って高いなー。思わず溢すと、ばかにしているんですか、と生意気な苦情が返ってきた。
「それより痛いんですけど。」
続けて佐喜彦は生意気に言う。
「うるせーバーカ。」
俺は佐喜彦にしがみついたまま、けらけら笑った。
腕の震えがいつの間にか消えている。
解き放たれない笑顔と佐喜彦の体温に満たされながら、ほんの少しだけ、頭ん中の月乃へ対抗心を、燃やした。
無い物欲しがって何が悪いんだよ、俺だって。




