二十五話 29歳、もがく。
「……なんですか、それ。」
疑問と訝しさを織り交ぜて、佐喜彦は眉間に皺を寄せた。
視線は差し出したノートと俺とを行き来している。
「交換日記だよ。」
知らねえの? ノートを仰ぎながら俺は首を傾げた。さすがにここまで年代差があると、伝わらないものなのだろうか。
「いや、知ってますけど、」
知ってんなら溜めんなよ、いちいち。説明の手間が省けそうなので話は早い。
「じゃあ、おまえからな。」
最初の頁を開いて渡したところ、返事ではなく手のひらが返ってきた。佐喜彦の白い右手が、ひんやりと額に貼りついてくる。左手のほうは、佐喜彦本人の額に宛がわれていた。
「え、なに、」
佐喜彦の起こした謎の行動に、身構えた。
「いや……熱でもあるのかなと思って、」
佐喜彦は佐喜彦で、身構えているようにみえた。
武本りさに呼び出されたのはそれから数日後だ。
「最近頭でも打ったの?」
唐突な質問に困惑した。
ただでさえ、彼女からの誘いは初めてだというのに。
「ご心配どうも。おかげさまで完全健康体だよ。」
悪ふざけもからかいも見当たらない彼女の問いに、俺も誠意を込めて返答した。
武本りさは腑に落ちない横顔を見せる。
「それなら、余計に重症ね。」
「何が、」
「あなたがおかしいって、垂れ込みが入ったの。」
タレコミって……。
俗っぽい言い回しに気をとられた次は、「おかしい」というワードと、垂れ込んだ相手の姿が即座に浮かんだ。佐喜彦か。
「あなた達のプライベートに口を挟むつもりは無いけれど、からかうのはともかく、子どもを困惑させるのは、あまり感心しないわね。」
心当たりがまったく無い。困惑させているなんて以ての外だ。正直にその旨を伝えると武本りさは、じっとりした視線を突き刺してきた。
「それ、本気で言ってるとしたら本当に重症だわ。」
話を聞く限り、私から見てもおかしいもの。前置きに念を入れ、武本りさは佐喜彦から垂れ込まれたおかしい俺の詳細を、指摘し始めた。
突然ゲーム買ってきたらしいじゃない。それも二台、通信できるやつ。
休日前は共闘タイムだって真夜中まで意気込んでるって、引いてたわよ、あの子。一応、付き合ってあげてるみたいだけど。
あと、鼻パック強要したみたいね。すごい取れるだとか、思春期の肌にどうのって、はりきるものだから断るに断れなかったんですって。
……一番困惑していたのは交換日記ね。私としても聞きたいんだけど、どういう了見なのかしら? 一つ屋根の下で暮らす男同士の交換日記って。
「悪い、もうやめてくれ、わかった。」
武本りさの責め立てるような言葉の数々に、目頭をおさえて遮った。
沸きあがる羞恥に、血の気が引いた次の瞬間には、首から上が一気に熱を放つ。
ここまで客観的に並べられると、思い知らされるものだ。確かにおかしいのかもしれない。だけど、他に思いつかなかったんだ。
「いやさ、その、交換日記って仲良しの定番だろ?」
俺はたぶん、なんとしてでも佐喜彦との親睦を深めようとしていた。
あと半年を、穏当にやりすごすために。お互い、無理なく暮らしてゆけるために。
伊織に啖呵を切ったのは、半分自分の意地で、半分は嘘偽り無く佐喜彦のために、だ。
あまり表に出したくないし認めたくもないが、正直あいつには情が沸きつつある。
出逢い方はどうあれ、何度かの衝突もどうあれ、これまで共有した半年間がもたらしたものは、大きい。
だからこそ、残りの半年間をより確実に、そしてこれまで以上に、充実した関係を結びつけて過ごしたかった。
ちなみに共闘できるゲームは職場の男子生徒から、鼻パックは女子生徒から仕入れた情報で、交換日記は俺の搾り出した案だ。
「小学生の定番ね。」
ごもっともすぎて反論するのも恥ずかしい。
おそらく武本りさは、佐喜彦から密告を受けた時点で、俺の空回りに気づいていたのだろう。見透かされているのを認めた上で、本日のこの酒の席も、俺の相談の場にシフトさせてもらうことにした。
「俺さあ、正直、自負してたんだよな、」
「何を、」
「他人が得意だって。」
先日の泣きわめいた夜以来、佐喜彦は普段の佐喜彦に戻った。
理不尽な我侭も、俺に伊織を重ね合わせた甘えもやめた。髪も自分で拭くし爪も切る。明け方、毛布に潜り込んでくることもない。きっとそれは、溜め込んでいた物を思い切りぶちまけて、あいつなりに吹っ切れた結果なんだろうとばかり思っていた。
だけど現状は、どうやら俺が問題らしい。
たぶん、今の俺はもがいている。
空回りなんて生易しいものじゃない。
生まれて初めて、他人と必要以上に深い結びつきを得ようと、手探りでもがいている。
佐喜彦はそんな俺の異変から、彼女に助けを求めたのだろう。
「考えてみると俺、親友とかいねーわ。」
顔は広いほうだ。初対面の相手とも話を合わせられる。敵といえる人間もいない。
しかしその反面、何もかもを曝け出せる相手というのも、いない。
家族が苦手という点もあり勘違いしていたけれど、そうか、俺、他人も得意じゃないのか。
「今さら?」
やっと気づいたのかと言わんばかりに、武本りさは呆れ声を投げてきた。
「私には最初から、あなたは一線置く人間に見えていたけれど。月乃にもそうだったし。」
冷たい考察の一刺しは、そこから容赦ない棘を降らせた。
「要は、上辺だけの関係が、あなたの理想の距離なのよ。必要以上に踏み込まないし、踏み込ませない。それであなたの理想は満たされているんだから、敵も作らなければ、諍いも起きるはずないじゃない。その代わり、他人が得意だって勘違いしてしまうし、本気で信頼できる相手も作れない。そういうことでしょ。」
手加減など無い。棘は連続して心臓へ突き刺さる。
はいはい、仰るとおりでございます。俺は眉間を押さえたまま、ただただ頷いた。
「それでも、平気だったんでしょう? あの子との生活は。」
とたんに口調をやわらかくした武本りさに目をやると、彼女は小首を傾げて返答を待っていた。
「半年間、つらかった?」
口元がわずかに綻んでいる。参ったな。俺もつい笑ってしまった。
「嫌になるくらい楽だったさ。」
「あの子で良かったのよ、あなたは。」
もがく必要なんて無いじゃない。頭のよくない俺に、武本りさの声は助言のようにも、叱責のようにも聞こえ、それは理解できるのとできないのとの真ん中くらいで、ふわふわ浮いた。
三杯目のビールになる前に、この話はやめた。
俺の本心はどこにあるのだろう。
実家を出てからは、それなりに自由に生きる癖が付いてしまったのか、改めて向き合うとその所在が、はっきりしない。今だって、やりたいことだけを選んで動いているつもりだ。
ところが最近、『つもり』は本当に『つもり』なのではないかと、やたらと疑う。
『あなたはサキの夢を叶えてあげたいだけ?』 武本りさの声で自問する。
そうだと思っていられれば、楽だったんだけどな。
限りなく本心に近い自答も頭に浮かぶ。
大人に騙される佐喜彦が、みじめに見えた。
子どもを誑かす伊織が、下衆だと障った。
佐喜彦の味方について、協力して、伊織に一泡噴かせてやりたいのが目的なんだと、行動を起こしたはずだった。『かわいそう』と『むかつく』、なんて単純な感情が原動力なんだと、簡単な解釈をしていれば『やりたいこと』に繋がると信じていた。
でも、もうそれだけじゃない。
空回りして、もがいた時点で気づくべきだったんだ。




