二十四話 これまでとこれから
「……朝帰り、」
軽蔑の眼差しで、佐喜彦は呟いた。
「不潔です。」
続けて、吐き捨てるように言った。
時計の針は、起床予定時刻をとっくに過ぎている。
結局二時間では起きられなくて、俺が目覚めたころにはすでに洗濯機も回っていて、当初企てていた機嫌取り作戦は失敗に終わっていた。対して、朝の仕事をやり遂げた佐喜彦は、自分で淹れたカフェオレを啜りながら、やっと起きた俺を不機嫌に睨んだ。
「不潔です、不埒です、ふしだらです。」
どうかと思います。目を据えて何度も非難する。
「終電逃したんだって。」
俺はありきたりな言い訳をした。
「それで、やらしいお店に行ったんですね。」
「ネカフェからの始発コースだよ、バカ。」
やはり今朝も、佐喜彦の様子は相変わらずだった(だからこそ機嫌取り作戦を企てたわけだが……)。
朝帰りなんて今までにもあったのに、むしろ佐喜彦自身も前科はあるはずなのに、理不尽な文句を投げつけてくる。
「身近に未成年がいるって、もっと自覚してください。」
理不尽だ。今のはさすがに群を抜いて理不尽だと、かちんときた。
「おまえが居座ってるだけだろ。だいたい、子ども扱いして怒るのは誰だよ、」
目覚めの一番で気が立っていたのかもしれない。それでも、喧嘩にならないぎりぎりの語調で抑えたつもりだ。しかし現状の佐喜彦にとっては、充分な燃料だった。
俺の言い分に、一層不機嫌な表情をみせた佐喜彦は、乱暴にタオルや下着を引っ張り出し、音をたてて箪笥を閉める。
「何してんだよ、」
「体洗ってきます。誰かさんのやらしいにおいが感染ったので。」
理不尽だろ、本当。
浴室から響く水音を聞きながら、頭を抱えた。
なんだよ、何が気に入らないってんだよ。つーか勝手に布団に潜り込んできたのもおまえだろ。
届くはずのない独り言も溢した。
じゃあ捨てちゃえば?
伊織の声が、抱えた頭をかすめる。
うっとうしいんだよ、あいつ。
……ほんとにな。まさしくその通りだよ。
記憶のなかで言い捨てる伊織に、ことばを返した。
うっとうしいよな、本当。
かまって茶化せば冗談通じないし、生意気に言い返してくるし、そのくせ放っとけば拗ねるし。好き嫌いは多いし、貴重な休日に飯作れとかぬかすし、外で食うときはいっつもあいつの希望優先だし。
今でこそ家事任せてっけど、最初のころはひどかったんだよ、もう。
ごみの分別も、柔軟剤を入れるタイミングも、知らなかったんだからな。つーか今は片付き過ぎなんだよ、この部屋。だからこの間、AVとキャバクラの名刺が目立ったんだよ。あんときも「不潔です」連呼されたし。おまえがいるせいでそっちのほうが御無沙汰なんだから、気ぃ遣えって。ったく。
頭の中の伊織に返していたはずの言葉はいつの間にか、佐喜彦に向けられていた。
部屋を見渡すと、本当申し分ないくらい綺麗に片付いている。
戸棚やテレビには埃一つ積っていないし、リモコン類まで規定の位置に並べられている。
ピーと洗濯完了を報せる音が届いた。
スーツの隣には、明日着ていくシャツが皺をのばして干されている。……アイロン、もう済ませたのか。そういやあいつが来るまでは、スーツもシャツもまとめてクリーニングに出してたんだよな。
ばかな奴。
こんな所で真面目に生活しやがって。
懸命になりやがって。約束なんか信じやがって。
なんにも見えてないんだな、あいつ。本当のこと教えて、からかってやったら、どんな顔すんのかな。
『ぼく、一生伊織くんがいいんです。』
……みじめだな、子どもってやつは。
水音が聞こえ始めてから三十分。佐喜彦は無言のまま浴室から戻ってきた。タオルを頭にかぶせ、髪から水を滴らせている。
タオルから覗く彫刻のような貌と、目が合った。
「佐喜彦、」
まだ不機嫌の影を残す佐喜彦に、俺は手を招いて呼びかけた。警戒した視線が突き刺さる。
あえて暢気に、でも茶化すに至らない塩梅で、手招きした。
その甲斐があったのか、もしくは気紛れか、睨んだままではあったけど、佐喜彦は正面まで歩み寄ってきてくれた。
「座れ。」
ちょうどいい位置まで近づいてきたところで、次の指示を出す。
佐喜彦が不機嫌のまま、無言で従った次の瞬間、俺は佐喜彦の頭をタオルごと両手で掴み、わしゃわしゃと乱暴に拭きだした。
「ちょっ、なんなんですか、」
佐喜彦は情けない声をあげる。
「拭いてくれって言っただろ、この前、」
「言いましたけど……」
「じゃあ拭かれとけ。」
「………。」
すんなりおとなしくなった佐喜彦の頭を、俺は更にぐしゃぐしゃと拭き続けた。
でかい犬を洗うような手つきで、俯いた首から上を丸ごと、タオルで包む。顔は全然見えないけれど、毛先だけが時折タオルからはみ出した。水っ気がなかなか無くならない。
「本当に伸びたなー、髪。長いほうが好きなのか?」
「切り行くの忘れてただけです。」
佐喜彦がつっけんどんに言う。
「そうだよな。家のこと、任せっきりだったもんな、」
俺はやっといつもどおり、へらっと笑った。
佐喜彦、そのさ、
「先月はありがとな。助かったわ、色々。」
佐喜彦の顔が見えなくてよかった。こいつが顔を上げてしまわないように、俺はほとんど無理やり俯かせたまま、ひたすら髪をわしゃわしゃ、ぐしゃぐしゃ、拭いた。
「……別に。史世さんのためじゃないです。」
タオルの中から生意気な声が聞こえる。
「やらないと追い出すでしょう、ぼくなんか。」
さっきとは少し違う、情けない声。
「そしたら、困るのは僕ですから。伊織くんとの約束、守れないし、」
「別に。追い出さねーよ。」
俺は意地悪く、情けない声を遮った。
「俺、おまえのことそんなに嫌いじゃないし。」
次にタオルから聞こえる声を待った。
「史世さんに言われても嬉しくないです」だろうか。
それとも、「僕は史世さんなんか嫌いです」かもしれない。
「じゃあもっとちゃんとしてください」「年相応に落ちついてください」「ラーメンにピーマン入れないでください」「脱いだ服は籠に入れてください」「エッチなDVD置きっ放しにしないでください」「もっと大人になってください」……頭んなかで、予想できる限りの台詞を並べて、全部佐喜彦の声で再生した。
でも、どれも聞こえてこなかった。
「……もっと、やさしく、です、」
やっと、蚊の鳴くような声が届く。
乱暴な手つきをやめないまま、俺は耳を傾けて音を拾った。
「拭き方、伊織くんはもっと優しいし、丁寧です。伊織くんなら、そんな乱暴じゃないです。……もっと優しく、拭いてください、」
伊織くんは 伊織くんなら
繰り返す佐喜彦に、俺は手を止めて言い聞かせた。
「仕方ないだろ。俺は、伊織じゃねえんだから。」
とたんに佐喜彦が顔を上げる。
その瞬間、わかってしまった。
……武本りさ。残念ながら、あんたの推測は間違ってたみたいだ。
こいつは、我慢をやめたんじゃない。やめられてなんかいない。
逆だ。膨れあがっている。こいつのなかで抑えているものが、はちきれそうなくらい、膨れあがっている。
「……やだ、」
伊織くんが、いい。タオルの中から覗いた顔が赤ん坊みたいに崩れた。
「伊織くんみたいにしてください、」
湿り気と震えを帯びて、赤く染まってゆく。
「伊織くん、みたいに、」
紅潮した頬に何筋もの涙が走る。涙は輪郭の端で、大粒の水滴となってぼろぼろと零れた。
………伊織くんに、会いたい、
両手が、泣きわめく子どもの頭を抱き寄せ、力をこめた。
何かが産声をあげている。
「なに、待ち伏せ?」
この日も、伊織の終業時刻は日を跨いでいた。
店から出てきたところを見計らって立ちはだかると、人形のような貌が、挑発的に瞼を細める。続いて淡々と、近距離で顔を覗き込んできた。
「やっぱり相手してほしくなったの?」
誘うように声を潜めてくる。
「まあな。」
「悪いけど、今夜は先約があるから。」
そりゃお盛んなこった。ぶれない伊織に先日同様、肩をすくめて笑い飛ばした。
「ここでいいって。すぐ済むからよ。」
時間はとらせない旨を伝えたところ、伊織はげんなりと溜め息をついた。
「野外ではやんないよ、法に触れるから。あと早漏はお断り。」
まあそう言うなって。内容が濃けりゃ満足すんだろ。抵抗させる隙も与えず、伊織の腕を掴む。勢いにまかせ路地裏の壁に追い込んだ。
俺と壁に挟まれても、伊織は然程の動揺すら見せない。ただただ、無気力な視線で睨みつけてくる。
どこまでも曇りきった人形の面を見おろしながら、俺は声を潜めた。
「来週で半年だ、」
「なんの話、」
「佐喜彦が、俺んとこ来て。」
しばらく見据え合った。伊織の、真っ黒な眸に俺が映る。
俺にも伊織が映るように、更に更に、壁との空間を狭めた。体温と呼吸が近い。
「残り半年。俺は絶対、あいつと暮らす。」
伊織のなかの俺が、悪い顔をしてやがる。
「おまえも約束守れよ、」
一生、佐喜彦の家族になっちまえ。
俺が俺にむかって、にっと笑った。




