二十三話 たゆたう29歳。
「何これ、」
「おまえみたいな奴は、酒でも入れないと面白くねーんだよ。」
アイスと一緒に差し出したビールについて説明すると、伊織は渋々受け取った。
両方いっぺんに開け、一回ずつ交互に口にする。俺も缶を開けて、大きく一口飲み込んだ。
気付けば日付が変わっている。
構内にはまだ灯かりが点っているが、駅前ロータリーはだいぶ閑散としてきた。とっくに最終便の行ったバス停をベンチ代わりに、俺たちは腰をおろした。終電は、もう考えないことにした。
「あんな所で働いてるなんて、意外だな、」
まず俺から口を開いた。
「何、今さら。」
伊織は淡々と返す。
「もしかしておまえが出したのか? 家出資金。」
「だったら?」
やっぱりこいつが出したんだな。
伊織の反応は判りやすくて助かる。ばかにするではなく、自然と鼻で笑ってしまった。
「大変なんじゃねーの? 生活。結構な額だったし、コンビニじゃ見合わないだろ、」
「別に。お金になんて困ってないし。働いてるほうが性に合うだけ。」
スプーンを咥えながら無気力に言う。そして更に、
「俺みたいなのは、働いて税金納めるくらいしか国に貢献できないからね。」と続けた。
「国に貢献……」
似合わない台詞に顔がひきつった。なんだよと伊織が睨んできたので、反射的にふざけることにした。
「案外真っ当で慈悲深いんだな、伊織クンは。」
「ばかにしてんの、」
「いやいや。それなら佐喜彦に、大量のお小遣いやるのも納得かなーって。」
「ばかじゃないの。あれは手切れ金。」
手切れ金。
現実で耳にするのは初の言葉だ。そしてその言葉を境に、伊織は視線と声の温度を下げた。
うっとうしいんだよ、あいつ。瞼を伏せて冷たく言い放つ。
「ちょっと構ってやっただけなのに、勘違いしちゃってさ。」
伊織は続けた。
「迂闊だったよ。まさか子供だなんて思わなかったし、もうしつこいのなんのって。適当に恋人ごっこしてれば、そのうち飽きるだろうって思ったのに、全然退かないんだよ、あいつ。しまいには結婚とか本気で言い出すし。だから、それを逆手に取ったってわけ。」
「逆手にってことは、佐喜彦には手切れ金だって言ってないんだな?」
話を遮った俺に、伊織は何食わぬ顔で「当たり前じゃん」と言い捨てた。
「あいつは本気で課題資金だとでも思ってんじゃない? 俺としては、課題失敗して堂々とあいつと縁切れるんなら万々歳だから、おっさんが捨ててくれると助かるんだけど。」
「なんで佐喜彦がおまえに惚れてんのか、わかんねーわ。」
皮肉とからかいを半分ずつくらいに、意見した。
「俺だってわかんないよ。」
伊織は幾分声を篭らせて、視線を逸らした。
俺にもわからなかった。
伊織の、佐喜彦に対する扱いや思惑を、咎めるべきだったのかどうかを。
同性間の色恋沙汰に関わったことなどないけれど、少なくとも伊織が下衆の類に属する男だってことだけは、判る。
性にだらしなく奔放で、相手をたぶらかすことに抵抗が無い。そんな男を、本気で信じている佐喜彦だって、目にしてきた。
でも俺が踏み込み、こいつを責め立て、そして佐喜彦を庇うのは、違う気がした。きっとそれが俺の立場上、正解なのだと。
結果、俺たちは大した諍いも起こさず、真夜中の駅前でビール片手に、ただ駄弁るだけ時間をすごした。
「ねえ、ホテル行く?」
脈絡も無く伊織は口をあけた。
は? 当然ながら俺は聞き返す。
「終電無いんでしょ、」
ホテル発言は聞き間違いでなかったらしい。
「一応聞くけど、ビジネスのほう?」
「なに? おっさん、男無理な人?」
一応だろうと聞いてよかった。俺は半笑いで「残念ながら。」と肩をすくめた。
「じゃあしてないんだ、佐喜彦と。つまんないの。」
「ご期待にそえず申し訳ないな。」
「試してみる? 俺ネコなら自信あるけど、」
「心から遠慮するっつーの。」
つまんないの。伊織は膝を抱えながら繰り返した。
「これでおっさんが味しめて、あいつとデキてくれれば手っ取り早いのに、」
しまいにはおそろしい企みを暴露してくる。
本気で言ってんなら清々しいほどの下衆だな。盛大に評価してやったところ、「そりゃどうも」と動じない礼が返ってきた。
「あーあ。久しぶりに年上とセックスできると思ったのに。」
「ビッチかよ、おまえ。」
「そりゃどうも。」
だから褒めてねえよ。ぐいっと飲み干す缶の中身は、だいぶ温くなっていた。数時間前にも呑んでいたというのに、なかなか酒が回らない。
始発を降りるころには空が白み、同じ境遇のようなくたびれた人間たちも、ちらほら姿を現した。
皆、帰路につくのだろうか。これから勤める者もいるのかもしれない。明け方の人間ってのは、どこか訳有りを秘めているように見えるが、俺もそのうちの一人かどうかは、正直微妙なラインだ。
脳裏に浮かぶ三人が、白黒つけてくれない。
さも自然に酌み交わした、武本りさ。
出来すぎた再会を果たした、伊織。
帰路の先で、領域を共有する、佐喜彦。
全員、ここ最近で結びついた、奇異たる縁だ。
それなのに今の俺は、こんなにも穏当を保っている。当然だ。それが一番無難で面白い、他人との接し方なのだから。踏み込みすぎてはいけない事実を、月乃との一件が証明してくれた。
白黒つけるのを一番拒んでいるのは、俺自身だ。
室に戻ると案の定、ベッドは佐喜彦に占領されていた。贅沢に枕を二つ独占して、熟睡している。俺も布団敷いて毛布をかぶった。
二時間だけ寝よう。
佐喜彦の起床時間を予測した上で決めた。こいつより早く起きて、たまには洗濯機を回そう。パン屋に行って焼きたてを買って、朝兼昼の食卓に並べてやろう。甘めのカフェオレも一緒に。
二時間だけ。二時間だけ。二時間、だけ……
しばらく意識が飛んでいた。
時計に目をやると、一時間経っている。
なんだよ、あと一時間眠れるじゃないか。もう一眠り、と寝返りをうった瞬間、何か違和感が襲った。
腹部辺りで、毛布がこんもりと盛り上がっている。気配と体温も感じる。
捲ってみると佐喜彦が、まるで冬眠状態で潜り込んでいた。
身を丸くして健やかに眠っている。
驚きも嫌悪も無かった。「あ、居るな」くらいにしか思わなかった。
淡白になれたのは、今の俺達だからだろうか。半年前だったら、驚愕していただろうか。そのくらいは考えてみることにした。
溶け込みすぎている。
沁み込みすぎている。
馴染みすぎている。
我慢を、やめている。
昨夜、武本りさと語った可能性を、佐喜彦の寝顔を眺め其々当てはめた。
どれもあり得そうで、どれもしっくりこない。
……そういえば消えたな、こいつのにおい。
出逢った当初、容姿と年齢に不一致を生んでいた、あの性的なにおいがしなくなっていたことに、こんな状況下で気づいた。鼻につく鬱陶しい色香が、今の佐喜彦には微塵も無い。
寄り添って眠る子どもを追い出せないまま、体温に誘われて、意識はまた飛んだ。




