二十一話 悩める29歳。
伊織くんは。
秋を迎えたあたりから、佐喜彦はそう口にするようになった。
「伊織くんは」「伊織くんなら」口癖や決まり文句といった類とは、違う。覚えている限り、そのフレーズを耳にしたのは二度くらいだ。
ただあまりにも印象深くて、どうも口癖として認識してしまいそうになっていた。
一度目は髪だった。
「拭いてください。」
濡れ髪のままタオルを差し出された瞬間、もう酔いが回ったのかと缶を置いた。眉間をおさえてから缶の重さを確認したところ、まだビールは半分以上残っている。どうやら幻聴ではないらしい。
だからこそまずいだろ、それ。
「何言ってんだ?」
一応、聞いてみた。
「タオルドライ、苦手なんです。最近髪伸びてきたし。」
大真面目に返答しながら、いつの間にか正面に座り込んでいる。
あ、後ろ向きのほうがいいですか? なんていらない気を回してきたが、そういう問題じゃない。
「自分でやれ、そんくらい。」
俺にしては珍しく、本音と正論が一致していたせいか、佐喜彦はそれ以上粘らなかった。
「伊織くんはやってくれたのに。」
代わりに捨て台詞を吐いて、渋々洗面所へと向かう。「伊織くんは」確か、それが一度目だった。
二度目は爪だった。
部屋に洗面器を持ち込んだ時点で、あ、また妙なこと始めやがったな、くらいには察した。
洗面器の中は、たぶん湯かぬるま湯で、佐喜彦はそこに両手を突っ込んでは、丁寧に洗うような動作を数分続けていた。
「切ってください。」
そしてさも当然のように、両手の甲を差し出してくる。
今度は昼間だったし、酒も入っていなかったので、すぐに「何言ってんだよ」と聞き返せた。
「爪、だいぶ伸びてきたので。」
「自分でやれ。」
これもすぐに言い返せた。
「……伊織くんなら切ってくれるのに。お湯だって、ハーブの入ったやつ、用意してくれるのに、」
佐喜彦はまたぶつくさと、独り言と小言を漏らしながら、すんなり諦めた。
どうも最近、佐喜彦の様子がおかしい。
「一種の幼児退行なのかしら。」
幼児退行? おうむ返しをして隣を向くと、武本りさはジョッキを傾けて、ビールをぐびぐび呑んでいた。以前の話どおり、そうとう呑める口らしい。
先日のナンパから、今日で一ヶ月と少し。二度目のお誘いをかけたところ、前回の約束である『割り勘』と『相談』を条件に、彼女は応じてくれた。あまり洒落てない長居できる居酒屋がいいと所望してきたので、こんな大衆酒場のカウンター席に並んでいる次第だ。
開放された雰囲気の中、俺は結構真面目に、そこそこ本気で悩みながら、佐喜彦の身に起きている変化について打ち明けた。
「あなたが忙しくなくなったから、甘えているのよ。甘えてもいい時間が増えたんだから。」
それが武本りさなりの推理だった。
「甘え……ねえ。」
個人的意見としてはどうも腑に落ちない。
確かにそう取れなくもないが、佐喜彦は一応もう十五歳だ。俺達からすれば充分子どもであるにしろ、さすがに今は『甘える子ども』の域も、甘えていい年齢の上限も超えている。
「なんか違うんだよなあ。」
俺も一気にジョッキを空けて、呟いた。
「前にもあってさ、こういうの。なんでもかんでも駄々こねる、みたいな時期。すぐ終わったけど。」
「それなら悩むことないじゃない。」
「だから違うんだよ微妙に。なんつーか、我侭が理不尽。」
「理不尽?」
武本りさが首を傾げたところで、追加のビールが二杯届いた。二人同時に一口流し込んで、ひと息置く。
「『マグカップ事件』ってのがあってだな。」
わざとらしい真顔と潜めた声で切り出すと、武本りさは更に首を傾げた。眉間には皺がよっている。少々ふざけはしたが、本当に起きた事件ではあるので、俺は続けて、詳細を説明し始めた。
起きたのはほんの数日前、まさしく、佐喜彦の様子がおかしい真っ盛りである。
発端はあの、ペンギン柄のマグカップだった。
休日にしては珍しく、早く目覚めた朝だった。
繁忙期も過ぎたし、二度寝するほど疲れも溜まっておらず、久しぶりに自分でコーヒーを淹れようと、寝息をたてる佐喜彦を跨いでキッチンへ向かった。
マグカップはシンク付近に、使った痕跡を残して置いてあった。夜中に佐喜彦が喉を潤したのだろう。
洗い物を増やすのも面倒だったので、熱湯で軽く濯ぎ洗いして、それにコーヒーを淹れた。
部屋に戻って啜るうちに、充満した香りからか、佐喜彦が目を覚ました。
「なんで使っちゃうんですか、それ、」
寝起きの悪い佐喜彦が、すぐに意識をはっきりさせて抗議してくるものなので、戸惑った。
「勝手に使わないでください。」
続けて、抗議内容にも困惑した。
佐喜彦が妙にマグカップを気に召していたのも、ほぼ自分専用のように扱っていたのも把握はしていた。しかし、そこまで責められる謂れもない。
いや、もともと俺のだし。つーかおまえ、そんなに潔癖だったか? そういう問題じゃないです。なんで勝手に使うんですか。どうして平気でそういうことするんですか。
会話を成り立たせようなんて気は微塵も見せず、佐喜彦はぎゃあぎゃあ騒ぎ出した。
「悪かった悪かった、すぐ洗うって。」
言い争うにはあまりにもくだらなかったので、早々に折れてコーヒーを別のカップに移した。空になったマグカップを丁寧に洗う。清潔な布巾で水気も拭き取った。
「……もう使わないです、一生。」
マグカップを持って部屋に戻ると、ふて腐れた佐喜彦が背を向けて毛布に包まっていた。
「使った。史世さんが勝手に使った。」
史世さんが悪いんです、ぜんぶ。もういいです。知らないです。ぶつぶつと文句を垂らすうちに、小言は寝息に変わり、佐喜彦はまた眠りについた。
それが通称、マグカップ事件。
「それで、その後は?」
黙って聞いていた武本りさが、そこで質問してきた。
「そう、そっからまた理不尽でさ、」
もう一生使わない、とかぬかしたくせに、佐喜彦はそれ以降もマグカップを独占し続けた。それどころか後片付けの際にも警戒するみたく手放さないし、面倒だから一切触らないでいれば、「どうして洗ってくれないんです」とか言い出すし。
「まるで思春期の娘ね。」
さすがの武本りさも呆れ声を落とした。
確かに、年頃の女が男親を毛嫌いするのと通ずる部分がある。思春期の娘……か。武本りさの表した例えに、俺は更にあれこれ思い出しながら納得した。
「マジでそれに近いんだよ。この前なんて、AVとかキャバクラの名刺置いといただけで、目くじら立ててブチ切れてきたもんな、あいつ。」
「それはあなたが悪い。」
武本りさは容赦なく一刀両断してきた。
彼女はあくまで中立だ。今のは若干の軽蔑も窺えたけれど。
「あと考えられるとするなら、我慢をやめたとか。馴染みすぎたのよ。」
軽蔑(たぶん)からすぐに切り替え、武本りさは別の可能性も挙げた。
「前にも言ったでしょう、猫被ってるって。今のが、あの子本来の素顔。」
少なくとも佐喜彦に、俺との関係を壊そうなんて気は窺えないのだと、武本りさは言う。
むしろ逆なのではないか、彼女は付け加えて推測した。
現状で俺との距離が、佐喜彦の要求する関係に届いてないのだ、と。
なんだよ、それ。
じゃあ俺は、あいつと仲良しこよしにならないとなのか?
なんだそれ。頭ん中で勝手に提案して、勝手に否定した。おかしいだろ、そんなの。
胸を張れるほどではないが、俺たちの距離は、それなりに確立されているはずだ。特に、最初の出逢いから考えてみれば、よくまあここまで辿りついたとも思う。
今ので充分だろ。喧嘩するほどでもないし、今さら縮めるもんでもないし。正当化するように、俺は自分自身に一方的な意見を巡らせた。
考えるほどに目の前のビールが減ってゆく。今夜はさすがにセーブしなければと、ジョッキを置いて箸に持ち替えた。
「前から思ってたんだけど、」
俺の手元に視線を配りながら、武本りさは「箸の持ち方、きれい。」と添えた。
「父親がうるさくてさ、こういうの。」
方向転換できた話題に落ち着く一方で、父を持ち出すのは複雑だった。
対して武本りさは例のあの、やわらかい口調で口角を上げる。
「いいお父様ね。」
「そうでもなかったさ。」
用意されていたかのように俺は即答した。
「あんたの親父さんみたいに、出来た人間じゃなかったし。」
「お父様は健在?」
今度は武本りさが即座に返す。一瞬のためらいの後、俺は「ああ」と簡潔に答えた。
「それなら、嘘でも自分の親はたてるものよ。人前なら、余計に。」
「じゃあ、故人なら好き勝手に言ってもいいわけだ?」
気に障ったのではない。ただ、武本りさの、叱りつけるような語調に胸がざわついたのが、ばれたくなくて、ごまかすつもりで意地の悪い切り返しを選んだ。
「そうよ。」
尚もあっけらかんとして、武本りさは言う。
「死人に気を遣う必要なんてないわ。だから、生きてる限りは大切にするの。見せかけでも、嘘でも。」
しつこいようだが、気に障っちゃいない。おそらく一番驚いているのは俺自身だ。他人と話す上で、欠片も触れたくない人物を登場させておきながら、こんなにも不快と無縁でいられるなんて。
「面白い理屈だな。」
冗談でも悪ふざけでもなく、彼女を笑った。
「家族の仕組みってだけよ。」
恰好悪い俺を横目に、武本りさは二杯目のジョッキをあっという間に空けた。




