二十話 お年頃
マンションの下につくころには、午後四時を回っていた。見上げると、自室のベランダで昨日着たシャツがひらひらと舞っている。
今日も御苦労なこった。
あくまで労いの意を込めて、洗濯物を干す佐喜彦の姿を、そこに思い浮かべた。
ドアを引いた瞬間、冷気がぶわっと押し寄せた。またこんなに冷房効かせやがって。特に冷えた寝室では案の定、佐喜彦がタオルケットに包まれて眠っていた。
俺は特に声もかけず、設定温度を二十八度まで上げ、買ってきたプリンを食べ始めた。
半分ほど食べたあたりで、タオルケットがもそっとうごめいた。
「…………あつい。」
身を起こすなり、佐喜彦は朦朧と言った。声がかすれている。
「クーラー強すぎんだよ。喉やられてんじゃねーか、」
こいつは朝だろうと昼だろうと、相変わらず寝起きが悪い。話が耳に入ってんだか入っていないんだか微妙な様子で、枕元のペットボトルをぼんやりと飲み干した。
「………あ。史世さんだ。」
「おう、」
「いつ、帰ったんですか、」
「今さっき。プリン食う?」
「たべます。」
いくつか会話を交わすうち、喋りがはっきりしてきた。佐喜彦は鈍い動きでベッドから降りて、プリンの並ぶ箱を覗き込んだ。
「……僕も抹茶味がよかったです。」
俺が食べているのと同じ物が見当たらない件について、恨めしく呟く。
「なんだよ、一番人気だってキャラメル味残しといてやったのに。」
そう言っても唇を尖らせるので、余分に買ったショコラ味も食べていいぞと提案したが、「でも抹茶がよかったです。」の一点張りで機嫌を直してくれない。
「悪かったって。今日はこれで勘弁な、」
一か八か、宥めながら食べかけの抹茶味を差し出してみた。佐喜彦はすんなり受け取って口に運ぶ。頑固なのか素直なのか、よくわからん奴だ。
「ショコラは史世さんにあげます。」
とりあえず、生意気なのだけは確かだ。
早々に抹茶味を食べ終えた佐喜彦は、続けてキャラメル味にも手を伸ばした。今度はゆっくりと匙をすくい味わっている。俺も同じく、ショコラ味をつつき始めた。
「参考書、買えましたか?」
完全に意識を取り戻した調子で佐喜彦が聞いてきたので、俺は書店の袋を見せながら、「おう」と返した。
今日、嘘をついた。
仕事で使いたい参考書を探してくる、なんて適当な嘘で、武本りさとの約束を隠した。
多少なりとも疚しい気があったのかもしれない、なんて、自分を疑ってはみたけれど、本日のデートを振り返ってみるあたり、残念ながらそれは見込めない。
単純に、佐喜彦を介する武本りさにも、武本りさを介する佐喜彦にも、腹をくくれそうになかった。
だから嘘をついた。土産のプリンは、ある種の贖罪だ。
「相棒の再放送、見逃しました。」
佐喜彦はテレビをつけると、唇に匙をあてたまま、あまり残念そうでもない口調で呟いた。
どのチャンネルに変えても、この時間はもれなく夕方のニュースである。適当な局を選んで報道の画面を眺めながら、弱風の冷房の下、男二人でプリンをつついた。
ソファから右下を見おろして、ばれないように佐喜彦を眺めた。
きれいな男だ。あらためて思う。
鼻すじの通った彫刻みたいな貌も、白い肌も、手足の長い背丈も、非凡としかいえない。
きれいな男だ。
でも、子どもだ。やっぱり子どもだ。
髪は寝癖だらけだし、また勝手に俺のトランクス穿いているし、冷房の使い方は極端だし、プリン一つで駄々をこねるし。
俺の半分しか生きていない、大きな子どもだ。
「なあ、佐喜彦、」
名前を呼ぶと見おろす先で、床に座ったまま佐喜彦は振り返った。
「おまえさ、伊織って奴のこと、なんで好きなんだ?」
漠然とした思いがそのまま、漠然とした質問に形を変える。
悪い聞き方しちまったかな……。言ってから後悔した。他人の顔色を窺わない問いかけは、久しぶりだった。
「きっかけですか? 好きなところですか?」
俺の心配をよそに、佐喜彦は何食わぬ顔で聞き返してくる。
少々呆気にとられたが、俺もすぐにいつもの調子を取り繕って「じゃあ両方。」と答えた。
「初めてだからです。」
俺の答えから、佐喜彦の返事までは早かった。
「好きになったのも、伝えられたのも、キスしたのも、やっぱり男の人じゃなきゃだめなんだってわかったのも、ぜんぶ、伊織くんが初めてだったから。」
さらりと衝撃的な背景を混ぜながら、まずは『きっかけ』の理由を赤裸々に答えた。
現保護者代理としては耳を塞ぎたい部分もあったけれど、真面目に頷きながら聞いた。
「で、好きなところは……」
一方、もう一つの理由に関しては、あやふやな惚気だった。
「貌と、手と、髪と、腰まわりに鎖骨のあたりと……声も好きだし、時々怒るけど、性格も大好きです。あと、ほんとは優しいところも、けっこう照れるところも。」
佐喜彦は思い出すように、指折り答えをあげてゆく。
「ぼく、一生伊織くんがいいんです。」
散々並べた最後だけ、はっきりと声を張った。
「伊織くん以外のひとは知りたくないから、伊織くんと結婚したいんです。」
佐喜彦から意地みたいなものは感じ取れなかった。
聞く限り、まあ、よくある話だ。
中高生が初恋に幻想をいだく。初めての恋に舞いあがり、浮き立ち、現実以上に相手を美化し、盲目になる。
推測だがこいつの場合、関係(たぶん、肉体的に。)だけならある程度叶ったのだろう。そこに性的指向や年齢差なんかの壁も加熱材となって、必要以上に焦がれてしまっている。
やっぱり、ただの子どもだ。
俺は確認する一方で、伊織が負ってしまったものの重さに、すこし同情した。
「史世さん、」
ぼんやり聞くだけの俺に、佐喜彦は声をかけた。
「買い出し、行かないんですか?」
恋の話はいつの間にか終わったらしい。「冷蔵庫の中、何もないです。」と添えながら、佐喜彦は商店街に行こうと催促してくる。
「俺、まだ腹へってねーんだけど。食いたくなったらコンビニじゃだめ?」
「だめです。休日くらいご飯作ってください。」
今プリン食っただろ。育ち盛りかこいつ。
「ラーメンがいいです。ラーメン食べたいです。あの、味噌のスープにコーンとバター乗っけるやつがいいです。」
注文を追加しながら、佐喜彦は着替え始めた。
キッチンには、使った痕跡のあるペンギン柄のマグカップが置かれている。最近は完全に、こいつ専用だ。
一生誰がいい、だなんて、子どもが時々うらやましい。
恋とか愛とか、この歳になるとだめなもんだ。
諦めるには早く、焦がれるには遅い。中途半端に手が届きつつも、使うには気の引ける言葉。
もうどのくらい無縁でいるだろう。
柄にもなく浸る自分が、恰好悪くて笑えた。あの可愛げの無い女には、お見通しだったのかもしれない。
次はできるだけ、恰好つけないようにしようと誓った。
せっかくの他人なのだから。




