十九話 鋭い女
平日の昼時はすんなりと席に座れた。まずはウーロン茶を二人分、届いてすぐに海鮮玉と、明太チーズ玉、ついでに、鶏のたたきと帆立バターも注文した。
鶏のたたきはすぐに届いた。武本りさは手際よく鶏を小皿に取り分ける。
「若い舌と中年の味覚が混合してるわね。」
そして俺のセレクトに対する感想をのべた。「注文は任せる」と言った手前、難癖ではないのだろう。彼女の性格から察するに、本当にただの感想だ。
「言ってくれんなよ、微妙な年頃なんだから。」
「私も大して変わらないわ。」
「この年齢ってさ、色々考えるよなあ、」
大して変わらない、と明言する武本りさの年齢については、あまり触れずに話を広げた。年下か年上かはわからないけれど、たぶん同じくらいだろうとの推測だけは確定したのだから、それで充分だ。
「私はむしろ、あまり考えなくなってきたわ。」
あくまで大真面目に、武本りさは言う。
「この年齢って、物事を一通り目にするっていうか、一周するっていうか、目新しい物が無くなってくるから、何でもシンプルに捉えるようになるの。てっきり、あなたもそういう類だと思っていたのだけれど?」
どうやら俺は、けっこう誤解していたようだ。
武本りさには、確かに可愛げが無い。愛想も乏しく常に冷たい印象を残す。
しかしだからといって、会話の器量や幅が皆無、というわけでもないらしい。彼女は案外、受け答える能力も、そこから話を広げる術も心得ている。
「買被りすぎだって。教育者ってのは案外、稚拙な人間が多い職業だしな。」
謙遜を盾に話題を変えた。
「あんた確か、別の仕事もしてるんだってな、」
「ええ、母の店。」
「何の店なんだ?」
「ブティック。」
「あー、動くマネキンってやつだ、」
「……。」
「あ。褒めてるから、今の。」
俺は若干、調子に乗り始めていた。
「ダブルワークじゃ大変だろ、」
「そうでもないわ。」
「そりゃたくましい。俺なんて、今の仕事だけでも精一杯だけどな。」
「他人に物を教えるのって、けっこう労力遣うものよ。」
「そう言ってもらえるとは、光栄だ。」
調子に乗って話を広げ続けた。武本りさの、薄くて律儀な反応が癖になっていた。
「今日の休みなんて、貴重だったんじゃないのか、」
「別に。動いてるほうが性に合ってるから。何もしないのは、苦手。」
「前日酒呑んで、翌日は何もしない休日とか最高だけどな。……あ、全然呑まない人?」
「呑もうと思えばいくらでも。」
「へえ、いいねえ。じゃあ今度は呑みにでも……」
「ねえ、」
調子に乗りすぎて、武本りさの視線が沈んでいることに、気づかなかった。
「私は今日、何のために呼ばれたの?」
ここまでが限度か。
「もちろん、話をしてもらうためにだろ、」
とりあえず、すっとぼける。
「こんなどうでもいい話を?」
頬杖をつく俺を真似るように、武本りさも肘をついた。
乾杯の合図もせず各々口をつけ始めたウーロン茶が、お互い、まだ半分以上残っている。更にこのタイミングでお好み焼きの生地も届いた。
焼くお手伝いをしましょうか? 愛想良く尋ねる店員に俺は、いえ大丈夫です、と出来るだけ感じよく返した。
「一枚目だけ、焼いてもらったほうが無難だったかもな。本当言うと、自信なくてさ。」
店員が厨房へ消えるあたりで、武本りさに笑い掛けた。
「あなたの得意技ね、それ、」
肘をついたまま、武本りさは目を据わらせた。
「面倒なことに笑って、冗談を挟んではぐらかす。逃げるくせして、相手との関係も壊さないようにしているのね。」
「そんなに器用じゃねえよ。」
俺は視線を手元に置いて、生地の入った小鉢をかき混ぜながら適当に笑った。
卵と山芋と、キャベツや海鮮なんかの具がどっさり入った小鉢は、最初こそ混ぜ難いものの、だんだん馴染んでクリーム色の塊になってゆく。
「その手が通じない相手もいるって、判らないのかしら。月乃やサキみたいに。」
本題であるはずの二人の名前に、心臓がざわついた。
これ以上は逃げ切れそうにないし、ずるいままでもいられない。
鉄板に緩い生地をおとす。音をたてながら円状に整えたところで、今度はちゃんと、武本りさに視線を合わせた。
「別に、あいつらを見くびってるつもりなんて、無いけどな。」
やわらかく、俺は言った。
言い争いを避けたいとか、怒らせたくないとかが理由ではなくて、これは順応だ。武本りさは言い回しこそきついが、その反面態度やしぐさはやわらかい。俺が『限界』だと察した時点からずっとそうだ。だから順応した。
ひと息おいて、武本りさはちいさく首を振った。
「見くびろうとしているのは、むしろ、あの子達のほう。」
あいつらの?
「ええ。子どもはあなたが思っているより、ずっと傲慢よ。だから繊細にあなたの手の内を察知して、ひとりで勝手に崩れる。」
喋るにつれ、武本りさの視線は俺から離れてゆく。顔も身体も真っ直ぐ向けているのに、目の行き場だけが沈むように伏せてゆく。
その様子のせいだろうか。
それとも、たった今諭された「あいつら」の話が影響したのか、不意に、彼女の姿が佐喜彦と重なって見えた。
焼鳥屋で、オレンジジュースのジョッキを支えて俯き、『結婚』の『約束』について話す佐喜彦を、思い出させる。
「ごめんなさい。」
やわらかい謝罪の音が、武本りさの姿を取り戻させた。
「こんな話も、違うわね。」
彼女は続けてやわらかく言い、まだ半分以上残っているジョッキを両手で持ち上げ、顔の傍まで寄せた。俺に視線を戻して小首を傾げる。乾杯、の意だろうか。俺もならって、ジョッキを低く持ち上げながら薄く笑って頷いた。
「いただいても?」
ことばの無い乾杯が済んですぐに、武本りさは手のひらで鉄板を指し示した。裏返した生地がだいぶ厚みを増している。
あ、ちょっと待ってな。俺はへらで四等分に切り分けた物を、小皿に乗せて手渡した。鉄板の隣に、味の違う二種類のタレと、マヨネーズと、青海苔と鰹節が並んでいる。
武本りさは少々悩んだ末、関東風のタレと鰹節をぱらりとのせて、一口食べた。
「おいしい。」
短い感想と静かにこぼれる笑みが、胸に響く。武本りさの笑った表情は初めてじゃないはずだ。ただ、いつどこで見たのかが、なかなか思い出せない。
……そうだ。たしか最初に出逢ったときだ。
それは、初めて喫茶店を訪れた日でもあって、俺の隣には、月乃がいた。
あの日あの時を思い出したその刹那、「おいしい」と俺に向けて微笑む武本りさが、今度は、月乃と重なって見えた。
「月乃とはどういう知り合いなんだ、」
深刻な話、というふうにならない範囲で、月乃の話を振った。
「妹の親友なの。」
有り難いことに武本りさも、相談にのる、みたいな姿勢はみせなかった。
「親友?」
「そう、親友。私の妹、あまり社交的な子ではないのだけれど、月乃とだけは馬が合うみたいで。人懐こいでしょう、あの子。だから、いつの間にか私のことも、姉みたいに慕ってくれるようになってて。」
武本りさの説明する月乃の人物像やその情景が、あまりにも容易く脳裏に浮かぶものなので、思わず吹き出した。
「だからあなたのこと、話には聞いていたの。ずっと。」
「へえ。だからあの、会計のとき。」
彼女からの打ち明け話を、相槌をうつ程度にきいた。二つ目の生地をかき混ぜながら、どうあっても深刻にならないように。
「サキの身内と同一人物だって知ったときは、驚いたけれど。」
「はは。身内なのか、俺。」
「違うの?」
「まあ、若干な。」
月乃だろうと、佐喜彦だろうと、どちらの名前があがっても平静を装った。
動揺と言うには大げさかもしれないが、あいつらは様々なかたちで俺を揺さぶる。
俺はたぶん、恰好つけていた。こんな可愛げの無い女相手に、年甲斐もなく恰好つけていた。
「今日はごちそうさま。」
改札手前で武本りさは顔を向けた。
「言うほどご馳走してないけどな。」
お決まりのようにふざけると、彼女もまたお決まりのように、「どうして?」なんて真面目に返す。なかなか進展しないやり取りに、参って笑った。
「今度は居酒屋なんてどうだ、」
「何が、」
「次こそ本当に相談。今日はナンパだったからさ。」
笑う延長で、最後にもう一つふざけた。数時間ぶりの冷たい視線が突き刺さる。
「とんでもない卑怯者ね。」
解散間際の、このタイミングだったから気が大きくなっていたのかもしれない。同じように、武本りさも、寛大になっていたのかもしれない。
俺のへらっとだらしない顔も、彼女の涼しげな無表情も、少々の間を挟んで、同時に薄ら口元を緩ませた。
本日はこれにて終了だ。そう悟って手のひらをかざす。武本りさの丁寧な辞儀を最後に、俺はきびすを返した。
「……私、あまり関係良くないの、……妹と。」
背後から投げられた声に足が止まる。
振り向いた先で武本りさが、視線を泳がせながら髪をいじって佇んでいた。手持ち無沙汰な指が櫛のように、ゆっくりと長い髪を梳かす。
「でも……大切。今の、私の家族だから。月乃……いつも、私と妹を、取り持ってくれたわ。」
とぎれとぎれに、武本りさは言った。
「優しい子なんだよ。いつも、他人が優先だ。」
やっぱり俺は極力、深刻を避けるように笑った。
武本りさの視線が、俺と同じところにとどまる。彼女は最後にもう一度軽く頭を下げて、
「食事のお誘いだけど、割り勘なら考えておくわ。」
なんて、涼しく、静かに、やわらかく微笑んだ。