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白き狼は、森の夢を見る  作者: 唯純 楽
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出会いと別れは繰り返し訪れる

 微かに聞こえた人の声と、ほんのり漂ういい匂いに深い闇を漂っていた意識を刺激され、キースは目を開けた。

 視界には、すっかり見慣れた天井が見え、首を巡らせるとソファの上で熟睡しているリーゼンラールが見えた。

 その左腕に見える白い包帯が、昨夜のことは夢ではないという証拠だ。

 昨夜、昂ぶった感情のままにフィオリーナを抱き締めたキースは、再び上がった熱のせいで思うように体が動かず、そのままフィオリーナを押し倒し、怒り狂ったエドワードとリーゼンラールによって、荷物のように寝台へ運ばれた。

 その後の記憶がないものの、身体を縛り付けていた重い枷が消えたように、すっきりした気分だった。

 なるべく物音を立てないように寝台から下りたキースは、汗を流すために浴室へ入り、伸び放題だった髭を剃り、こちらも伸ばし放題だった髪を束ねた。


「具合は?」


 部屋へ戻ると、伸びをしながら窓の外を見ていたリーゼンラールが振り返る。


「熱も下がったし、もう大丈夫だ」


「そうか」


 リーゼンラールは、キースを一瞥すると軽く頷き、浴室へ入っていく。

 その背を見送って、キースはテーブルの上に用意されていた青い騎士の制服を手に取った。

 剣を帯び、徽章を着けようとしたキースは、ふと思うところがあり、それをポケットへと仕舞った。

 浴室から出て来たリーゼンラールは、それこそ一遍の隙もないほどきっちりと身支度を整えている。

 キースは、部屋を出る前に、リーゼンラールに訊きたいことが山ほどあった。

 だが、何から問うべきかと逡巡するキースを見て、リーゼンラールは眉間に皺を寄せた。


「おまえの足りない頭で考えても無駄だぞ」


 出鼻を挫かれたキースは、一瞬怯んだものの、ここで引き下がってはいつものように何も教えて貰えないと己を叱咤して、言い返した。


「無駄ってことはないだろ。大体、何で兄上が、シンファースのまじない師なんかと知り合いなんだよ? 俺の腕の紋様のことだって、今まで一言も言わなかったくせに」


「セツリは、まじない師ではない。シンファースの紋様を刻む彫師だ」


「どっちにしろ同じだろっ!」


「同じではないし、その話は後だ」


「兄上っ!」


 肝心なことをはぐらかされているようで、苛立ったキースが叫ぶと、リーゼンラールはぎりっと歯軋りした。

 それは、癇癪を爆発させる前兆だとキースは知っていた。


「話は後だと言っているっ!」


 響き渡った怒声に、キースは首を竦めて直立不動の姿勢を取る。


「直ぐに、何がどうなっているのか、セツリを締め上げ、カーライル様を脅してでも吐かせる。だから、大人しくしていろ」


 それまでは、どんな質問も許さないと睨まれ、キースは口を噤んだ。

 近寄っただけで、相手を凍りつかせるのではないかと思う程の冷気を放つリーゼンラールは、食堂へ下りると言い置いて、さっさと部屋を出た。

 リーゼンラールは、大人しく後に従ったキースに、早速小言を言う。


「セツリのことを気にする以前に、おまえはまず、この館の皆に謝る必要がある。サラは、相当気にしていたぞ」


 どうやら、シンファースやセツリに関わること以外ならば、質問も口ごたえも許されるらしいと判断し、キースはため息混じりに呟く。


「……サラには、本当に良くしてもらったから、何か償いが出来るといいんだけど……」


「償いが必要なのは、サラだけじゃない! おまえが今までフィオリーナ姫をどのように扱っていたか、マートンから聞かされたとき、気を失いそうになった」


 リーゼンラールは横目でキースを睨む。


「え、いや、でも、その……手は出してないけど?」


「当たり前だっ!」


 怒鳴りつけられ、キースはあまり余計なことは言わない方がいいだろうと口を引き結ぶ。


「俺が心労のあまり早死にしたら、おまえのせいだ」


 それは否定出来ないかもしれない。

 キースは、申し訳ないという思いで、ため息を重ねるリーゼンラールを見つめるが、リーゼンラールは尚一層怒る。


「そういう顔をするんじゃない!」


「そういう顔?」


 どういう顔だと問い返したキースに、リーゼンラールは忌々しいという表情で噛み付く。


「叱られた子犬のような顔だっ! こっちが悪いことをしているような気になる」


「でも、仏頂面でいれば反抗的だと怒るくせに」


「ああ言えばこう言う……その減らず口をどうにかしろ」


「黙っていたら、ちゃんと説明しろって怒るだろ?」


「この……」


 ぎっと睨むリーゼンラールに、怒りの導火線に火を点けては大変だとキースは慌てて口を噤んだが、背後で爆笑が上がった。


「仲がいいな」


 振り返ると、カーライルが笑いながら歩いて来るところだった。


「キース、具合はどうだ? 元気そうには見えるが?」


「はい。ご心配とご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。熱も下がり、すっかり回復しました」


「うん。それならばいい。しかし……そうしていると、すっかり騎士だな。フィオには、ちょっと刺激が強すぎるかもしれん。舞い上がりそうだ」


 外見は変わっても、中身は一緒だろうと怪訝な顔をしたキースに、カーライルは苦笑する。


「剣以外の武器も、有効に使うべきだぞ?」


「はい?」


 訳が分からないと首を傾げるキースに、意味ありげな笑みを向け、とりあえず朝食の間は、難しい話はやめだとリーゼンラールに釘を刺しながら、カーライルは先に立って食堂へと入っていく。


「おはよう!」


「おはようございます、兄様」


 すでに食堂にはフィオリーナが居て、エドワードが給仕を手伝っていた。


「あ! おはようございます、リーゼンラール」


 リーゼンラールを見るなり、一層笑顔になって挨拶したフィオリーナは、その後ろにいたキースを見ると、びっくりしたように目を見開いた。


「おはようございます、フィオリーナ様」


 礼儀正しく挨拶したキースに、フィオリーナはしばし固まっていたが、エドワードに突かれて、慌てて微笑んだ。


「お、おはようございます、キース。もう具合は良くなりましたか?」


「はい。おかげさまで。ご心配をお掛けして申し訳ありません」


「い、いえ」


 しどろもどろで、しかも俯きがちに答えるフィオリーナは、まるでキースと出会った二年前のあの日のようだ。


「キースの声がしたけど、起きたの?」


 厨房の方から姿を見せたミミは、キースを見ると唖然として危うくその手にしていた皿をぶちまけそうになる。


「危ない!」


 キースが手を添えると、天敵を見つけた野うさぎのように飛び上がる。


「わ、わわ、や、す、すみません」


 いつもの威勢のよさはなど微塵も感じさせず、身を竦めて詫びるミミに、キースの方が驚く。


「ちょっとミミ! 何してるんだいっ! みんなをどれだけ待たせる気だい? 早く運びなってんだ!」


 厨房からサラの怒声が響き、ミミの代わりに厨房へと向かおうとしたキースは、待ちきれずにパンを持ってきたサラと行き会う。


「わっ!」


「おはよう、サラ。手伝おう」


 パンを受け取ったキースを見上げ、サラはミミを上回る驚き顔で固まる。


「あ、ああ」


 ミミと同じように固まったサラの代わりをすべく厨房へ入ると、ジェファスも驚いた顔をしたものの、サラやミミほどではなく、直ぐに次々といい匂いのする料理を仕上げ、キースに運ぶよう指示する。

 いつものように、すべての料理をテーブルに運び終えたところで、全員が席についた。

 キースは、昨夜現れたシンファースの紋様を持つセツリという男の姿がないことが気になったものの、誰も何も言わないので、最初から数に入っていないのだと一人納得するほかない。

 マートンが呟く短い聖句の後、いつものように食事を始めたが、リーゼンラールの手前、いつも以上に礼儀作法に気を遣ったため、ろくに味わうことも出来なかった。

 食事を終え、一度空になった食器が片付けられると、カーライルがデザートはないのかと、ジェファスに問う。


「今日は、食後のパイは出ないのか?」


「ありますよ、もちろん」


「今、お茶の用意をしますから」


 そう応じたサラに、リーゼンラールが待ったをかけた。


「少し、時間を置いて欲しい」


「は?」


 何を言うのだと眉を引き上げたサラに、リーゼンラールはキースが見たこともない甘い笑みを浮かべた。


「食後のデザートを心行くまで味わうためにも、片付けたいことがあるんだ。いつもと違った流れで作業するのは面倒だとは思うが、了承してくれないだろうか?」


「あ、あたしゃ、別に構わないけど……フィオ様とカーライル様が……」


 サラも、キースが見たこともない表情で、もごもごと口ごもる。

 その頬がやや赤らんでいるのは、気のせいではないだろう。


「私は、ジェファスのパイを早く味わいたいんだぞ。リーゼンラール?」


 興を殺がれたと青い瞳に苛立ちの色を滲ませたカーライルに対し、リーゼンラールはにやりと笑った。


「それほど、お手間は取らせませんよ、カーライル様。待ち人が、現れたようですから」



 リーゼンラールの言葉が終わるか終わらないかというところで、開け放たれたままだった窓から、白い鳥が舞い込んだ。

 鷲ほどの大きさのある鳥は、まるでその重さを感じさせない優雅な動きで、カーライルの椅子の背凭れに止まる。

 黄色のくちばしで丁寧に羽を整えた後、もう一度大きく翼を広げた瞬間、それは人の姿を取った。

 キースだけでなく、サラやミミ、ジェファスも目を見開いたが、一方でリーゼンラールやカーライル、エドワードとマートン、フィオリーナは眉一つ動かさない。


「セツリ。遅刻だ。おまえの分の朝食はないぞ」


 カーライルの冷たい言葉に、灰色の衣を纏った男は、肩を竦める。

 陽の光の下でみると、日に焼けた頬に刻まれた青い紋様がとても美しいことが分かる。

 フィオリーナと同じように、繊細で複雑な紋様は、やはりキースの記憶にある不思議な出会いをした人物と同じものと思われた。


「食後のパイさえ食べられればいいさ」


 ひょいと肩を竦めたセツリは、デザートはまだかとジェファスを見やる。


「デザートを味わう前に、やることがある」


 キースは、傍らのリーゼンラールから立ち上る、冷気というより殺気に近いものに唾を飲み込んだ。


「やること? なんだ? 再会を喜ぶ抱擁か?」


 セツリの面白がっているような口調に、リーゼンラールがぎりっと歯軋りする音を聞いたキースは、久方ぶりに総毛立った。

 それが、癇癪を爆発させる前兆だと思った瞬間、目の前であり得ないものが舞った。

 食堂の中央にあった大きなテーブルが宙を舞い、激しい物音を立てて壁に激突したかと思うと、剣が鞘から放たれる音が続いた。

 はっとしたキースが剣の柄に手を掛けたときには、既に床の上にはセツリが転がっており、その喉元には白銀の輝きが突きつけられていた。

 その場に満ちたリーゼンラールの殺気に、キースだけでなくエドワードとカーライルも青ざめた。

 それは、脅しと片付けるには、あまりにも激しく冷たい殺意だ。


「落ち着け、リーゼンラール」


 辛うじて、何とか宥める言葉を口にしたカーライルだったが、リーゼンラールは唇の端を引き上げて、一笑に付した。


「十分、落ち着いていますよ、カーライル様。まかり間違っても、仕損じることはないでしょう」


「リ、リゼ……そういう意味じゃないと思うぞ」


 眼下にある銀色の輝きを眺めながら、セツリが引きつった笑みを浮かべる。


「ああ。わかっている」


「あ、兄上。ここで、そいつを殺るのは、ちょっと拙いと思うけど」


 ごく控え目に意見したキースだが、殺気みなぎる濃紫の瞳で一瞥され、口を噤む。

 リーゼンラールを挟んだ向こう側で、フィオリーナを庇うように立つエドワードが、気付かれぬように少しずつ手を動かし、剣を引き抜こうとしているとキースが気付くより先に、リーゼンラールが抑揚のまるでない声で、警告した。


「エドワード。抜けば、斬る」


 キースは、それでも剣を抜くつもりだと柄を握り締めたエドワードに、止めろと目配せする。

 リーゼンラールが本気になれば、自分とエドワードだけでは、止めることなど不可能だと知っていた。


「リーゼンラール。セツリは、私の大事な客人だ。傷つけることは許さない」


 カーライルの言葉に、リーゼンラールは冷笑する。


「ええ。知っています。ですが、私にとっては、ただの詐欺師だ」


「詐欺師って言うけど、俺はちゃんと取引を履行した」


 セツリが、そんな不名誉な称号では呼ばれたくないと言い返す。


「こんな中途半端な始末で、何を言う?」 


「ちゃんとあらかじめ言ったはずだ。どれ程の間止められるかは、神のみぞ知ると。十年は、長い方だぞ」


「勝手に巻き込んでおいて、その言い草か」


「運命だ」


「軽々しく言うな。貴様が恣意的に齎したものだろうがっ!」


「俺はきっかけに過ぎない。フィオとキースが出会ったことに、俺は関わっていない」


「一度目は、そうかもしれない。だが、二度目はそうではないかもしれない」


 リーゼンラールの濃紫の瞳が、カーライルへ向けられる。


「カーライル様。どこまで、ご存知だったのか答えて頂きましょうか?」


「どこまで、とは?」


 さすが一国の王子だ。

 この事態に動揺しているだろうに、その声も、手も、震えていないと、キースは感心した。

 もしも自分が、こんなリーゼンラールを相手にしなくてはならないなら、何もしていなくとも真っ先に詫び、命乞いをするだろう。


「しらばっくれるのも、いい加減にしろよ? キースがここに居ることを知っていながら黙っていたのは、これが『シンファース』に関係していると知っていたからだろうに? その上で、俺に知らせなかったのは、セツリからキースの持つ紋様の意味を聞いていたからに違いない」


 返答次第では、タダでは置かないと物騒な面持ちで睨むリーゼンラールに、カーライルはわずかに首を傾げた。


「確かに……おまえに知らせなかったのは、キースとフィオがシンファースの絆を持っているかもしれないと思ったからだ。だが、そう考えたのは、キースがフィオに再会し、偶然その紋様を見せたからだ」


 作為的にキースをフィオリーナの元へ導いたわけではないと言い、カーライルはセツリからも何も聞いていなかったと付け足した。


「セツリがフィオのために『狼』を見つけたとは、聞いていた。だが、それが誰であるのか、どこにいるのかは、知らなかった。もしも知っていたなら、もっと早くにキースをフィオに引き合わせていた」


 リーゼンラールの濃紫の瞳には、苛立ちが称えられたままだったが、カーライルの言葉を否定するようなことはしなかった。

 一時訪れた沈黙に、キースはようやく口を挟むことが出来た。


「セツリ。あんたが、俺に紋様を刻んだんだよな?」


「ああ。そうだよ」


「この紋様が『狼』で、戦いの勝利を齎すものだということは分かっているけど、フィオと関係があるのか?」


 セツリはふっと笑みを漏らした。


「シンファースの一族は、代々双子の女神、大地の女神『ウルス』と天の女神『ハリア』の加護を受けてきた。一族を率いていたのは、女神の声を聞き、その力を身に宿すことが出来る巫女長だ。フィオの母親は、シンファースの最後の巫女長ロマリーナであり、フィオはその血を引く次期巫女長たるべき存在だ」


「巫女、長?」


 全く知らなかったと、フィオリーナは兄のカーライルを見やる。

 カーライルの代わりに、セツリが答えを口にする。


「フィオの頬から身体へと刻まれた紋様は、シンファースが崇める女神の力を表す、あらゆる精霊の恵みだ。ただし、その恵みはあらかじめ一つだけ欠けている。それが、戦いとその勝利を齎す『狼』だ。『狼』は、女神の力を宿す巫女長を守り、戦う存在であると同時に、巫女長を通して女神の力を具現化することの出来る存在でもある。昨夜、キースが戦いの中で感じた不思議な力は、フィオを通して得た女神の力だ」


「女神の、力?」


 何だか良く理解出来ないと首を傾げたキースに、セツリは本来なら、フィオリーナは戦士たる『狼』に守られるはずだったのだとため息をついた。


「本来なら、次期巫女長が生まれた時に、一族の中から二人の戦士を選び、『狼』を授けるんだが、クフェルの侵略を受けたために、シンファースの男たちは皆、死に絶えてしまった」


「だから、キースを選んだというわけか」


 カーライルの言葉に、しかしセツリは首を傾げた。


「だから、というわけではないかもな。結局のところ、そういう運命だったのだろう。ロマリーナは、シンファースが滅びることを知っていたのだし、フィオの父としてウィルランド陛下を選んだということは、フィオがラーゼルに生きることを知っていたからだ」


 当時、巫女長の地位を継いだばかりだったロマリーナは、度々国境に押し寄せ、服従を迫るクフェル軍との交渉が決裂するだろうことを予感して、ラーゼル軍と秘密裏に繋ぎをつけた。

 その時、国王の代理として国境の砦に滞在していた王太子のウィルランドと会ったのだ。

 他部族との繋がりを極力避け、独自の文化と血を守ってきたシンファースにあって、他民族、他の神を信奉する者と繋がることは、歓迎されぬことであるため、ロマリーナがウィルランドと会ったことは、ごく限られた者しか知らなかった。

 セツリは、その限られた者の一人であったが、ロマリーナの本意を知ったのは、ウィルランドの子を身篭ったと告白された時だった。


「ロマリーナは、シンファースが滅びることを予言していた。だから、その血を遺すため、女神の力を守るために、己の分身として、女神の力を受け継ぐ者を産むことを決めたんだ。その相手に、ラーゼルの王子を選んだのは、その庇護を期待してのことだろう。ロマリーナがフィオを産んで直ぐ、平和は打ち破られた。クフェルが森を焼き払い、一族は皆殺しにされた。俺はフィオを連れてラーゼルまで命からがら逃げ延び、ウィルランド陛下はロマリーナの遺言を果たすべく、俺とフィオを匿ってくれたんだ」


「でも、セツリ。あの、本当に、私は陛下の……?」


 自分の出自を知ったフィオリーナは、自分が実際ウィルランドの娘かどうか疑わしいと、青ざめた表情で呟いた。


「未だに、フィオが本当にウィルランド陛下の血を引いているかどうか、疑わしく思う者は多いけど、それだけは本当だろうな。だって、フィオはロマリーナよりウィルランド陛下に似ているから」


 セツリは、疑いようもないだろうと笑う。

 カーライルも、その通りだと大きく頷いた。


「でも、そんな御伽噺みたいな話が本当だとしても、何のために巫女長とか、戦士とかが必要なんだ? ただの形式なら、別に今更どうこう言わなくとも……」


 キースが、自分にはさっぱり理解出来ない話で、先行きが見えないと訴えると、セツリは真顔になって呟いた。


「女神の力は、必ずしも良き事にのみ使われるとは限らない。悪しき目的のある者が、その力を手にすれば、世界を滅ぼすことも可能だ」


「世界を滅ぼす?」


 いきなり話が大きくなったと驚いたキースは、具体的に何が起きるのかと問いかけようとしたが、リーゼンラールがそれを遮った。


「どれも、おまえらの都合だろうが。女神の力を誰がどうしようとキースには関係ない」


「そうはいかない、リゼ。キースの紋様は消せない。大体、俺が授けた紋様のお陰で、キースは英雄になったんだし、無敵なんだ。俺が紋様を授けたから、キースはこれまで生き延びることが出来た。十年も猶予を与えたんだ。いい加減、こっちのために働いてもらう」


「勝手なことばかり言うな」


「勝手なことを言っているのはリゼだ。キースとローザを想うおまえの真っ直ぐな心根に絆されて運命の輪を止めたことで、こちらの有利に働くことなど、一つもなかった。邪法ではないが、本来ならすべきでない取引をしたことは、間違いない。そのせいで、ややこしくなっているんだし、いよいよ本気にならないと、マズイんだよ。昨夜だって、キースがすべての力を手にしていたら、あんなに苦戦しなかった。潮時だ」


 リーゼンラールは、冷たい表情のままセツリを見下ろしていたが、その濃紫の瞳が揺らぐのを見て、キースは昨夜から引っかかっていた疑問を、今こそ問い質すべきだと、口を挟んだ。


「セツリ。兄上とした取引って、何だ?」


「口を開くな」


 リーゼンラールが、答えることは許さないとその刃を今一度セツリの喉へと食い込ませる。


 セツリは、横目でキースを窺う。


「キースは知りたがっている」


「一言でも漏らせば、このままおまえの口を永遠に封じる」


 リーゼンラールは、冷然と言い放つ。


「兄上っ! 訳がわからないまま、得体の知れない力と付き合うのは無理だ。俺の身体なんだから、何が起きているのか、俺に知る権利はあるし、俺のせいで兄上に迷惑が掛かるのは嫌だ」


「キース。おまえにしては殊勝な心根だが、既に山ほど迷惑を被っているから、今更多少のことでは迷惑とすら思わない」


「兄上っ!」


 いつでも、自分の尻拭いをしてくれていたリーゼンラールが、何を代償として支払っていたのか、そこに恐ろしい秘密があるのではないかと思うと、目を逸らすことはしたくないと、キースは訴えた。


「リゼ。紋様に傷が入れば、その効力は失われる。昨夜、左腕に傷を負っただろ? もう、元に戻すことは出来ない」


 セツリは、その指でリーゼンラールの剣に触れると、静かに告げた。


「紋様だと?」


 その言葉を真っ先に聞きとがめたのは、カーライルだった。


「セツリっ!」


 リーゼンラールがそれ以上言うなと剣を押し込もうとした瞬間、セツリの身体が消えた。

 一瞬で姿を鳥へ変えて逃れたセツリは、窓辺に舞い降りると再び人の姿を取る。


「十年前、俺は道端で出会ったキースに、紋様を授けるべきだと直感したが、本当のところはかなり不安だった。シンファースの血を引かない人間に、上手く定着しないかもしれない。だから、しばらくキースの様子を見て、駄目だったら可哀相だけど始末しようと思っていたんだ。暴走した力は、本人だけじゃなくその周囲も巻き込むから。実際、そうなりかかったんだよ、キース。多分、何も覚えてないだろうけど」


 キースの脳裏に、空白である記憶の断片が過ぎる。

 どうしても繋がらぬ自分と父ライオールとの出会い。

 母の不在。

 ファレスの館へ来た時の記憶。

 曖昧で、思い出せぬそれらの事実の向こうにある何か。

 必死で手繰り寄せようとするキースの耳に、まるで深刻さを感じさせないセツリの飄々とした声音は、どこか現実離れして聞こえる。


「紋様の力を、器である身体の限界を超えて使えば、耐え切れなくなる。十年前、キースはそうなりかかった。でも、その時、キースの中の力を一時的に受け入れる別の器を用意して、キースを助けることが出来た。でも、一度他人に授けられた力を別の人間が受け入れるのは、それはもう難しいことなんだ。俺だって、そんなことやった経験ないし、勧めたくもなかった。自分に馴染まぬ異形の生き物を身の内に飼うなんて、想像しただけで恐ろしいから」


 異形の生き物。

 ドクン、と心臓が跳ね上がり、キースはリーゼンラールを見つめた。

 熱に浮かされ、痛みに転がりまわる自分を誰かが、抱き締めていた。

 母とは違う、硬い腕と胸の感触。


『俺が、引き受ける』


 助けてと、しがみ付いた人は泣き喚く自分に、大丈夫だと囁き続けていた。


『俺が、預かる。だから、死なせない』


 遠くから聞こえる悲鳴のような泣き声は、母のものだろうか。


『大丈夫だ。何も心配いらない』


 熱くて、痛くて、切り離したい右腕に触れる大きな手が、硬く握り締められた手に重ねられ、不意に痛みが消えた。

 今まで自分の身体を苦しめていたものすべてが、消えた。

 涙でぼやけた視界。首を巡らせた先に見えたのは、今と少しも変わらない濃紫の瞳だ。


「腕……兄上……昔は、左利きだった」


 キースは、何故か今まで忘れていた、初めてリーゼンラールと出会った時のことを思い出した。

 ファレスの館に来るずっと前から知っていたのだ。

 悪ガキだった自分を容赦なく叩きのめしたリーゼンラールは、確かに左手で剣を使っていた。

 神童と呼ばれているらしいと、母は自分の息子でもないのに自慢していたのだと、キースは遠く霞んでいた記憶が生々しく甦るのを感じ、額を伝う冷えた汗を拭うように手で覆う。


「人が神の意図を曲げるために支払う代償は様々だ。ある者は命を捧げ、ある者は富を捧げ、ある者は己に与えられた才能を捧げる。捧げたものの大きさで、神はその者の願いをどれ程聞き届けるか決めるというけれど、俺に言わせれば、シンファースの女神はリゼを気に入ったから、十年もの猶予をくれたんだ。そうでなければ、腕一本で十年はないな」


「セツリっ!」


 余計なことを言うなと怒鳴るリーゼンラールに、セツリがひらりとその手をひと振りした。

 突風が吹き抜け、白い鳥がリーゼンラールの左腕を掠めた。

 その嘴が引き裂いた袖の下に見えたのは、白い包帯だけではなく、深紅の紋様だ。

 キースは、リーゼンラールの気が一瞬殺がれたところで、駆け寄るようにしてその腕を掴むと、袖を引きちぎった。


「キースっ!」


 腕を振り払おうとするリーゼンラールを押さえ込み、鍛え上げられた腕に刻まれたものを間近で見たキースは、そこにセツリやフィオリーナ、そして自分が持つ紋様の美しさではなく、禍々しさを感じた。

 まるで、刃物で傷つけたかのように深く荒々しく刻まれた紋様は、そこからリーゼンラールが受けたであろう苦痛を象徴しているようで、ただ黙ってその腕を握り締めるしかなかった。


「……おまえが、騎士にならなかったのはそのせいか?」


 カーライルの問いに、キースははっとして顔を上げた。

 まともにぶつかったリーゼンラールの濃紫の瞳には、苛立ちが滲んでいたが、歯軋りもこめかみの青筋もなく、厳しく引き結ばれた唇からは諦めたようなため息が漏れただけだ。


「違いますよ。元々、騎士になるつもりはなかったんです。ただ、そんなことをうっかり口走れば、父だけでなく煩い祖父にも猛反対されると知っていたので、卒業間際まで黙っていた。王立学院の騎士課程に入る時から剣は右で、それで首席だった以上、剣の腕に問題はなかった。今でも、左が使えないわけじゃないし、必要があれば、左で戦いますよ」


「本当か? セツリ」


 今となっては、リーゼンラールの言葉を額面どおりに受け取るのは問題だというようにカーライルが念を押すと、セツリは肩を竦めた。


「問題は、使った後だからね。ま、数日間、激痛を七転八倒して乗り切ることになるってことだよ。でも最近じゃ、随分慣れて、ちょと具合が悪いくらいで誤魔化せるみたいだけどね」


「人間は、どんな状況であれ、その内慣れる」


「慣れるって……そういう問題じゃないだろっ!」


 キースが、思わず叫ぶとセツリは苦笑した。


「まぁね。普通の人間なら絶対無理だけど、リゼの精神力は見上げたものだからさ。ま、それもこれも、キースが可愛いから我慢出来たってことだろうけど」


「これが可愛いという代物か? ふざけたことを言うな」


 手を振り払ったリーゼンラールは、キースに忌々しいというような視線を向ける。

 でも、そんな素振りは表面上だけのことだと、知っている。

 自分は、どれ程兄に迷惑を掛け、どれ程守られていたのか、今まで何もわかっていなかったのだと、キースは項垂れた。

 あの薄汚い街で知り合ったときからずっと、自分と母は、リーゼンラールに助けられ、守られていたのだと思うと、嬉しいというよりも苦しくなった。

 リーゼンラールは、騎士としての輝かしい未来も、神に与えられた剣の腕も、父ライオールの期待さえも投げ打って、神が自分に用意していた運命を変えたのだ。

 ただ、自分を救うために。

 その優しさに、その愛情に、自分が値する存在とはとても思えず、リーゼンラールが行った取引を無効にしてくれと懇願したくて、キースはセツリを見た。

 窓辺に腰掛けたシンファースの彫師は、年齢不詳の顔にそれは出来ないというように首を振った。


「キース。これから起きることを捻じ曲げることは出来なくもないけど、過去に起きたことはどうあっても変えられない。リゼの腕を元に戻すことは無理だ」


「でもっ……俺が、ちゃんと引き受ければっ」


「これまでのような苦痛は、なくなるとは思うよ。でも、完全に元通りにはならないし、綺麗さっぱりなくなるというものでもないだろうね」


「でもっ」  


「キース。これは、俺が決めた取引だ。おまえが口を出す必要はない。騎士になるつもりはないから、右で十分だと判断したんだ。今でも、その選択を後悔はしていないし、この先も後悔することはない。俺がどう生きようと、それは俺の決めた道だ」


 リーゼンラールには、決めたことを貫く強さがあることは知っているが、だからといってすんなりそうなのかと頷くことは出来ず、キースはぐっと唇を噛み締めた。

 何も出来ない自分が情けなかった。

 今まで、何一つ兄のくれた恩に報いることが出来ずにいることが、情けなかった。


「ご、ごめ……あに、うえ……」


 泣くなと自分を叱咤するものの、涙は勝手に溢れ出し、せめて声を上げるのは堪えようと思うのだが、リーゼンラールと出会ってからのことが次々と思い出され、耐え難い痛みが胸を締め付ける。

 だが、泣き崩れそうになったところで、いきなり拳が脳天に降ってきた。


「いっ!」


 あまりの痛みに涙も止まる勢いで顔を上げると、リーゼンラールが眉間に深い縦皺を刻んでいた。


「泣くな、この馬鹿っ! 本気で俺に申し訳ないと思うなら、立派な騎士になれ。そして、シンファースの女神が与えた力で、フィオリーナ姫を守るために戦え。おまえの剣は、誰かを殺めるためにあるのではなく、誰かを守るためにある。その誰かを見つけたのなら、もう迷うことはないはずだ」


 振り下ろされた拳は開かれて、大きな手がぐしゃぐしゃと髪をかき回す。


「俺を心配するなど百年早い。大体、おまえは俺に一度でも、勝てたことがあるか? 俺に、右の剣では不足だと思わせられるようになってから、生意気な口を叩くんだな」


 確かに、自分はリーゼンラールに勝てたためしがないと、キースは素直に頷いた。

 それを見たリーゼンラールは、ふっと険しい表情を緩め、笑みを浮かべた。

 昔、勉強や剣で、リーゼンラールが求めることが出来たとき、たまに見ることが出来た満面の笑みを久しぶりに見た嬉しさで、自然とキースの頬にも笑みが浮かんだ。


「実に美しい兄弟愛だな」


 緊張感のない声で、二人の遣り取りに割って入ったのはカーライルだった。


「キースが妹だったりしたら、危ない展開だな」


「まったくです」


 予想外に同意したのはエドワードだ。


「何が危ない展開だと?」


 笑みを瞬時に消したリーゼンラールがぎり、と歯軋りする。


「いや。別に。何でも」


 カーライルは、引き攣った笑みを浮かべて首を振る。


「ところで、この惨状をどうするつもりだ?」


 引っくり返ったテーブルを示したカーライルに、サラは憮然として言い放つ。


「あたしゃ、片付けないよ」


 リーゼンラールは、物騒な面持ちでセツリを見やると冷たく吐き捨てた。


「おまえの仕事だろう? 詐欺師」


 セツリは、壊れかけたテーブルの端に触れ、ちょとした呪文らしきものを唱えて巨大なテーブルを元通りにし、リーゼンラールの破れた袖も同じように元通りに復元した。

 まるで、たった今あったことすべてが夢だったかのような状態に、キースたちが唖然とする中、カーライルは一件落着だと手を打ち、厨房から一連の様子を見ていたジェファスがようやくデザートのパイを持って現れた。


 そして、この事態を招いたセツリは大して気にしている様子もなく、あっけらかんとジェファスのパイを褒めちぎり、お替りまで要求したのだった。


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