世界が変わった日
ポヨン。
ポヨン。
俺はなぜかゼリーみたいな体になって跳ねている。重力に逆らわない、奇妙な浮遊感。ふわふわと、何の支えもない不安定な世界。
ここは何処だ?
その日、俺は死んだ。
そして、スライムになった、らしい。
記憶はまだ鮮明に残っている。俺は突然現れたモンスターに殺された。いきなり空に走った亀裂、そこから溢れ出した異形の群れ。逃げ遅れた俺は、骨すら残さず食い殺されたはずだ。
気がつけば、病院でも家でも無い。薄暗い路地裏だった。崩れかけたコンクリートの壁、砕かれたガラスの破片、そして遠くから聞こえる獣のような咆哮。
自分の体を確認する。プルン、と全体が震えた。
手がない。足もない。
視界は低い、まるで地面に這いつくばっているかのようだ。青い半透明の塊。自分の意思で跳ねると、ゼリー状の体が弾力を帯びて波打つ。
どう見ても、ファンタジーに出てくる最弱モンスター、スライムだ。
空に巨大な亀裂が走って、そこから現れた無数のモンスターによって街は一夜にして変わった。テレビのニュースどころか、自衛隊すらまともに機能しない壊滅的な状況。
世界は、もう俺が知っている世界じゃ無い。
そんな絶望的な状況で、俺はスライムとして目を覚ました。
最弱モンスター。
攻撃力も防御力もない。言葉も話せない。まともに触れられれば一溜まりもない。
終わった。2度目の人生も、いやスライム生もすぐに終わりを迎えるだろう。路地裏の陰で、誰にも気づかれずに乾燥して消えるか、大型モンスターの餌になるか。
そう思った。
「モンスター?」
女の子の声がした。
聞き覚えがある声だ。
俺の体が、意思とは無関係に、ポヨンと跳ねる。
振り返ると、そこに立っていたのは、栗色の長い髪を後ろで括っている可愛らしい女の子。
同じクラスだった女の子。俺の好きだった女の子、田口美穂だった。
制服は汚れ、頬には煤がついている。肩を震わせ、恐怖に濡れた瞳で俺を見下ろしている。
「スライム…なの?」
彼女は怯えながら、おずおずと俺に手を伸ばしてきた。
「私のスキル、テイムが使えるかも…」
俺は心の中で叫んだ。
(田口さん! 俺だ! 小野秀治だ! 君のクラスメイトだった、君のことが好きだった高校生だ!)
そう言おうとして、喉——なんてものはないが、体の奥から振動を絞り出した。
出た音は、空気が抜けるような「ピーッ」という間の抜けた音だけだった。
声が出ない。言葉にならない。
田口美穂は、俺の頭上——つまり半透明の体の上部——に手をかざして、祈るように呟いた。
「お願い、私の仲間になって。私を守って…テイム!」
次の瞬間、俺の体を淡い光が包み込んだ。
【テイムが成功しました】
脳内に直接響くような、無機質なシステム音声。
俺は、好きな女の子にテイムされた、最弱のスライム。
「よかった…」
美穂はその場にへたり込み、安堵の息を吐いた。
「仲間になってくれて、ありがとう」
俺は必死に彼女に近づこうと跳ねた。
ポヨン。ポヨン。
(違うんだ、田口さん! 俺はモンスターなんかじゃない、秀治なんだ!)
「ピーーッ!」
またしても間抜けな音が響く。情けない。あまりにも情けない。
美穂は目を丸くして、俺の体を覗き込んだ。
「えっと…あなた、名前、あるの?」
(あるよ! 俺だよ!秀治だよ)
「ピーッ、ピーーッ!」
俺は必死に音を重ねる。肯定の意味を込めて、プルンプルンと体を震わせた。
美穂は首を傾げながらも、俺の震えを何とか読み取ろうとしてくれる。
「わからないけど…なんだか、返事をしてくれてるのかな?」
「ピー!」
「あ、うん。なんか反応したね。えっと、あなたは私の仲間なんでしょ? なら、名前…決めなきゃ」
俺は呆然とした。名前? 俺には小野秀治という立派な名前があるだろう。それを無視して新しい名前を付けられるのか?
美穂は困ったように頬を指でつつく。
「えっとね、私、ずっと犬を飼いたかったんだ。だから、ポチってどうかな?」
(勘弁してくれ! 俺は犬じゃない! 高校生の男なんだよ!)
「ピーーーッ!!! ピーッピーーッ!!」
俺は猛烈な勢いで跳ね回った。ポヨンポヨンと激しくバウンドして、拒絶を示す。
「わ、わっ! いきなり元気! ダメなの?えっと、スライムだし…マイク? ミント?」
(それも違う! 秀治だよ! シュウジ)
「ピー、ピー、ピー!」
俺は一定のリズムで跳ねて、何とか言葉のリズムを伝えようとする。
美穂は目を瞬かせて、俺の跳ねるリズムを指で数え始めた。
「ピー、ピー、ピー? 3回? ヒ、ト、ミ…ヒトミ? あなた、ヒトミなの?」
(全然違う!)
「ピーーーーッ!」
長い悲鳴のような音を立てて、俺は地面にへたり込んだ。コミュニケーションが取れないもどかしさに、心が折れそうになる。
美穂は「ごめんね」と言って、そっと私の体を指先で突いた。
プニッ。
信じられないくらい柔らかい感触。そして、美穂の指先の体温が、直接俺の体に染み込んでくるような感覚。
「変なの。あなた、すごく温かいね。スライムって冷たいイメージだったけど」
美穂は優しく微笑んだ。ああ、その笑顔を見るだけで、俺の心はどうにかなりそうだ。
「仕方ないなぁ。名前、わからないなら、私が呼びやすい名前にするね」
(まさか、ポチに戻るのか?)
「えっとね…ピーちゃんでどう?」
(ピー。まあ、秀治じゃないけど、ポチよりはマシか、もうそれでいいや)
「ピー」
俺は短く鳴いて、小さくポヨンと跳ねて同意を示した。
美穂は安堵したように胸をなでおろす。
「よかった。ピーちゃん、これからよろしくね。私、田口美穂って言います。えっと、高校生…だったかな」
彼女の瞳に、ふっと寂しさが過る。世界が壊滅した現実が、彼女の細い肩にのしかかっているのがわかった。
俺は、この子を守らなきゃいけない。たとえ俺が最弱のスライムでも、彼女のそばにいて、彼女の力になりたい。それが俺にできる、たった一つの存在意義だ。
「ピーちゃん、お腹空いてない? 私、少し食料持ってるんだけど、スライムって何食べるんだろう」
美穂はポケットから、少し潰れたチョコバーを取り出した。
(食べる! チョコ大好きだったんだ!)
「ピー!」
俺は元気よく鳴いて、彼女の手元へ跳ねていった。
「えっ、これ食べるの? あ、でも、テイムしたから私の魔力で養えるはず…」
彼女はチョコバーを少し千切って、俺の目の前に置いた。
手がないからどうやって食べるんだ? 俺は戸惑ったが、試しに体を被せてみることにした。
プルンと体を広げて、チョコを包み込む。
すると、体の中でチョコがふわりと溶けていき、俺の体の一部になったような感覚が得られた。
(うまい!)
「ピピーーッ!」
「わっ、ちょっとびっくりした。そんなに嬉しいの?」
美穂ちゃんはくすくす笑った。「よかった」
その時だった。
「グルルル…」
路地裏の入り口から、低い唸り声が響いた。
美穂の顔から血の気が引いていく。
「嘘…また、来た」
入り口に立っていたのは、俺を殺したのと同じ種類のモンスターだ。牙を剥いた、犬ほどの大きさの獣。
俺は本能的な恐怖に震え上がった。最弱のスライムだ。こんな奴に勝てるわけがない。
でも。
俺の後ろには、美穂がいる。
「ピーちゃん、逃げて!」
美穂は叫んだ。
「私がいなくなれば、スライムなんか見向きもしないはずだから!」
(何言ってるんだ! お前を置いていくわけないだろう!)
俺は彼女の前に躍り出た。
ポヨン、と小さく跳ねて、精一杯の体を震わせて威嚇する。
「ピーーーッ!!」
獣は俺を見て、鼻を鳴らした。まるでゴミを見るような目だ。一瞬の迷いもなく、俺を無視して美穂に飛びかかろうとした。
その瞬間、俺の体の中で何かが弾けた。
守らなきゃいけない。美穂を。
強い感情が、俺の青い半透明な体を激しく震わせる。
プルルルルッ!
俺は跳ねた。獣の鼻先めがけて、渾身の力で体を弾き飛ばした。
「ガッ!?」
獣は鼻を俺の体に打ち付け、驚いて後退りした。
スライムの体は衝撃吸収材みたいなものだ。獣の牙も爪も、プニプニした体に受け止められて、致命傷にはならない。
(今だ!)
俺は獣の顔面に張り付いて、視界を奪おうとした。
「ピーーッ!!」
「ピーちゃん!」
美穂の声が響く。
「今だよ、逃げよう!」
俺は獣の顔からプルンと剥がれ落ちて、美穂の手の中に着地した。
美穂は俺を胸に抱きしめて、路地裏の奥へと走り出した。
心臓の鼓動が聞こえる。彼女の温かい体温が、俺の全身を包み込む。
ドキドキと速まるリズム。俺は今、美穂に抱かれている。
「ピーちゃん、ありがとう。助けてくれて」
息を切らしながら、彼女が呟いた。
「スライムなのに、すごく勇敢だね」
(俺は、お前を守りたいんだ)
「ピー」
俺は彼女の腕の中で、小さく震えて応えた。
路地裏を抜け出し、何とか獣を撒いた頃には、空は茜色に染まっていた。
廃墟となったコンビニの影で、二人(一人と一匹)は息を潛めて座り込んだ。
美穂は俺を膝の上に乗せて、優しく撫でてくれる。プニプニとした感触を楽しむように、指先で俺の体をつつく。
「ねえ、ピーちゃん」
「ピー?」
「あなた、なんだか人間っぽいの。ただのモンスターじゃないみたいな気がする」
俺はドキリとした。
(気づいてるのか?)
「ピー…」
「私ね、テイムした時、あなたの気持ちが少しだけ流れ込んできたの。すごく、優しくて、切ない気持ち。誰かを想うような、温かい気持ち」
美穂は遠くを見るような目で呟いた。
「ねえ、もしかして…あなた、元々人間だったりしない?」
俺は答えに窮した。今の俺に、肯定も否定も言葉で伝えられないからだ。
ただ、俺は精一杯体を震わせて、彼女の指にすり寄った。
プルン。プルン。
「…ふふ、なんか、甘えてるみたい」
美穂は微笑んで、俺を両手で包み込んだ。
「わからないけど、あなたが私の味方だってことはわかる。だからね、ピーちゃん」
彼女の瞳が真っ直ぐに俺を見る。
「私を守って。この世界がどうなってるのか、確かめに行こう。一緒なら、きっと大丈夫だよね?」
(ああ、もちろんだ。俺は君のスライムだ。君が望むなら、どこへでも行く)
「ピピーーッ!」
俺は元気よく鳴いて、彼女の手のひらの上でポヨンと高く跳ねた。
美穂は驚いて目を丸くした後、花のように笑った。
「はい、よろしくね! 私の相棒!」
言葉は通じない。俺は最弱のスライムだ。
でも、この手のひらの温もりだけは、確かに感じている。
俺の2度目の人生は、スライムとして、彼女を守る冒険の物語として始まった。
ポヨン。
ポヨン。
俺は今日も、彼女の隣で跳ねている。




